山口鶴男の発言 (本会議)

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○山口鶴男君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員中島源太郎君は、去る二月七日、急性肝不全のため、慶応大学病院において逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 中島君とは、同じ群馬県選出の議員として、内外の政情あるいは郷土の将来についてともに議論し、ともに語り合ううち、私は、君の豊かな学識と清廉潔白でさわやかなお人柄に深く魅せられ、また、君の政治に対する真摯な姿勢に心から敬服いたしておったところであります。
 今国会の召集日には、元気な姿をこの本会議場でお見かけしましたのに、前橋で君の突然の訃報に接し、ただただ驚愕するばかりでありました。翌八日、駒場の御自宅に駆けつけましたが、「ちょっと検査に行ってくるよと申しておりましたのに、それがこんなことになってしまうとは。一日も休みなく働いてきた人でした。」と御遺体のまくら元で言葉を詰まらせる奥様のお姿に、いかに政治に携わる者の常とは申せ、世の無常、人の今のほかなさを感ぜずにはいられなかったのであります。
 私は、ここに、諸君め御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 君は、昭和四年二月、中島知久平氏の長男として群馬県新田郡尾島町にお生まれになりました。御尊父は、昭和の初期に衆議院議員として在職され、鉄道、軍需、商工の各大臣を歴任し、さらには立憲政友会の総裁を務め、また、今日の富士重工の前身であります民間航空機産業中島飛行機を創設されるなど、政財界において大いに活躍された方であります。
 君は、生後間もなく、御尊父の政務の都合で東京に彩られ、昭和十六年、戦時一色の時代に慶応義塾普通部に入学されました。戦局の悪化とともに勤労動員の生活に明け暮れ、予科一年の十六歳のとき終戦を迎えられました。暗く荒廃した戦後の混乱期にあって、鮮やかな色彩と精緻なディズニーのアニメに出会い、そのすばらしさに深く感動された君は、戦後の孤立した日本が世界と交流していくためには、国境を越えて多くの人々と対話できるアニメーションの世界こそ、将来自分が進むべき道であると心に決めて、学業の傍ら、芸術院会員の中村研一氏にデッサンを学ぶなど、映画人としての研さんを積まれたのであります。
 昭和二十六年、慶応義塾大学経済学部を卒業された君は、迷うことなく大映に入社、豊かな感性と独創的発想をもって、産業スパイ映画「黒の試走車」を初め、我が国初のSF映画を制作するなど、その異才ぶりを発揮されたのであります。
 昭和三十七年、同社を退き、日本動画製作会社を設立した君は、かねて宿願のアニメの制作にかかり、栃木に伝わる民話を題材にして「九尾の狐と飛丸」を完成させ、ここに長年の夢をついに現実のものといたしたのであります。(拍手)文部省選定となったこの映画が、君を政治の舞台に立たせる大きな契機ともなるのであります。
 地元栃木の民話とあって興味を持たれ、国会での試写会に見えられた船田中元衆議院議長は、君が多年にわたり盟友であった知久平氏の御子息と知るや、その場で、政界への転身を強く勧められたのであります。「かつて政治は国境の壁を越えられず、世界からの孤立を招いてしまった。私は映画を通して世界の人々と対話をしていきたい。」と渋る君に船田元議長は、「今や我が国は、世界と直接対話していくときだ、君のその意欲を政治の場で発揮させたらどうか。」とさらに強く決断を促されたのであります。
 折しも郷土太田においては、中島待望の声が高まり、さらに「四十になったら太田に帰り地元のために尽くせ」との亡き御尊父の言葉も思い出され、それまで政治の道を歩むことなど夢想だにしなかった君ですが、ここにみずからの生涯を政治にささげる決意を固められたのであります。(拍手)
 かくして君は、昭和四十四年の第三十二回衆議院議員総選挙に群馬県第二区から勇躍立候補、「中央への新しいかけ橋」をスローガンに初陣に臨み、見事当選の栄冠をから取られたのであります。(拍手)
 本院に議席を得られてからの君は、社会労働、大蔵の各委員を初め、商工委員会、予算委員会の理事として卓越した識見と豊富な経験を生かして国政の審議に当たられました。また、与野党伯仲下の昭和五十八年に外務委員長、翌五十九年には内閣委員長の要職につかれ、お人柄そのままの誠実にして公正な委員会運営の衝に当たり、よくその重責を果たされたのであります。
 君はまた、自由民主党にあっては、調査局長、副幹事長、経理局長あるいは中小企業調査会長等を歴任し、党務の処理や国会対策に尽力され、また、君の本領とする政策の立案にその手腕、力量を遺憾なく発揮せられたのであります。
 この間、政府においては通商産業、経済企画の両政務次官を務められるなど幅広く着実に実績を積み重ね、昭和六十二年十一月、竹下内閣の文部大臣として晴れて入閣されたのであります。(拍手)
 時に、我が国における国際化、情報化の進展、科学技術の進歩に対応し、さらには人生八十年の長寿社会の到来に向けて、創造的で活力ある社会を築くための教育改革は、重要な政治課題でありました。
 君は、「二十一世紀は青い鳥を求めて再出発する時代。つまり人間の豊かさを求める心をもう一度見直そうという時代」と語り、人々がより豊かな充実した人生を送ることができるように、いつでも、どこでも生涯を通じて学べる「生涯学習」を教育改革の基本に据え、全精力を傾けて取り組まれ、文部省に生涯学習局を設置するなどの改革を断行、生涯学習制度の基礎を確立せられたのであります。(拍手)
 君が先鞭をつけられた「生涯学習」は、今日、国はもちろん、地方においても教育行政の最重要課題として位置づけられ、多様な施策が講ぜられ、若者がち老人に至る数多くの方々が、さまざまな学習や文化、スポーツに積極的に親しむようになってきております。また、オペラ、ミュージカルなど現代舞台芸術のセンターとなる第二国立劇場の設立促進等に力を尽くされました。
