「坂野潤治」の過去の国会発言

発言数 33件

初発言日: 2003-05-08  /  最新発言日: 2003-05-08  /  1 ページ目 / 全体 2ページ

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2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 幕末維新、明治維新をつくるときにどうだったかという話と、それが明治憲法にどうかかわって、それがあの戦争にどうかかわったかと。先生のおっしゃっている、七十年、八十年の話を一つの論理で見つけようとなさっている。 私どもはそういう発想をしないで、まず、幕末維新から憲法ができるまでどんな構想があったか、そのうちのどれとどれの合体で明治憲法になったかというふうに考えて、その明治憲法の運用の中で出てくる変化は、その後の歴史を勉強し

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 時間が四十分ですので、早速話させていただきます。 一番目に「普通の憲法成立史」と書いて、aとbと書いてありますものは、実は、事務局がおつくりになった明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料の二十七が基本的にこれでできておりますので、細かい中身には入らないで、問題点だけを指摘して、私がなぜ、二以下、こういう構成で物を言うかの説明だけをさせていただきたいと思います。 aの方は「民権派の憲法史」でして、明治七年一月七日に板

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 先ほども御説明申し上げましたように、統帥権だけは美濃部達吉でも独立を認めています。それ以外のもの、例えば軍縮をやるかやらないかは内閣がやれるというのが美濃部憲法学ですし、伊藤博文自体もそういうふうに言っております。 そうすると、問題は、現地軍が行動を起こしたときに、さっきの史料でありましたように、関東軍司令官は全部天皇に直隷するという明治憲法の解釈になっていますから、一番リベラルな吉野作造さんを除くすべての人がそういう

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 私はきょう、明治憲法の実際のメカニズムについて詳しく説明しました。だから、そのことから、戦後の憲法、あるいは今どういう憲法にするかという問題については、参考人として戦後日本国憲法の専門家をお呼びになったときにお話しいただきたい。 それと同時に、さっきから言っていますのは、条文ではなくて、天皇のもとには参謀本部も関東軍もある。天皇のもとには内閣総理大臣も外務省もある。だから、天皇ひとりが何かできるという考え方は、およそ憲

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 申しわけないけれども、ちょっとそれについてはっきりした知識を今持っておりません。 ただ、おっしゃっているように、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という第一条がありながら、第四条で元首をつくった。それは、何となく僕の感じでは、一種の天皇機関説的なもの、天皇親政ではないのだ、国の元首なんだという感じを第四条から受けます。そして、それだけじゃなくて、さらにこの憲法の条規に従って統治権を行う、もう一遍の縛りをかけています。 だ

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 答えたいですけれども、よろしいですか。 私がここで言いたかったのは、元首という言葉を明治、大正、昭和の人たちが使ったときは、基本的にいわば天皇の独走とか軍部の独走を抑えるためなんです。その言葉を今持ってきて、何らか天皇の権限を今よりも強くするというのは、少なくとも、よしあしは皆様の議論ですけれども、戦前の人々が元首という言葉に込めたものと方向は反対ではないか。 例えば、美濃部さんが昭和五年に一生懸命苦労したのは、天

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 おっしゃるとおりだと思います。ですから、幕末の土佐藩のグループ、坂本竜馬もそうですし、それから、それとは少しずれた格好で、後藤象二郎が大政奉還を将軍にさせる、その背後にも、要するに立憲制で合議制で行こうやという感じをはっきり持っております。だから、坂本竜馬の流れから板垣退助に流れていく。同時に、そのときのことがありますから、木戸孝允たちは明治政府の藩閥政府の長州のあれでありながら、明治七年、八年のときに、土佐の民権派と非常

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 先ほどの報告で言いましたように、明治十四年段階では国会開設期成同盟会だとか自由民権運動というのは国民的な支持を得ていて、その段階でつくったならば、あるいは議会が先になったかもしれない。でも、さっき話すのは落としたんですけれども、明治十四年十月に、明治十四年の政変と言われるものが起こりまして、憲法制定を十年延ばす。といいますか、具体的に明治天皇が約束したのは、一八九〇年、明治二十三年に国会を開くという約束をしたんです。一八八

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 半分非学問的に、半分学問的に答えますと、イギリスの憲法は慣習法で、書いていない。それを書いた場合にどうなるのかというと、割と明治憲法に近くなるんじゃないか。一番近いのは交詢社。交詢社のさっきの私擬憲法。だから、学界の中で、一部ですけれども、明治憲法は、言われているほどのプロイセン型というよりは、幾分、もうちょっとイギリス型に近いのではないだろうかという解釈もあります。 それを言うために、きょうは、井上毅の十四年七月のご

