山本勝市の発言 (大蔵委員会税制に関する小委員会)
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○山本(勝)小委員 その点将来研究されるときに、こういう点も私は研究してもらいたいと思うのですが、田畑の方が割合に少くて、宅地の方が多いというような話でありました。農村の宅地と都市の宅地というものは、性質が違うと思う。農家の宅地というのは、農地に付属したものです。実際の耕作地から離れられぬものである。その耕作地というものは、自由に売買できないような建前になっておる。従って農地の宅地というのは、売るということを予想しないものです。それは、売る場合もあり得るでしょう。百姓をやめて、売って、よそへ行くという場合もあり得るでしょうけれども、原則としては、農家の宅地というのは、農地にくっついたもので、売るという場合を予想しない。そこで、こまかな問題になってきますけれども、農家の宅地の再評価ということは必要のないものである。農家の宅地を再評価して、現実の問題として方々に起っている例を申しますと、非常なアンバランスを生じてき、はせぬかと思うのは、公用徴収ですね、堤防を広げるとか、道路を広げるとかいったときに、そこにあった農家の宅地が引っかかって、そこを買収される。しかし耕地から離れることができないものですから、その近所にまた宅地を造成して、そこへ移ったという場合に、今大蔵省の方針では、これまでの賃貸価格の三千何倍とかいうようなことで評価しておった。ところが、実際は二十万とか二十五万とかで買収されたら、それだけは価値が上ったのだから、再評価税として百分の六をかける、こういうことになっております。それがもしおくれたら、利子も取るということになって、方々で起っていることです。実際むずかしい問題になっておるのは、余分なことですけれども、建設省が、宅地を買収するときに、これは手取りの金だ、税金はかからぬのだというような説明をして調印しておる。それが後になって、なるほど譲与所得税はかからぬということになっておるけれども、再評価税はかかるのだ、取らぬという方法はないのだということで、事実上非常にもめている場合が多いと思うけれども、そのときにどうして再評価税を取るのかというと、やはりそれだけ価値が上ったのだ、そして将来売る場合にはそれだけ高く売れるのだから、こういう説明をされるのです。その場合に、私は先ほど申した通り、農家の宅地というものは、売った場合に高く売れるというけれども、そういう場合があり得るというだけのことであって、事実上耕地にくっついたもので、耕地が自由な売買もできない。制度もそうなっておるし、事実また売るなんということは全然予想していない。そうすると、ただ帳面ずらの上で上ったというだけで、その再評価税というものを払うのが、ただ建設省にだまされたということ以外に考えられない。それからその上に、しかもそういうたまたまひっかかったところは再評価をしておるから再評価税も払い、再評価されたことになる。今度はそれが相続にぶつかってくる。すると、そういうところにぶっからぬ境、ほかのところは再評価していないものですから、従来の賃貸価格の、今年は三千六百倍ですが、これまでは三千百倍ということで相続しておる。一方はそれから十倍も十五倍も高い価格で相続するということで、相続税の上にも非常なアンバランスが現実に生じてくるのです。そのことも、再評価税を払う者の心配の種になってくるようです。これは、相続税直後の問題ではないけれども、それに関連した問題として、農家の宅地についての考え方、再評価税をかけるという場合の方針も検討してもらわぬと、単に再評価税を払うか払わぬかだけの問題ではなしに、将来相続税の問題にひっかかってくる。これは、現実に私がその問題に二つ三つひっかかって、とうとう裁判所まで持ち出したような事件があるのです。これは、参考になることがありましたら承わりたいし、そうでなければ別に御答弁は求めません。将来研究のポイントに入れてほしいということです。
