細谷治嘉の発言 (本会議)

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○細谷治嘉君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員山崎平八郎君は、去る一月十一日逝去されました。
 私どもは、山崎先生が昨年早々から病床につかれたとのお話を伺い、その後、秋の臨時国会に至っても登院されない御様子を見て、ひそかに心を痛め、御回復の一日も早からんことを祈っていたのであります。しかるに、一年にわたる闘病と御家族による懸命の御看護もそのかいなく、ついに不帰の客となられましたことは、まことに痛惜の念にたえないところであります。
 ここに、私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。
 山崎平八郎先生は、明治四十四年十二月、福岡県大川市にお生まれになりました。幼少のころ、不幸にも父親に早逝されたため、君は、戦前の政界において三たび農林大臣を務め、政友会の重鎮として活躍された、伯父山崎達之輔氏のもとで養育されたのであります。
 長じて、旧制佐賀高等学校に学び、九州帝国大学農学部に進まれました君は、昭和十四年に卒業されるや、直ちに農林省に入り、行政官としての第一歩を踏み出されました。当時既に日中戦争がたけなわであり、農村の疲弊は次第に顕著の度を加えておりましたが、その後、戦火の拡大とともに、国土の荒廃は我が国の全域に及び、やがて終戦を迎えて、深刻な食糧危機の到来を見たのであります。その間、君は若き農林技師として、土地改良を初め開拓・干拓による農地の造成・開発の業務に従事され、農業の復興と食糧の増産、安定供給の基礎を築くために、文字どおり寝食を忘れて奔走されたのであります。
 終戦直後の我が国は、食糧難に加え、年々大型台風の直撃で甚大な被害を受けていました。山崎先生は、農林省の干拓班長として、また、建設部設計課長として、当時の重点施策であった干拓事業の推進に積極的に陣頭指揮をされていました。そのころ、私は、地元の市長として三池干拓や大和干拓等の事業採択と推進をお願いし、特別会計を設けてまで事業の推進を図っていただきました。感謝のほかありません。(拍手)
 その後、昭和三十八年に至り、新たに九州農政局が設置されるや、初代の次長として着任され、次いで局長となり、九州地域農政の最高責任者として、農業基盤整備事業や農業団体の育成など万般の施策に指導的役割を果たされました。
 このように職務に精励される一方で、先生は、農業土木技術の専門家としても研さんを積まれ、昭和四十一年には九州大学から農学博士号を授与されておられます。
 農林行政官としての山崎君の生活は、こうして前後約三十年に及び、その間、終始日本農業の基盤整備と近代化のための総合農政の推進に尽力してこられたのでありますが、長年の官庁勤めを通して、先生は、「みずから研究した施策を実行するには、決して役人のみで実現できるものではない、それには強力な政治力が必要である」と痛感され、政界への転身を決意されたのであります。
 さきに、山崎達之輔氏の後継者として、同じく叔父に当たられる山崎巌氏が本院議員として活躍しておられましたが、君は、昭和四十三年同氏が急逝された後を受け、山崎家三代目の政治家として、翌四十四年十二月の総選挙に立候補され、見事初当選をかち取られたのであります。(拍手)当時、福岡県第三区は、大臣選挙区として有名でした。選挙でお会いしたとき、これからは若い我々が頑張りましょうと、意気盛んでありました。今昔の念、ひとしおのものがございます。
 本院に議席を占められてからの君は、みずからの信念の具現に向けて真摯な活動を展開していかれました。地方行政、決算、文教、法務等の各委員を初め、農林水産委員会、環境委員会、石炭対策特別委員会等の理事として、豊富な経験とすぐれた識見をもって国政各般の審議に当たられましたが、その精励ぶりは同僚委員のひとしく敬服するところでありました。
 特に、昭和五十五年には環境委員長、五十七年には農林水産委員長の要職につかれましたが、温厚篤実なお人柄と、公正円満を旨とした委員会運営は、与野党を問わず広く信頼を集め、君はよくその重責を全うされたのであります。(拍手)
 また、自由民主党にあっては、経理局次長、全国組織委員会農林水産局次長、総合農政調査会副会長等を経て、やがて農林部会長の職につかれましたが、既に党内屈指の農政通としての声望は高く、農林政策立案の中心的存在として、その本領を遺憾なく発揮されました。
