田邊誠の発言 (本会議)

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○田邊誠君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員齋藤邦吉先生は、去る六月十八日、入院先の国立東京第二病院において逝去されました。まことに痛惜の念にたえません。
 昨年の秋には、流動する政治の節目にあって元気に活躍されておりましたが、その後、体調を崩され、再度の御入院の後、御家族の懸命の看護のかいもなく、八十二年の生涯を静かに閉じられたのであります。弔問にお伺いした私が相対した先生の寝顔は、大往生そのもののように安らかでありました。
 私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 齋藤先生は、明治四十二年六月、現在の福島県相馬市にお生まれになりました。
 幼少のとろより俊英の誉れ高く、向学心に燃えた先生は、長じて旧制相馬中学校から第一高等学校に進み、さらに東京帝国大学法学部に学ばれました。
 そして、昭和八年に大学を卒業、高等文官試験に合格後、直ちに内務省に入り、神奈川県に配属となり、地方行政について研さんを積まれた後、本省に戻り勤務されました。世界的な恐慌、五・一五事件の発生、国際連盟からの脱退など、政治的、経済的に内外ともに激動のときに、内務省にあって、時流の赴くところをじっと見詰め、みずからの進むべき道に思いをめぐらされたのであります。
 その後、静岡県の教育課長を務められ、昭和十四年、新設間もない厚生省の職業部勤務となり、これが戦中戦後を通じて、先生が労働行政に携わることを運命づけられていく出発点となったのであります。
 そして、戦後間もない昭和二十二年には、先生が厚生省大臣官房総務課長のときに、みずから事務担当として尽力し設立されることになった労働省に、その発足と同時に移り、大臣官房総務課長、職業安定局長、労政局長を歴任されました。
 この間、先生は、我が国のILO復帰のために国際労働機関総会に首席政府代表として出席されました。この総会において、多年にわたる復帰実現への努力が実を結び、日本のILO再加盟が認められることになったのでありますが、先生は、
その歴史的な使命を見事に達成されたのであります。
 そして、昭和二十八年には、四十三歳にして労働事務次官に就任され、労働情勢に通暁された先生は、労使間の調整を図り、労働金庫法の制定、労働者生活協同組合の設立等に貢献するなどその業績は枚挙にいとまなく、四年有余に及びその重責を立派に勤め上げられたのであります。
 昭和三十二年、この在任中に郷里の大竹作摩元福島県知事から「後任として県の近代化のために働いてほしい」と懇請された先生は、今日まで自分をはぐくみ育ててくれた郷土のためにその身をささげるべく、同年八月の福島県知事選挙に立候補されたのであります。そして、選挙を通じて郷土福島の発展に尽くす覚悟を懸命に訴えられたのでありますが、健闘わずかに及ばず、苦杯を喫せられたのでありました。
 しかし、この経験が先生にむしろ政治家として生きる決意を固めさせ、知事選挙で受けた郷土の人々の温かい心にこたえるため、翌昭和三十三年の第二十八回衆議院議員総選挙に福島県第三区から立候補し、すべての国民の生活を守る政治の確立、中でも、母子、養老、身体障害者年金などの国民年金制度を中心とした社会保障制度の確立のために渾身の努力を払うことを約束されました。先生のこの政見は、選挙民の力強い支持を受け、見事最高点をもって初当選の栄に輝いたのであります。(拍手)
 本院に議席を得られてからは、労働、厚生問題のエキスパートとしての豊富な経験と卓越した識見は、たちまち嘱目されるところとなりました。
 自由民主党にあっては、間もなく政務調査会労働部長に就任、引き続き、労働問題特別調査会副会長、政調社会部会長等の要職を歴任され、常に国民生活の安定、向上を念頭に、党の政策の立案、推進に大きな役割を果たされたのであります。