それからもう一つ、こういう考え方はないですか。遺産相続の場合起ってくることかもしれぬが、たとえばイタリアのムソリーニの時代に、今はどうなっているか知りませんが、親が子供に相続させるということは、他人にやる場合とは違う。この中でも、今の相続税というものが、無価で、取得した者にかけるという建前になっていますが、親から子供がもらう場合というのは、わけがわからぬ他人からもらったとか、あるいは全然行き来していなかったところから、たまたまそれが外国におって死んで、来たとかいうふうな場合と、そうではなしに、同じ家にずっと住んでいて相続する場合とは違うという考え方も一つ立ちます。つまり親のものは子のもの、子のものは親のものということは——夫婦もそういう関係がありましょうが、これは私は必ずしも封建時代だけのものでなくて、外国でも、妻の特有財産だとか子供の特有財産だとかいうものが、争いが起ったときの用意として、法律上規定はありましても、実際の生活は、いずれの国に行っても、親が自分の子と一緒に暮して、それでこれはお前の茶わんであるのだ、お前にやったのは無償でやったのだとか、無償でもらったのだとかという、そんなことは実際問題としてありはしない。その実際は、親子一緒に住んで、同じ釜のめしを食っておるのは、それはいわば共産的な——言葉はおかしいが、それは無償で受けたんだ、だから税金を払うのがあたりまえだ、こういう考え方は、私は多少考える余地があると思う。親と子というものは切っても切れぬもので、十カ月間自分の身体にくっついておったし、また腹から離れても、子供が死ねば、親はもう自分が死んだような気になるので、それを親が死んだとたんに、悲憺にくれておるときに、無償でもらったんだからというので、税務署がやってきて、庭の木から鶏まで検査して持っていくなどということは、どうも実際にそぐわぬ。現実の家庭生活というものは、そういう一体的なものであり持続的なものである。断絶を許さぬ。それは富の分配ということは考えなければならぬから、そこで、大きな相続は私は将来一代限りにしてしまって、たとえば五百万とか一千万とかいうもの以上は相続をさせないで、全部国のものにして、それに対して褒賞制というものをしいて、そうして本人の蓄積の努力を将来も持たせるように、たとえば何千万円という相続税を納めた人には勲一等をやるとか、あるいは一年に一回は無料で伊勢参りに連れていくとか、それは一種の功績ですから——金として蓄積するからたまっていくのですから、ためようのない無形の褒賞制をしいて、これは一代限りにした方がいい。そうでないと、何代も続いていって、めかけの三人も四人も置いてて、ゴルフばかりやっておっても財産は減らぬということで、子孫のためにもよくないから、それは一代限りでもいいと思う。だから、相続税そのものに反対するのではなく、むしろそういう少し極端な考えは持っておるのです。しかし、小さな家業として営々としてやっている者が、親が長くわずらって、その間自分が働いて、ごちそうを食べさしたり、あるいは医者にかけたりして来て、そうして死んだとたんに、今度は、これは無償でもろうたのだからというので相続税をかけられる。それなら親に飲ました薬代なんかは書いて出したらいいじゃないかということは、実際上できるものではない。何しろ実体が非常に間違っておる。その実体を税制によって改革していくんだという理想なら、これは一つの考え方。しかしながら、実体そのものをさらに続けていこうという政策を、安定した経営を持続さしていこうという方針を一方でやっておりながら、税制でこれをぶちこわしていくということは——これは、私きょう一日で何もかも申し上げるつもりはないのですからね。しかしきょうの出席者はあまりおりませんけれども、これは実際一人々々にかかるものですからそのままになっておるのでありまして、一つの府県が一ぺんに相続税がかかってくるということだったら、とても黙っていません。ですから、これを変えることは朝令暮改の何があるから、現行制度がいいなんということを第四項に書いているのですけれども、これはそうじゃなしに、早く変えた方がいいので、非常におそいのです。これは、おそらく私の議論が間違っておるという人は、一人もなかろうと思うのです。そういう点も、実態にいかにそぐわぬか、その実態が改むべき実態か、むしろ持続すべき実態かということを検討して、持続すべきものであれは、その障害は除く、しかも金額としてことしは三十億をこえていますけれども、私に陳情した某税務署長は、わずか三十億だからこんな税は全部なくしてくれという陳情です。めんどうさ、不公平や何かからいうと、この税はもうなくしてしまった方がいいというないしょ話すらするぐらいに、徴税する税務署長が言っておる。納める人は泣いておるということも、よく一つ原さんのみ込んで、この現行制度がいいなんという理論はどれ一つ見ても空漠たるもので、実際を知らぬような議論です。三だの四だのというのは、取ってつけたような議論です。富の公平な分配などというのは、実際大きなところが蓄積していて、遊んでおっても食えるような場合のことを考えるべきだ。こんなものは取ってつけた議論です。時間もないから、私はあまり多くは言いません。