 さらには、対外経済協力特別委員長、山村振興対策特別委員長をも歴任され、党の政策推進に幅広い活動を示されたのであります。
 この間、政府にあって、文部政務次官、農林政務次官を経験され、一段と業績を積まれた君は、昭和六十年、第二次中曽根内閣において国務大臣に任命され、国土庁長官に就任されました。
 最初の記者会見で、「今までは農業の目で土地を見てきたが、今後は、国土の均衡発展の立場で勉強する」と謙虚に抱負を述べられた君は、しかし、就任早々から精力的に山積する難問に立ち向かわれました。地価高騰に象徴されるように、今日の国土行政は一朝一夕には解決できない数多くの問題を抱えておりますが、君は、まず二十一世紀に向けての新しい国づくりのための第四次全国総合開発計画、いわゆる四全総の策定を急がれる一方、水資源対策、大都市圏整備対策、地域振興対策等の推進、強化に格段の指導力を発揮され、短時日にもかかわらず、国土行政の前進に大きく寄与されたのであります。
 かくして、山崎君は、本院議員に連続して当選すること七回、在職十九年三カ月の長きに及び、その間、我が国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。(拍手)
 山崎先生は、日ごろから大変口数の少ない、物静かな方でありました。弁論をもって立つ我々政治家の中にあって、君は際立って控え目であり、人には常ににこやかな温容をもって接しておられましたが、しかし、内には政治に対する烈々たる情熱と強固な信念を秘めた硬骨漢でもありました。
 君が、若くして農業問題に関心を持ち、道を農政に求めたのは、伯父達之輔氏の影響もさることながら、戦前の小作制度に支配された農村の悲惨な状態を目の当たりにして、その救済を志したからにほかなりません。以来、郷土筑後における自立農家の育成と農村生活の安定向上とは、君にとって片時も脳裏から離れぬ人生の課題となりました。君は、強い正義感とふるさと愛から、その実現に向けて日夜心を砕き、渾身の努力を積み重ねてこられたのであります。
 農政者として、政策の立案や予算の執行に際し、君は、常に部下に対して、農家の立場に立ち、農業者の心を心として当たるよう説いてこられたとのことであります。こうした姿勢は、「郷土の繁栄なくして国家の発展はあり得ない」との政治信条とともに、君のその後の生涯を貫き、その努力の跡は、今日の郷土の発展となってあらわれたと言っても過言でありません。(拍手)
 君は、かつて本院において名議長とうたわれた保利茂先生を師と仰ぎ、保利先生の幅広い見識と、誠実で質素な生活態度を日常の範としてこられたと聞きますが、君の一生もまた、そのまな弟子たるにふさわしく、清廉で慎み深く、勤勉と誠実さに終始したものでした。
 君は座右の銘として「至誠天に通ず」という言葉を愛されましたが、まさにその言葉どおりに、一時の功名を求めず、他人の毀誉褒貶を顧みず、ひたすら努力と精進を重ね、誠実一筋に生き、国事に献身されたのであります。(拍手)今ここに、君の清廉高潔な七十七年の生涯を振り返るとき、ひとしく政治に携わる者として、深甚な敬意を覚えずにはいられないのであります。
 今日、君が繁栄を願ってきた日本農業は、内外の厳しい環境のもとに重大な転機を迎えつつあります。このことを深く憂慮した君は、病床にあっても不屈の闘志で再起に望みをかけておられたとのことであります。我々もまた、広い学識と鋭い先見性を備えた君が、再び健康を取り戻して難局の打開に当たられることを期待しておりました。それだけに、このたびの御逝去は、まことに痛恨のきわみであります。
 今、政治家のあり方に対して国民の目が厳しく注がれ、国会議員としての職責の重大さが一段と問われているとき、君のごとき清廉にして卓越した有為の政治家を失ったことは、本院はもとより、国家にとっても大きな損失と言わなければなりません。
 ここに、謹んで山崎平八郎先生の人となりをしのび、生前の御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

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発言者: 細谷治嘉

speaker_id: 29839

日付: 1989-02-14

院: 衆議院

会議名: 本会議