 本院にあっては、結社の自由、団結権の保護に関するILO八十七号条約の批准をめぐって、二年生代議士ながら、社会労働委員会の理事として、すぐれた実務家の経験を生かして、各党間の調整に奔走、その批准に貢献され、早くも「社会労働委員会の齋藤」の名を内外に知らしめることになりました。(拍手)
 昭和三十五年に国会に当選した私が、齋藤先生のけいがいに接したのは実にこの時期に当たり、その国会の第一線での活躍、手腕に目を見張り、畏敬の念を抱いたのでありました。自来、制度改正の節目に遭遇するたびに先生と相対する関係になり、その目覚ましい力量を知るに至ったのであります。
 また、昭和四十三年には公職選挙法改正に関する調査特別委員長、昭和四十六年には大蔵委員長に就任、公正で円満な運営に全力を注がれ、先生の誠実にして信義に厚い人柄は、与野党委員の信望を一身に集めるに至ったのであります。
 一方、内閣にあっては、昭和三十八年には大蔵政務次官に、昭和三十九年には第三次池田内閣の内閣官房副長官に就任され、行政に研さんを積まれました。
 そして、昭和四十七年、第二次田中内閣の厚生大臣として、初の入閣を果たされたのであります。かねて福祉国家の建設に情熱を注がれてきた先生は、福祉の大きな柱をなすものは年金と医療保険の二つであるとの政治信条から、その改善に積極的に取り組まれました。
 福祉元年と言われた昭和四十八年、懸案でありました健康保険法等改正案、厚生年金保険法等改正案の両改正案をよく成立に導かれたのも、各党の理解を得べく先生が精魂を傾けられた努力と熱意の結果にほかならなかったと思うのであります。(拍手)
 特に対決法案として三年間も持ち越された健康保険法等改正案が、私ども野党の意見も取り入れ、大幅修正の上、成立した過程で、先生の果たされた指導的役割は後世の語りぐさとなっており、中でも、国民の負担を求めるときは連動して国の負担も増加させるという方式を編み出した先生のすぐれた政治的感覚と国民本位の政策立案能力は、私ども当時の関係者の驚嘆するところでありました。(拍手)
 これらの改正で、家族給付の七割支給、高額療養費支給制度の新設が図られ、また、いわゆる五万円年金と年金額の自動物価スライド制の導入が実現されました。
 先生御自身が、当時を回顧して、「諸外国に負けない制度の確立をなし遂げ、我が国の厚生行政が世界の標準に達するところになったことは、私にとりましても生涯忘れ得ない会心事であった」と語られておりますが、これらの改正は、年金、医療保険制度の将来に向けて新たな一歩を踏み出したものであったと申せましょう。
 また、先生は、医療供給体制の整備にも力を入れ、昭和四十九年から、人口十万人以上の市のすべてに休日・夜間診療所を設置し、看護婦不足に対処するためナースバンクを新設するなどの措置を講ずるとともに、老人福祉対策、保育所の整備などについてもきめ細かな配慮をされました。社会情勢の変化、時代の要請に機敏に応じ、かつ、
将来を洞察した政策を力強く推進されたのであります。
 かように、先生の福祉に尽力された御功績はまことに多大であり、その一つ一つが今日の福祉政策の礎を築くものであったと申せましょう。
 こうした実績を高く評価されて、昭和五十五年、三たび厚生大臣を務められた後、昭和五十七年には行政管理庁長官に就任され、行政改革の重要性が叫ばれるときにあって、行政事務簡素化法案など行政改革関連法案の審議に精力的に当たり、これが成立に導かれたのであります。
 かくのごとく、齋藤先生は、屈指の政策通であり、とりわけ労働、厚生分野での多くの実績は、政策についての深い造詣と余人の追従を許さない卓越した見識の持ち主であるとともに、その根底には、「政治で一番大切なのは、国民の中にある「日陰」をなくすことであり、温かい太陽の光をまんべんなく受けられることだと思う。」とのかたい信念があったからに違いありません。(拍手)
 昭和五十二年には、自由民主党の筆頭副幹事長として、党幹事長を立派に補佐され、翌五十三年には、第一次大平内閣の発足に当たって、党幹事長の要職につかれたのであります。当時の激しく揺れ動いた政局にあって、大変な御苦労をされながら、持ち前の誠実さと粘り強さで議会政治の確立のために腐心され、政治家としての練達堪能ぶりを示されたことは、今も我々の記憶にとどめられているところであります。
