永末英一の発言 (本会議)

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○永末英一君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員谷垣專一君は、去る六月二十七日、参議院選挙の開票が終わった直後、御病状急変し、御逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 私は、君の出身校である「紅萌ゆる丘の花」京都の第三高等学校の五年後輩であり、四十年この方、同窓会のことや京都地方の政治、さらにわが国の政局について、君から御懇篤な御指導をいただいてまいりました。いま尊敬する先輩を失い、哀惜の情ひとしお深いものがあります。
 ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 君は、明治四十五年一月、京都府福知山市に生まれ、福知山中学校を抜群の成績で御卒業になり、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部に学ばれました。
 小学校時代より剣道に親しまれた君は、三高時代に寮生活の中で剣道部の厳しいけいこに没頭し、他校によく武者修行に出かけて剣を磨かれました。その修行中に相手から右耳の鼓膜を破られたとき、「何を」と奮起し、相手の倒れるまで立ち合ったという血気盛んながんばりが、全国大会でみごと君に優勝の栄誉をもたらし、「三高剣道部に谷專あり」の名を全国にとどろかしました。その太刀筋は上背を利しての面打ち、豪壮華麗な剣でありました。
 また、この間、福知山中学時代には全国中等学校雄弁大会で優勝される等、まさしく文武両道に秀でた人格を磨き上げられました。
 君は、剣に強いだけではなく、三高剣道部の歴史に残る主将として、特に後輩のめんどうをよく見る愛の人でした。母校が廃校されて三十年以上になりますが、三高剣道部OBの集まりは、いつも君を中心として団結を誇ってまいりました。
 君は、東大卒業後、農林省に入られました。入省して三年、選ばれて中国東北地方(旧満州)東寧の前面、国境線の地点に、日本からの開拓農民の指導者として大規模な水田づくりにいそしまれました。このとき知り合った影佐禎昭陸軍中将の御令嬢安紀さんと昭和十九年結婚され、現本院議員禎一君の誕生となるのであります。
 昭和十七年、日本内地で食糧の危機的状況があらわになったとき、中国東北地方からそばを送ろうと、君は東京へ談判に飛ばれました。当時すでに、そばは統制品であったので、明治神宮にそばを奉献し、それを払い下げてもらうという形を考えつかれました。「奉献そば二万石」の記事は、昭和十七年十一月十九日の紙面に報道せられ、当時の東京市民の飢餓感を大いにいやしました。
 また、十八年の秋、本省に帰られた君は、昭和二十年、戦局の悪化のため、農林省が中国東北の各地に送り込んだ勤労奉仕隊の青少年を内地に呼び戻そうと努力し、現地に飛んで、やっと八月二十五日、全員帰還の段取りを手配されました。ところが、八月八日、ソ連の対日一方的宣戦布告、次いで中国東北地方への侵略が始まり、君の計画は画餅に帰しました。君は、後々まで「実に無念だ」とこのことを語るのでした。
 戦後の窮迫した食糧事情を打開するために緊急開拓十カ年計画がまとめられ、君は再び選ばれて長野県農地部長として現場で開拓の事に当たられました。
 君の農政に対する姿勢には、文章を扱うていの行政官ではなく、体をぶつけて国民とともに事を行う政治家としての気魄が脈打っているのを覚えます。(拍手)やがて君は官房長に任ぜられ、農林行政の中枢に立ち、次いで畜産局長として困難な畜産行政の衝に当たられました。
 昭和三十五年十一月の第二十九回総選挙に当たり、君は当時の池田勇人総理から直接の要請を受けて出馬し、地元福知山出身の元内閣総理大臣芦田均先生の衣鉢を継ぐものとして郷党の衆望を一身に担われて当選、みごとに初陣を飾られました。(拍手)
 以来、今日まで衆議院議員として八回の御当選、この間、建設政務次官、厚生政務次官、文部大臣、衆議院地方行政委員長、自由民主党副幹事長、総務会副会長など、内閣、本院あるいは党の枢機に重きをなしてこられました。
