笹川堯の発言 (本会議)

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○笹川堯君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員須永徹君は、去る十一月二十三日、郷里の群馬県において急逝されました。まことに痛惜の念にたえません。
 私が須永君の詳報に接したのは、二十三日の夕方、選挙区に帰る途中の自動車電話からでありました。余りにも突然の信じがたいことなので、何かの間違いではないかと耳を疑いました。しかし、それは紛れもない事実でした。私は、しばらくの間、茫然自失、言葉もありませんでした。
 須永君は、当日、ふだんと変わりなく、午前中、秘書と年末年始のスケジュールの打ち合わせをした後、桐生市内の知人の葬儀に出席、続いて、同じ市内の結婚式場で開かれた披露宴に出席されました。その披露宴で主賓としての祝辞を終えた直後に倒れられ、直ちに近くの恵愛堂病院へ運ばれ、医師の懸命な治療にもかかわらず、三十分後には息を引き取られたのであります。
 何と無常な、惜しみても余りある四十一歳という若い君の命を奪うとは、人の今のほかなさとは申せ、その痛恨の念は、言葉をもってあらわすことは到底できないのであります。
 私は、ここに、議員各位の御同意を得て、僣越ではありますが、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し上げます。
 須永君は、昭和二十五年二月、新田義貞の生地新田の荘、群馬県太田市にお生まれになり、太田市立中学校を経て、昭和四十三年三月、足利工業大学附属高等学校を卒業すると、直ちに富士重工群馬製作所に入社いたしました。向学心に燃えた君は、群馬大学工業短期大学部に入学し、昼は若きエンジニアとして仕事に励み、夜は大学で知識、技術を磨き、昭和四十六年には同大学を立派な成績で卒業をいたしました。
 その後、昭和四十七年、小川省吾先生が衆議院議員に当選するや、請われて第一秘書となり、昭和六十一年六月まで十四年間勤めました。その間、持ち前の卓越した行動力と識見をもって、日本社会党衆議院議員小川省吾先生の片腕として、その手腕を遺憾なく発揮し、政治家への道を着々と歩み続けたのであります。
 昭和六十一年、小川省吾先生が引退するや、先生の後継者としてその地盤を引き継ぎ、昭和六十一年、第三十八回衆議院議員総選挙に勇躍出馬したのであります。残念ながらこのときは、善戦むなしく次点に泣いたのであります。捲土重来を期し、昨年二月の第三十九回衆議院議員総選挙に再度立候補し、見事トップ当選の栄冠をから取ったのであります。(拍手)
 君は、衆議院議員として在職すること一年十カ月と、極めて短い期間でありましたが、地方行政委員会及び議院運営委員会に所属し、地方公共団体が大きな問題として抱えている公共投資の拡大や社会資本の整備等による赤字財政について政府の所信をただし、一方、公共施設整備については、地方交付税の特別措置や利子補給等の特別措置をさらに強化すべきである等幾多の提言をし、特に、市町村にも地域環境保全基金制度を創設し、環境整備のためにその運用益を使うべきであると主張するなど、二十一世紀に向けた地方自治の確立に情熱を注がれたのであります。
 予算委員会分科会においては、経済大国と言われながらまだまだ存在する貧困、生活保護、同和問題の現状等について政府を追及するなど、広い分野にわたり、真摯かつ熱心に取り組む姿は、与野党の区別なく、同僚議員がひとしく敬服していたところであります。
 本年三月七日には、この壇上で日本社会党・護憲共同を代表して、地方財政計画についての発言及び地方交付税法の一部改正案の趣旨説明に対して質問に立ち、東京一極集中、過密過疎、土地の高騰による資産の格差、管理社会と人間疎外、さらに高齢化社会での医療と福祉などについて、総理大臣並びに自治大臣に所信を求め、地方財政、地方交付税、地域福祉基金、公共投資等について、総理大臣、大蔵大臣、自治大臣を鋭く追及した姿は、まさに、さっそうとした戦国の若武者をほうふつとさせるものでありました。(拍手)
 そのとき、私は議席から、思わず大声で「須永徹、頑張れ」と激励をいたしました。本会議終了後、君から「笹川先生の声がよく聞こえてほっとした。」と言われたことが、まるで昨日のごとく私の脳裏に鮮明に焼きついて離れないのであります。
 党にあっては、党内の有志による勉強会である「ニューウェーブの会」や「グループ新しい力」などに積極的に参加し、事務局次長を務めるたど、党執行部とのパイプ役を果たしてまいりました。また、党の新人議員でつくっている「九〇会」では幹事長を務めるなど、同志の中でも人望を集めていたのであります。