 中でも、五十四年の予算案審議が渋滞したことを打開するための各党折衝が行われた際、雇用対策に関して私と話し合いに当たられた先生は、翌年以降実施を予定していた計画を先取りすることを決断され、内部の抵抗を懸念した私に対して、「国民のためになる施策を一日も早く実施するのが政治だ、役所は私が説得するよ」と自信あふれる言葉を述べられたのでありまして、齋藤先生の行政への影響力の強さと、官僚を十分活用できる政治家としての真の権威をしみじみと感じさせられたのであります。(拍手)
 かくして、齋藤先生は、本院議員に連続して当選すること十二回、在職実に三十四年四カ月の長きに及び、昭和五十八年二月には、永年在職議員として、院議をもって栄誉ある表彰を受けられました。
 この間、先生が国政の上に、また議会政治の発展のために残された功績は、まことに偉大なものがあります。
 先生は、中央政界にあって多端な激務に当たられる傍ら、常に郷土の発展を念願されておりました。「国をよくすることは、郷土を発展させることが根本、国と郷土のかけ橋になろう。」と郷土福島の発展に尽力され、数々の社会基盤の整備に多くの業績を残されました。
 こうして地方と国政を結ぶ大きなかけ橋となられた先生を惜しむ地元の人々の声は、今なお県下に満ちあふれているのであります。
 バラづくりは、先生の御趣味の一つであり、その腕前は一かどのものであったと伺っております。多忙な政務の日々にあって、ひとときバラづくりにいそしまれる先生の柔和なお姿がほうふつとして今浮かんでまいります。
 思えば、いつも笑みを絶やさず、だれにでも気さくに接する先生の身辺は常に春風駘蕩としており、その円満な人徳と包容力豊かな人柄は、常に兄貴としての風格を備えて、多くの同僚、後輩、知友から尊敬され、慕われてまいりました。(拍手)
 今や、我が国の内外の情勢は激しい流動を続け、幾多の試練と難関に直面しております。とりわけ、社会の高齢化が進み、二十一世紀に向けて福祉国家としての国民の要請にいかに対応すべきかが問われているこのときに、屈指の労働、厚生の指導者であり、福祉国家の建設に終始一貫して取り組まれてきた先生の豊富な経験とすぐれた識見、円熟されたお人柄に期待するところ極めて大きいものがありました。
 しかるに、このような期待もむなしく、もはや、この議場に、「邦さん」と愛称され、だれからも慕われた先生のあの温顔に接することかなわず、痛惜の念ひとしおのものがあります。
 殊に、長年、内にあって先生を支え、労苦をともにされてきた奥様の御心情を思うとき、お慰めの言葉もありません。それでも御子息は皆立派に成長され一家をなしておられ、中でも長男邦彦君は、先生の歩まれた行政の同じ道を進み、現在、労働省職業安定局長の要職にあることは、直接先生の意志を継ぐことであり、齋藤先生にとって大きな喜びであったと思うのであります。(拍手)
 また、政治家としての先生の最後の念願であり、執念を燃やした宮澤政権の実現に、礎石となって大きな役割を果たしたことを思うとき、先生の逝去された悲しみを人一倍感じておられるのは、宮澤総理その人であると言えるでありましょう。先生の御逝去は、ひとり自由民主党のみならず、本院にとりましても、国家国民にとりましても、この上もない大きな損失であり、惜しみてもなお余りあるものがあります。
 しかし、先生が国政の場に、あるいは郷土に残された幾多の業績と御遺志は、先生を敬慕する多くの人々の胸に深く刻まれ、力強く受け継がれていくことを信じて疑いません。
 齋藤先生、どうぞ安らかにお眠りください。
 ここに、ありし日の齋藤邦吉先生の面影をしのびながら、その御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 112505254X00419921110_004

発言者: 田邊誠

speaker_id: 14363

日付: 1992-11-10

院: 衆議院

会議名: 本会議