 君は、国民生活の安定に尽瘁され、一世帯一住宅の実現を図るため、住宅建設計画法成立に力を尽くし、第一期住宅建設五カ年計画の策定をなし遂げられました。
 さらに、下水道整備五カ年計画、治水事業五カ年計画の策定など、長期的展望に立った施策の立案、実施に奮闘されました。
 また、医師国家試験をめぐって大学医学部の紛糾が続発していたとき、この収拾に努力され、さらに、社会保障の体系的整備、公害問題の解決に多大の貢献をされました。
 第二次大平内閣の文部大臣としては、あらゆる困難を排して小中学校の四十人学級を実現し、また、教科書無償問題を推進されました。
 君は、こよなく郷土を愛し、郷土の発展のために惜しみなく努力されました。
 暴れ川といわれた由良川の治水に渾身の力をふるわれ、昭和五十六年三月、ついに荒河水門排水機場を竣工、これによって福知山内水排除計画を完成し、名物の福知山水害を根絶され、記念に、京都平安神宮の庭に咲く桜と同じ征しだれ桜一株を排水場に植えられました。この二本の桜は、四月には華麗な花をつけ、永劫に君の御功績を伝えています。(拍手)
 さらに、君は、郷土の発展のためには交通網の整備が肝要であるとして、早く列島横断輪切り線の必要を説かれ、これが列島横断自動車道計画となったことは有名な話であります。こうして近畿自動車道舞鶴線が計画されるに至りました。また、福知山と宮津とを結ぶ宮福線建設計画も、君の努力の結果であります。
 君の政治家としてのバックボーンは剣から出ていると思います。君は、剣についてこう話られました。「剣道をやる人は、ただ一人の相手との攻防の中で自分自身を見きわめていかなければならない。結局、自分自身に深く入っていくから精神的心境の深さが要求される。精神的心境の深さが剣道の特性であり、この境地を求めて修行するのが剣道である。」
 剣道に対するこの深い理解は、剣を通じてより深いところで人間に対する愛に結ばれていると存じます。君はよく「いくさするなら謙信公のように、敵もなさけに泣くそうじゃ」との歌を愛唱されましたが、ここに愛の政治家、谷專の真髄があると思います。(拍手)
 御子息の禎一本院議員の御述懐に、次のようなエピソードがあります。禎一議員が小学校三年のころの話です。「ある台風の日でした。飼っていた犬が子供をたくさん生んだのですが、雨の中を逃げ出してしまいました。外はあらしだし、眠くもあったので捜しに行かないでいると、「なぜ行かない。生まれたばかりの子犬はこの雨で死んでしまうではないか」とどなられたので、私は台風の中を捜しに出ました。幸い子犬は全部見つかりましたが、日ごろやさしかっただけに、あのときの父のこわさはいまだに忘れられません」このエピソードは、君の人となりを語って余すところのないさわやかさに満ちております。(拍手)
 君はかつて文部大臣のとき、「学校給食にお米重視を」と主張されました。「人間は、その土地で生産されたものによって生命をつないでいくことが自然な道理だ。日本の国土、自然が生み出した米、一番うまい米を子供たちに食べさせる給食を通じてこれを教えることが教育だ。それこそ日本そのものを教えることではないのか」この君の主張の中に、日本を愛し、日本人を愛し、農政に一身をぶち込んだ政治家としての真骨頂があります。
 剣に悟入し、その深いところで人間への愛を体得した得がたい政治家であった君の突然の御逝去は、わが国にとっても、また、本院にとっても、さらにわが郷土京都にとっても返す返すも残念なことです。しかし、八月の君の補欠選挙に御子息禎一君が君の御遺志を継ぎ、みごと当選の栄冠をから取られ、いま本院議員として活躍せられていますことは、君もまた泉下で、あの穏やかな笑みを浮かべて御子息を見守っておられることと存じます。(拍手)
 ここに、君、御生前の偉業をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 110005254X00619830920_004

発言者: 永末英一

speaker_id: 33587

日付: 1983-09-20

院: 衆議院

会議名: 本会議