井上普方の発言 (本会議)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○井上普方君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員佐藤隆先生は、去る四月十七日に逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
私は、ここに、諸君の御同意を得まして、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べさせていただきます。
私が、党派を超え十有余年にわたって先生と強く友情に結ばれましたのは、ともに超党派議員団の代表として、アジア諸国の人口問題国際会議に出席いたしまして、内外の政情を語り、人口問題の解決なくして人類の平和と繁栄はあり得ないとの共通の認識に基づくものでございました。さらに、人間的に先生のさわやかで快活で情熱の塊のような行動力に魅せられたからにほかなりません。
人一倍責任感旺盛な先生は、本年二月ソウルで開かれました第七回人口と開発に関するアジア国会議員代表者会議に、既に病の身を押し、医師を同道いたしまして出席され、会議を成功裏に導かれたのであります。また、帰国後も、地元の市長選挙の応援に駆けつけるなど、あふれる責任感から政治家として奔走されていたのであります。
しかし、三月半ば過ぎ入院されたと伺いまして、御回復の一日も早からんことを祈っておりましたけれども、御家族の手厚い看護のかいもなく、御本復を見ることはなく、思いがけない急逝の悲報に接し、同じ政治の道を歩む者としてまことに痛恨きわまりないものがございます。
佐藤隆先生は、昭和二年十二月、新潟県中蒲原郡亀田町の旧家佐藤芳男氏の次男としてお生まれになりました。
御尊父は、戦中戦後を通じて衆議院議員、参議院議員として御活躍になり、また、伯父の佐藤與一氏も、昭和の初期に衆議院議員として務められ
たのであります。このような家庭環境のもとで少年時代を先生は過ごされました。一先生は、旧制新潟中学に入学されましたが、折しも第二次大戦中でございました。愛国の信もたしかたく、昭和十八年、甲種予科練に入隊し、厳しい訓練を受けられたのであります。
やがて終戦を迎え、郷里に帰られた先生は、我が国の発展のためには、まず食糧の安定供給体制の確立が必要であると熟慮いたされまして、東京農業大学に進まれました。
昭和二十四年、大学卒業と同時に農林中央金庫に入り、その後、農林漁業金融公庫に彩られました。
昭和四十一年、農林漁業金融公庫調査役を退任された先生は、当時参議院議員であられた父君の右腕として秘書業務につかれ、長年にわたって培われた経験をもとに、鋭敏な感覚をもって農業経営の近代化の推進など農業問題に積極的に取り組み、我が国農政の将来についてさらに研さんを積まれていたのであります。
ところが、佐藤先生にとっては、片時も脳裏を離れることのないつらく、悲しい、そして先生の人生の転機ともなる不慮の事故に見舞われたのであります。それは、昭和四十二年八月二十八日、新潟県下越地方を襲った集中豪雨は、最愛の御両親と最愛の二人の御子息の生命を一瞬にして奪い去ったのであります。このとき先生が受けられた衝撃と悲しみはいかばかりか、想像を絶するものがあるのでございます。
しかし先生は、その悲しみを乗り越え、父君の御遺志を継ぐべく、その年の十一月、参議院補欠選挙に出馬、見事当選の栄をから取られ、政治家としての第一歩を踏み出されたのであります。
参議院に議席を得られてからの先生は、内閣、農林水産などの各委員を初め、災害対策特別委員会の理事として、さらには農林水産委員長として、卓越した識見と豊富な経験を生かして大いに活躍されました。
とりわけ、自然災害で御家族を失い、人一倍自然の脅威と生命のとうとさを痛感していた先生は、災害の防止と救済制度の確立は、政治家の、いや先生御自身の責任であるとの信念で、個人災害救済制度の創設に執念を燃やされました。国会の災害男と言われて奔走すること七年、世界に先駆け我が国初めての個人災害救済制度をまとめまして、これを議員立法としてついに昭和四十八年九月成立させ、宿願を果たしたのであります。(拍手)
その年は、くしくも羽越水害で亡くなられた御家族の七回忌にも当たり、遭難の地に、すべての犠牲者の霊を供養するため、救難六地蔵尊を建立され、「ななとせのあせをえがおにじぞうそん」の句を手向けられたと伺っております。
その後、昭和五十一年十二月五日に行われました第三十四回衆議院議員総選挙に新潟県第二区から立候補し、最高点で当選されたのであります。
本院に議席を得られた先生は、農林水産、災害対策等の委員として御活躍され、また、昭和五十三年には農林水産委員長に就任し、委員会の円満な運営の衝に当たられ、与野党の別なく、同僚議員がひとしく敬服していたところであります。
さらに、自由民主党にあっては、筆頭副幹事長、政調総合農政調査会長等の要職につかれ、党務の処理や政策の立案、あるいは国会対策に尽力されたのであります。とりわけ総合農政調査会長としては、我が国農政の根幹にかかわる米輸入自由化問題について、国民的視野に立って真剣に取り組んでこられました。
終始、農業政策に携わってこられた先生の実績を買われ、昭和六十二年十一月、竹下内閣の農林水産大臣として晴れて入閣されたのであります。(拍手)
時あたかも、我が国の農業をめぐる環境は、米、牛肉、オレンジを初めとする農産物の市場開放が求められるなど、幾多の難題を抱えて極めて厳しい状況下にありました。
