古川喜一の発言 (本会議)

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○古川喜一君 ただいま議長から御報告のございましたとおり、富山県第一区選出議員松岡松平先生は、去る一日逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 私は、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 思えば、本年一月、富山県選出の国会議員と県側との懇談会の席上、松岡先生は、常と変わらずまことにお元気で、濶達な意見を吐かれておられましたのに、それからわずか一カ月有余、先生の計報に接しようとは、全く思いもかけなかったことでありまして、哀惜の念やるかたないものを覚えるのであります。
 松岡松平先生は、明治三十七年十二月、立山連峰剣岳のふもと、富山県上市町にお生まれになりました。少年時代、青雲の志に燃えた先生は、十三歳にして単身上京し、つてをたどって神田の洋服店に入られました。早朝から深夜に至る厳しい労働条件のもとで洋服裁縫の仕事に打ち込まれましたが、かねて持しておられた学問に対する憧憬と、ほとばしる情熱はやみがたく、店を辞して苦学力行、正則英語学校、立教中学を経て、中央大学法科に学ばれました。
 この間、先生は、生活の苦難と闘いながら、民法、刑法、商法などの多くの著書をはじめ、英米法など、外国の文献も次々と読破して、法律学の本質を体得される一方、社会法学、社会主義経済学と、幅広く人文科学の分野にわたって勉学に精進されたのであります。
 やがて、その刻苦研さんが実を結び、大正十二年には、十九歳という全国最年少で、天下の難関たる弁護士試験に合格され、若き法曹として社会へ大きく踏み出されました。(拍手)
 弁護士時代の松岡先生は、つとに逸材として頭角をあらわし、各種の訴訟事件と取り組まれましたが、とりわけ、樺太庁と樺太林業株式会社との間の木材売払代金請求訴訟においては、約七カ年にわたり、心血を注いで会社側の弁護に当たられたのであります。そして、先生は、旺盛な意欲のもとに、緻密な法理論を駆使してこれを勝訴に導かれたのでありまして、すぐれた法律家としての先生の存在は、大きく光彩を放つに至りました。
 また、社会法学に造詣の深かった先生は、これを実践に移して貧しい農民の窮状を救おうと、富山県下における幾多の小作争議に、日本農民組合の顧問弁護士として挺身し、事件を有利に解決するなど、働く農民の指導的立場を貫かれたのであります。
 やがて、先生は、時代の推移とともに事業経営を画策されることになり、昭和十三年、砂鉄製錬事業に着手し、独自の製造技術の開発に成功されたのでありまして、この方面における随一の事業家として、先生の面目躍如たるものがありました。(拍手)
 昭和二十年八月、わが国が有史以来いまだ経験したことのない敗戦に際会したとき、先生は、静かに新生日本の向かうべき方途を熟慮し、政治に参画することを決意されました。これは、先生が確固たる信念のもとに、戦前、戦中を通じて体得された高邁な理想とすぐれた識見、手腕とを政治の分野において集大成させようとするものでありました。
 松岡先生は、戦前から私淑していた鳩山一郎先生を助け、日本自由党の結党準備に寝食を忘れて奔走し、昭和二十年十一月の党創立後も、党の基礎づくりに精魂を傾けられました。
 翌年四月、戦後初の総選挙が行われることになり、先生は、当然出馬の決意のもとに、満を持しておられたのでありますが、告示直前に突然の公職追放の憂き目に遭い、その後、一たんは解除となりましたが、引き続く昭和二十二年四月の総選挙の際には、告示直後、夢想だにしなかった再度の公職追放を受け、政治の場から身を引くのやむなきに至りました。
 しかし、昭和二十七年十月、わが国独立回復後の初の総選挙が行われるや、先生は勇躍立候補して、みごと最高点で当選され、また、三十年の選挙にも当選されました。
 そして、先生は、国会議員として、いよいよその本領を存分に発揮しようとの意欲に燃えておられたのでありますが、次の総選挙で苦杯を喫し、その後の四たびの立候補も健闘むなしく、不運な結果に終わりました。
