中田一男の発言 (財政・金融委員会)

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○参考人(中田一男君) 苫小牧東部開発の中田でございます。よろしくお願いいたします。
 本日は、当財政・金融委員会にお招きをいただきまして、苫小牧東部開発の現況につきましていろいろお聞き取りいただく機会を与えていただきましたことをまずもって御礼申し上げたいと存じます。
 お手元に封筒に入った資料をお配りしてございます。「苫小牧東部地域の開発」というパンフレット、その中に幾つかのリーフレットが挟まれておりますが、まず最初にこのパンフレットをちょっとごらんいただければと思います。
 三、四ページを開いていただきますと、地図が四ページ目に出てございます。ちょうど新千歳空港のすぐ南側、太平洋に面した地域でございまして、黄色であらわされている長方形の区域でございます。この区域は、南北の距離が十二キロ、東西の幅が八キロございます。この広さを実感していただくために東京からおいでになったお客様にはよく申し上げるんですが、東京の山手線の大崎から田端まで南北が十二キロでございます。それから、新宿から東京までの幅が五キロでございます。苫東の区域は、南北は山手線の長さ、東西の幅はその一・六倍ございまして、山手線の内側の面積の約一・七倍の広さを持っております。
 その一ページ前の一、二ページに航空写真が出ております。空から見ますと平たんな土地でございます。この航空写真の左上の方に新千歳空港が写っておりますように、新千歳空港のターミナルからこの区域の中心地まで、直線距離で十五キロぐらいの近さでございます。車ですと十五分か二十分ぐらいで移動できるという状況でございます。
 そして、非常に平たんな土地でありまして、一番高いところで標高二十メーターぐらい、標高差が二十メーターぐらいのほとんど平たんな土地でございまして、この地域に着目して大規模工業基地を建設しようという構想が起こってきたわけでございます。
 私どもの会社が発足いたしましたのは昭和四十七年七月でございます。この地域に大規模工業基地を建設しようという動きは昭和四十年代の初めごろからございました。地元では特に北海道庁が大乗り気でございまして、既に昭和四十四年ごろから道独自でこの地域の土地の先行取得に入っておりました。
 御案内のとおり、当時、日本経済は高度成長の余韻がまだ十分残っておるころでございまして、鉄鋼の生産が一億トンぐらいに達したところでございました。臨海工業地帯というのは非常に競争力のある地域だ、原材料を船で運んできてそこで製品にして輸出するということで、まだまだ日本の国が伸びていくというふうに考えておりました。したがって、鉄鋼生産も一億五千万トンから二億トンぐらいまで伸ばしていかなきゃいけない、非鉄金属、石油精製、石油化学等についてもまだまだ大型の立地が必要だという時期でございました。
 苫小牧東部のこの地域も全国幾つかの大規模工業基地の開発候補地として挙げられ、国は北海道総合開発計画あるいは苫小牧東部地域の開発の基本計画を樹立いたしまして、この地域に大規模工業基地を建設しようということに相なったわけでございます。
 この計画を進めるに当たって、どういう形でやっていくかということは当時いろいろ御議論があったようでございます。非常に大きな計画ですので、特殊法人、公団とか事業団のようなものがやっていくのがいいのか、あるいは道の公社のようなものがいいのか、あるいはまた第三セクターという方式で民間の資金なり活力なりを活用してやっていくのがいいのか、真剣に議論されたそうでございます。
 昭和四十七年当時、既に必要な土地の七割ぐらいは北海道の方で取得しておられました。そしてまた、産業界の方では鉄鋼とか石油精製とか石油化学とか大規模な企業がここに立地をしたいという希望を複数出しておられました。それだけに、建設が順調にいけば需要サイドは問題がないだろう、どれぐらいの事業期間があれば港湾をつくり道路をつくり造成がやっていけるのかというふうなことを主として検討して、大体十五年から二十年ぐらいの間にはそういう工事ができる、したがってこの事業はそれぐらいのリードタイムで完成するというような見通しでございました。