就任間もない昭和六十三年三月、長年にわたり難航を重ねてきた日米間の牛肉・オレンジ自由化問題の決着を図るため、先生は、政治生命をかけて渡米され、農産物交渉でヤイター通商代表と厳しく対峙したことは、今なお私どもの記憶に新たなるところであります。(拍手)そのような雰囲気の中でも、「春の日の如き心で語らばや」という二句を扇子に書き、これをヤイター通商代表に贈り、いたずらに対決を事とするのではなく、穏やがに話し合おうとの心のうちを示されたのであります。
この外交交渉に当たって、我が国の食糧政策に将来禍根を残すようなことがあってはならない、そして同時に、国際化の中で日本が孤立する過ちを繰り返してはならないとの信念を秘めて、前後三たびにわたる粘り強い交渉の結果、アメリカ側から自由化までの猶予期間、関税などの国境措置についての譲歩を引き出し、自由化を受け入れるという苦渋の決断を下されたのでありました。
それと同時に先生は、国際化のあらしの中で、我が国農業の存立を守り、その体質強化を図るための国内対策に没頭されたのであります。
また先生は、人口、食糧問題に強い関心を抱き、政治家としての情熱を傾注されました。
昭和四十八年、岸信介元総理を団長とするアジア人口事情視察団の一員として、インド、タイなどの東南アジア諸国を視察された際に、道端で生まれ、栄養失調で死んでいく子供らの悲惨な状況に直面し、この衝撃的体験が人口問題と深く取り組む引き金となったのであります。「飢えて死ぬために生まれる子供があってはならない」、人間一人一人が愛と希望の大切な対象であり、人口問題を論ずるとき、その原点には必ず生命への慈しみがなければならないと力説した佐藤隆先生でありました。人口問題こそ政治家のライフワークとするにふさわしいテーマであると確信され、この問題の解決なくして人類の平和と繁栄はあり得ないとの信念を一層深められたのであります。(拍手)
自来、人口問題に関する国会議員組織の結成に奔走され、昭和四十九年には、世界に先駆け我が国に超党派の国際人口問題議員懇談会の発足を見るに至ったのであります。この組織をさらに国際的に広げ、人口と開発列国国会議員会議、人口と開発に関するアジア議員フォーラムの設立など、数々の実行機関の設立の中心的存在として活躍されました。
特に、先生の功績の一つとして忘れ得ないものに、昭和五十六年十月、北京の人民大会堂で開催されました人口と開発に関するアジア国会議員会議がございます。
この会議は、中国にとっては、文化革命後、世界に窓を開く初めての大規模な世界大会でありましたが、中国、インドとの国境対立、韓国、朝鮮民主主義人民共和国両国の参加の是非が問題となり、直前になって開催不可能かどの観測も流れ、その成り行きが世界の注目を集めました。先生は、このことを知るや、単身、北京、二ューデリーに飛び、当時の黄華副首相やガンジー首相と直談判し、見事に問題を解決して北京大会を大成功に導かれたのであります。(拍手)このことは、中国から深く深く感謝の念を示されたところであります。
この大会を契機に、アジア三十数カ国が参加する人口と開発に関するアジア議員フォーラムが結成されましたが、その議長に佐藤隆先生が満場一致で推挙されましたのも、けだし当然と申すべきであります。(拍手)
この先生の外交交渉の成果がなければ、今日、アジアの国々の国会議員が心を一にして人口問題に取り組むことはなかったのであります。
このような多年にわたる活動の推進と発展に尽くされました功績を、国際連合は高く評価しまして、昭和六十年三月、先生は、岸、福田元総理に続き、我が国では三人目の国連平和賞を受賞されたのであります。(拍手)
先生は、常々、「愛の心がない政治からは何も生まれない、生まれてきてよかったと思う社会をつくることが政治の目的だ」と語っておられ、生命の尊厳と人類愛が先生の政治信条の基盤とされていました。また、なすべきかなさざるべきかを慎重に考え、一度信念を持って決断されるや、一路邁進する行動の人でもありました。快活にして誠実、人の情を大事にして、常に相手の立場にも心配りを欠かさないお人柄、このような先生が、ふるさと新潟の多くの人々に党派を超えて愛され、慕われるのも、当然のことでありましょう。
人類愛をベースに鋭い先見性と行動力を備えた有為の政治家佐藤先生は、散りゆく桜の花のごとく、いまだ六十三歳という若さで忽然と去っていかれました。
観世流の謡で鍛えた力強い声、人懐こいまなざしに、少しあごを突き出し、白い歯を見せて話しかける表情には、人を引きつけて離さないものがございました。もはや、先生のその姿に接することができないと思うと、寂蓼の感、胸に迫るものがあります。
私は、長年にわたる佐藤先生の政治生活を内にあって支えてこられた奥様を初め御遺族の御心情を拝察するに、お慰め申し上げる言葉もございません。
かくて、佐藤先生は、本院議員に連続して当選すること六回、参議院議員二期を合わせ在職二十三年七カ月の長きに及び、その間、我が国政の進展に、世界人類の繁栄と増進に寄与せられた功績は、まことに偉大なものがございます。(拍手)
我が国をめぐる内外の情勢が変転きわまりない今日、前途有為のすぐれた政治家佐藤隆先生を失いましたことは、自由民主党はもとより、本院にとりましても、国家国民にとりましても、はたまた、アジアの諸国民にとりましても、大きな損失でございます。惜しみても余りあるものがございます。
ここに、謹んで佐藤隆先生の御遺徳をしのび、生前の御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
————◇—————