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 七分三分で政治の責任だ。政治の力関係が変わってきて、国際情勢が変わってきて、どうしても、関東軍が満州事変を起こすようなことに対して国民的な支持がいくというものがなければ、統帥権は独立していますよ、関東軍にありますよと幾ら言ったところで、それはつぶされたはずです。ただ、三分というのは、関東軍が行動するときに、憲法十一条は彼らにとって非常に役に立っているわけですね。だから、やはり憲法の規制力というものはかなりな程度ある。

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 先ほど遠藤委員にお答えしたことと反対なことをお答えします。 やはり四分はあるんです。ですから、もし一九三一年、昭和六年以前に、統帥権の独立に対して、憲法学者がみんな頭を寄せて、これを何とか抑える方向をということで、そういう一種の解釈改憲が行われていたら、力関係で七、三で関東軍有利でも、それは憲法、こちらに味方があれば五分五分には持っていける、あるいは抑えられたかもしれない。だから、六、四だったときに、憲法が我に味方する

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 きょうの私の報告のポイントは、いかに解釈改憲がなされていたのかということであって、不磨の大典というのがきょうの報告の意図ではないんです。憲法というものは、一生懸命学者も苦労し、政治家も苦労すればいい方に解釈できるんだ、それで美濃部さんがどこまでやったか、しかし最後にどこまでやれなかったかという話をしたんであって、ですから、制定過程から左右の議論があって、それは当然、できた成文憲法の解釈の幅を持たせている。 だから、憲法

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 おっしゃるとおりですけれども、明治憲法が、明治二十二年二月十一日に、欽定憲法として天皇から国民に与えられたんですね。その憲法に基づいて翌年七月に総選挙が行われて、翌年、先ほど御指摘のように、十一月に第一議会ができた。だから、最初からその意味ではもう負けているというのか、受け入れているわけです。憲法に基づいて総選挙をやっちゃったわけでしょう。それで勝った勝ったと出てきて、衆議院の議席にいるわけですね。これでもってこの憲法を認

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 時間がなくて全部話せなかったんですが、合作の第三の役者が植木枝盛たち自由民権運動の左派ですね、ここに一番人民主権に近い、政権をとるというんじゃないけれども、議会をとって抗し続けるというグループが運動の主体としてかなり大きく持っている。 だから、福沢諭吉や交詢社のグループみたいな中道リベラルが発言力を持つのは、極左がいるというのはいいことなんです。それに対して、これをおさめるためには、我々のようなイギリス・モデルの穏健な

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 どう言ったらいいのかな。伊藤における矛盾の話だと思うんですけれども、どういうふうに説明したらいいかな。要するに、こう言えばいいんです。論証はできないんですけれども、伊藤博文の「大日本帝国憲法義解」とほとんど同じ解釈は枢密院の審議で井上毅がしゃべっているんです。枢密院に出された原案と解釈は、井上毅の手でできている。それで、微妙に違うんです。だから、正式に明治憲法の公的解釈を出すときになって、若干伊藤が手直しをした。大もとは井

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 それをやらなかったのは、答えが最初からわかっているからなんです。基本的人権という考え方は当時にありませんし、政府側としても考えていない。要するに、法律で認められた範囲では言論の自由も、信教の自由も全部あります。ですから、言葉だけでいえば、基本的人権に近いものは明治憲法は認めています。ただし、それは法律の許す範囲内ですから、要するに法律がなきゃだめだ。そうなると、基本的人権の考え方があるかないかという話は、きょう話した立法権

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 大変おもしろいポイントだなと思うんですけれども、こうお答えすれば一番いいんじゃないかな。有権者の数、第一回の議会が開かれたときに、アバウトに言います、細かく言うとあれですけれども、五十万。それで、一九〇〇年で百万、日露戦争後で百五十万、平民宰相原敬のとき三百万、一九二五年、大正十四年で一千二百万。 要するに、憲法なり政治なりにかかわれる、そしてついでに委員が女性ですから言いますけれども、女性は政治にかかわれない、立候補

2003-05-08 衆議院

憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会

○坂野参考人 大変ごもっともな質問なんですけれども、ちょっとパスさせてもらえませんでしょうか。 具体的な民法史の流れと、そこと憲法との関係というのを私、政治史専門なもので、そこまでちょっとはっきりした格好でお答えできないもので。だから、最初、委員が出されたとき、法律とは何を考えていらっしゃるのかなと思ったら、それが民法の話となってくると、確かに、憲法と社会のあれになりまして、一般の法律問題と違いますから、ちょっとそれは申しわけないけ

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