 地元群馬県では、党本部副委員長として県内党員のまとめ役を果たす一方、自治労群馬県本部特別執行委員、太田中小企業労務協会理事長を務めるなど幅広く活躍していました。
 去る十一月二十日に行われた日本社会党執行委員長の選挙の際には、田邊誠先生の立候補の手続に同行したり、また、当選証書の授与式にも群馬県を代表して出席するなど、常に田邊委員長とともに行動することが多く、君は「日本社会党の進む道は、政権を担い得る政党へと脱皮させることであり、田邊委員長を軸として一丸となって事に当たっていかなければならない、そのためには、自分は先頭に立って頑張りたい。」と、今後の活動に積極的な姿勢を見せていたばかりでした。須永君は、戦前の農民運動の指導者であり、戦後結成された日本農民組合の初代委員長となった元日本社会党衆議院議員須永好先生を祖父に、また、長年群馬県太田市の市議会議員を務めた須永城次先生を父とし、政治家一家の血を受け継ぎ、申し分のたい環境に育ったのであります。
 庶民の味方であった祖父好先生をこよなく尊敬し、祖父の伝記とも言える君の著書「未完の昭和史」の中に、「この世に生を受けて三十五年、祖父がやってきたこと、やろうとしたことをようやく理解できるようになってきた。父同様に私も祖父が敷いた政治運動というレールの上を走っているという思いは、祖父を一層身近に感じる。」と書いております。
 祖父好先生が生涯をかけて好んで口にし、人間解放の理想であるとした「小作人も人間である」という主張を引き継ぎ、働く者が世の中の主人公になるという社会主義の考え方を堅持したのであります。
 君は、常に「政治は庶民とともにあり」をモットーとして、地域住民との交流を大切にし、東京の議員宿舎に泊まることは少なく、太田市の自宅から電車を使って国会に通勤しました。休日だけではなく、東京へ出勤する前にも朝早くから街角に立ち、時事問題や自身の政治活動などについて演説をしたり、弱い人に目を向ける政治を訴え続け、市民と対話をする姿をよく見かけたものであります。君の熱心さには本当に頭の下がる思いでした。
 スポーツ万能、特にスキーは指導員にも匹敵するほどの腕前とか、医者知らずの頑健な君は、持ち前の勤勉さと行動力でこのハードなスケジュールをこなし、結果的には命を縮めることになったのではないでしょうか。
 党派を超えて、地元のために頑張ろうと私に語った君の強い意志は、君を敬愛する多くの人々の心に深く刻まれ、力強く受け継がれていくことでありましょう。
 「須永徹君!!」君の雄姿を再びこの議政壇上に見ることはできません。
 本日私は、奥様を初め御遺族の御了承を得て、須永徹君の愛用していた議員記章を私の胸につけさせていただいております。(拍手)君の真心は永遠に記章とともに、本院及び庶民大衆の中にあることを確信いたします。
 先月二十五日の密葬の日、「びっしりと詰まったスケジュールを書いた手帳をあの世まで持たせたくない。」と言って、ひつぎから取り出した心の優しい奥様を初め御遺族のお気持を思うと、返す返すも残念でたまりません。
 君には、最愛の御子息、中学三年生の長男慎君、そして小学校六年生の次男隆君がおられますが、君の立派な御遺志を継ぎ、将来君の後継者として政治の道に進まれることを切望するものであります。(拍手)
 これが、祖父好先生以来三代にわたって築き上げられた「政治は庶民とともにあり」、この伝統を守ることであり、君も草葉の陰で一番うれしいことではなかろうかと思うからであります。
 去る十四日、太田市の市民体育館で行われた告別式には、地元の支持者を初め県内外から、労働界、政界、財界など多くの方々がお別れに駆けつけ、会場は須永君をしのぶ人たちで埋め尽くされたのであります。これも日ごろから広い人脈を大切にした君のお人柄をしのばせるものでありましょう。
 今、我が国は、内外にわたり激動のさなかにあり、国際社会は大きく変化しつつあります。須永君のような将来ある若い政治家に、あすの社会党を、日本を背負って活躍していただかなければならないこのときに、君のような前途有為な政治家を失ったことは、日本社会党のみならず、本院はもとより、日本国民全体の損失であり、まことに残念でたまりません。(拍手)
 ここに、諸君とともに須永徹君の霊安からんことを願い、生前の御功績をたたえ、その人となりをしのびつつ、謹んで御冥福をお祈りし、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 112205254X01119911216_004

発言者: 笹川堯

speaker_id: 26013

日付: 1991-12-16

院: 衆議院

会議名: 本会議