 この間、十四年の歳月は、先生にとって文字どおり臥薪嘗胆の連続でありました。しかし、先生は、たび重なる逆境にあっても、いささかもこれにくじけることなく、常に笑顔とユーモアをもって人に接し、選挙戦に備えて着々と準備を進めてこられました。そして、先生が、飽くなき政治への情熱と不撓不屈の精神をもって、前回の総選挙でみごと本院への復帰を果たされたことは、人の容易になし得るわざではなく、驚嘆のほかはありません。(拍手)
 当選後の先生は、まさに魚の水を得たるごとく、その御活躍はまことに目覚ましいものがあり、長年にわたって蓄積された識見と過去の政治経験を大いに生かし、国政の審議に、はたまた党務に精励されました。
 先生は、与党の立場から、しばしば委員会において質疑に立ち、非核三原則の問題、インフレ下における不況対策、農業近代化問題、住宅建設と土地対策など、各方面にわたってうんちくのある意見を吐かれて、政府を鞭撻されたのであります。
 また、先生は、資源の乏しいわが国経済の将来を深く憂慮し、平和外交の推進と資源国との協調を力説してこられましたが、一昨年六月には、アフリカのギニア国を訪問、鉱物資源の宝庫たる同国との経済提携、技術協力に尽力されました。
 昨年十二月、商工委員長に就任された先生は、今日の大きな政治課題である独占禁止法改正問題に深い関心を持たれ、同法改正案の国会審議に備え、鋭意その問題点について検討を加えておられたのでありますが、本年一月末、国会がいよいよ本格的審議に入ろうとするとき、体に異常を感じ、入院加療を受けられることになりました。しかし、先生は、過去の独禁法審議の際の膨大な会議録を病室に届けさせ、意識混濁の危篤状態となられる直前まで、綿密に目を通し、その審議に万全を期しておられたとのことであります。
 また、先生は、委員長として、委員会の円満な運営を図るため、絶えず与野党の意思の疎通に努めてこられましたが、手術を控えた二月初め、商工委員会理事会に体を支えられながら病院から出席し、委員長の職務を果たされたのでありまして、その真摯な態度は、先生の旺盛な責任感を如実に示すものとして、私どもの胸を強く打つものがあります。(拍手)
 松岡先生は、七十年の生涯を静かに閉じてゆかれました。先生の歩んでこられた道は決してたんたんたるものではなく、先生の華々しい御活躍ぶりや偉大な成果を見るにつけ、そこに常に大きな苦難と試練を克服してこられた先生の姿がうかがわれるのであります。
 人は、苦難に直面したとき、これを不幸と言い、でき得る限りこれを避けて通りたいと願うのが常であります。しかし、先生は、みずから進んで苦難に立ち向かい、これを乗り越え、実りあるものとされました。そして、温かいヒューマニズム、強い正義感がこの原動力となったことは、先生を知るすべての人々が認めるところであります。すぐれた創造力、たくましい意志、燃ゆるがごとき情熱、怯懦を退ける勇猛心、こういうものを青春と申すならば、まさに、先生の全生涯が青春時代であったと申せましょう。(拍手)
 今日のわが国は、大きな転換期を迎え、幾多の試練を克服してまいらねばなりません。このときに当たり、確固不動の信念と、深い洞察力を有せられる練達の政治家松岡松平先生を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、惜しみても余りあるものがあります。
 ここに、ありし日の松岡松平先生の事績をたたえ、人となりをしのび、心から御冥福をお祈り申し上げまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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 日程第一 農業振興地域の整備に関する法律
  の一部を改正する法律案(第七十二回国会、
  内閣提出)

発言情報

speech_id: 107505254X01319750325_004

発言者: 古川喜一

speaker_id: 23965

日付: 1975-03-25

院: 衆議院

会議名: 本会議