 このように君が文教行政に残された功績は、まことに大きなものがあります。
 君の御活躍は多岐にわたるものがありますが、とりわけ、中小企業問題には深い関心を寄せられておりました。国民の大多数の人々が生活の基盤としている中小企業の健全な発展なくして我が国国民経済の発展はあり得ないとの信念から、その育成と振興に終始力を注いでこられました。
 中小企業の事業分野への大企業の進出を調整する中小企業事業分野法の制定、大規模小売店舗法及び商調法の改正を初め、数多くの中小企業関連法の立案成立に尽力され、その識見と業績は、党派を超えて高く評価されたところであります。(拍手)大企業の名門の出身でありながら、君はひたすら経済的、社会的弱者の立場に立って政治の光を当てる政治姿勢を貫き通されたのであります。
 君はまた、こよなく郷土群馬を愛し、ふるさとの発展のために心を砕かれました。海のない内陸県群馬の産業経済の活性化を図るためには、交通網の整備は不可欠な課題であって、「群馬に海を」、これが君の初当選以来訴え続けられた夢の一つであります。茨城の港と結ぶ北関東横断道路の建設構想を、当時、首都圏整備特別委員でもあった私に熱っぽく語りかけたものでございました。あのころは夢のまた夢と受け取られていましたが、今や現実のものとなろうといたしております。
 また、東もの表玄関上武国道も、君がその建設に精魂を傾けられました。去る二月二十日、上武国道の開通式が多くの関係者を迎え盛大に挙行されましたが、群馬の社会経済発展に大きく寄与する新動脈上武国道は、地元に残された大きな遺産として君の名は後々まで語り継がれるでありましょう。(拍手)
 また、私たちのふるさと群馬は、石器時代の岩宿遺跡や弥生後期の日高遺跡等、数多くの貴重な文化遺産が散在いたしております。君は、このような群馬こそ国立考古学博物館の最適地として、県選出国会議員の先頭に立ち、その誘致に向け大いに尽力されていたところであります。
 かくして中島君は、本院議員に当選すること七回、在職十八年三カ月の長きにわたり、我が国国政の進展に寄与された功績は、まことに偉大なものがあります。(拍手)
 思えば君は、紺の背広のよく似合う英国型の紳士でした。おごらず、おもねず、いかなる困難に直面されてもにこやかな笑顔を絶やすことなく、周辺に常にさわやかさを漂わせておりました。政策の研究を怠らない勉強家であるとともに、多忙な政務の中に暇を見つけてはピアノを弾き、絵筆もとられる心豊かな方であり、町づくりのエッセイを著す文筆にもすぐれた才能をお持ちでありました。文人政治家と言われるゆえんがここにあります。(拍手)
 また君は、請われると、論語の言葉である「和而不同」また「和而不流」と揮毫されました。何事をなすにも、和を念頭に置きつつも、いたずらに譲歩を重ねることなく、守るべきことは守るとの。姿勢を堅持された純一な政治家であります。
 十年前、日米間が自動車問題で紛糾、事態解決の適任者として訪米を勧められたとき、今政治家が動きべきではない、問題処理はまだ経済人のレベルにあると判断、訪米を固辞されたのであります。実は、行くだけで政治家として点数が稼げるのではないかという含みもあったと言われるだけに、邪道を嫌い、政治家としてとるべき大道とは何かを問い、それを実践された希有の人でもありました。(拍手)
 そしてまた、人間味あふれる人でもあります。小児がんにむしばまれた子供がいると、いち早く見舞いに訪れ、医療費の問題について助言し、輸血を必要とする青年には献血に奔走するなど、親身になって手を差し伸べられました。まさに生命のとうとさを説く人間愛に徹した姿がしのばれるのであります。
 このような君が、政界の紳士として人望を集め、また郷土の人たちから信頼され、限りなく敬愛されたのも、けだし当然と申せましょう。(拍手)
 君の足跡を顧みるに、時に思わぬ苦杯を喫し、雌伏を余儀なくされた時期がありました。たね子夫人は、捲土重来を期する君とともに、選挙区をくまなく回り、この試練を乗り越えられたのであります。ここに今、君との二人三脚で苦楽をともに歩んでこられた奥様の御心中を察するとき、私はお慰めの言葉を知らず、万感胸の詰まる思いであります。
 享年六十二歳、政治家としてまずまずの御活躍が期待されるとき、中島君は志半ばにして忽然として去っていかれました。もはやこの議場で、君のあの温容、あの朗々たる立室戸に接することはできません。ひとしお哀惜の念を禁じ得ないものがあります。
 今日、我が国をめぐる内外の諸情勢は極めて厳しく、解決すべき課題が山積をいたしております。とりわけ政治に対する信頼の回復のため、政治倫理の確立、政治改革の実現はまさに急務であります。
 このときに当たり、清廉潔白、人格、識見ともにすぐれた前途有為の政治家中島君を失いましたことは、返す返すも残念であり、ひとり自由民主党のみならず、本院にとりましても、我が国にとりましても、まことに大きな損失であると申さなければなりません。(拍手)
 ところで、去る三月末、郷土の人たちは、君への思いを御子息洋次郎君に託し、本院の議席を与えられたのであります。君の志は、洋次郎君によって立派に受け継がれることでありましょう。
 ここに、謹んで中島源太郎君の御遺徳をしのび、生別の御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。(拍手)。
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発言情報

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発言者: 山口鶴男

speaker_id: 28396

日付: 1992-04-17

院: 衆議院

会議名: 本会議