 したがって、ともすれば予算等で事業規模が制限されがちな公団、事業団の方式よりは、民間の資金を活用して第三セクターでやっていく方がいいだろうという御判断で会社が設立されることになりました。
 発足当初は授権資本が六十億、払込資本金が二十億、役職員のスタッフ総数三十六名という規模で出発をいたしました。設立世話人会で披露されました当初の事業資金計画を見てみますと、四十七年に会社が設立され、四十八年から分譲を開始する、昭和六十年度、設立後十三年目ぐらいまでに土地の分譲収入は三千億余り、それに対して土地代あるいは造成費等の事業支出は二千六百億余り、十三年間で法人税も百億以上の納付が可能だろうというような計画、予想見込みでございました。
 また、事業資金の調達につきましても、六十年度までの事業資金の必要額は大体六百億弱、五百億から六百億ぐらい、その一割を資本金で集めようということで授権資本は六十億円、残りは借入金によって賄うという計画でございましたが、大体設立十年後、昭和五十六年度には借入金はゼロになるであろう、こんな計画が当時検討されておりました。
 実際に会社が設立されました後、順調にいったかといいますと、供給サイド並びに需要サイドそれぞれでこの計画とは大きな食い違いが出てまいりました。
 まず、供給サイドでございますが、この地域に大規模工業基地を建設するというのは地元の悲願であったわけですが、一方では大規模工場というのは公害発生の源であるというような性格もございまして、反対運動も根強くございました。あるいは一万ヘクタールを超える地域にどのように道路を建設し、どういうふうに整備していくかという基盤整備の計画をつくりますのにも、関係者がたくさんいらっしゃったということもあって、その調整に非常に手間取っております。あるいは漁業権の補償交渉というのも時間がかかっております。また、環境アセスメントをしっかりやらなきゃいけないということで、その準備にも時間がかかっております。
 そういったことに時間をかけておりましたので、実際に造成に着手しましたのは昭和五十二年、初めて分譲が行われましたのは、北海道電力の苫東厚真発電所に対しまして昭和五十三年に第一号の分譲が成立した。当初の予定では四十八年ごろから既に分譲できるであろうというふうに考えておりましたけれども、非常にずれ込んだわけでございます。
 一方、この間に日本経済の構造に大きな変化が生じました。四十八年に第一次オイルショックがございまして、石油資源の確保というものが非常に頭の痛い問題になってまいりました。五十年代に入ってからは円高の傾向が始まりました。そして、日本の経済では既に重厚長大型の産業は限界に来ておる、これからは軽薄短小型の産業に移行していく必要があるというふうに産業構造が大きく変わってまいりました。
 苫東の場合、当初予定しておりました大きな企業の立地希望はこういった構造の転換の中でそれぞれ辞退するという形に相なりまして、当初の予定どおり立地が進みましたのは北海道電力の発電所と、それから無公害型の産業であるということで地元が熱心に誘致をしてまいりましたいすゞ自動車工業の立地、この二件のみでございまして、それ以外の大規模工場はいまだに誘致することができないという状況になってございます。
 しかし一方、石油備蓄というのが国の政策として浮かび上がってまいりまして、全国に幾つかの大きな石油備蓄基地が必要だということで、苫小牧東部開発地域もその候補の一つになりました。地元では、大規模工業基地なので石油備蓄基地をこの基地内に設けることについては反対論もございましたけれども、関係者で調整をしていただきまして、石油備蓄基地をこの基地内、この苫東の地域内に取り込むということで計画を改定していただきました。
 私どもは第二段階計画と呼んでおりますが、苫東基本計画の中のツーステップ目の計画で石油備蓄基地を取り込みまして、昭和五十三年から六十一年までの間に、民間の石油備蓄会社並びに国の石油備蓄会社の二社に対しまして四百十七ヘクタールの土地を造成し分譲いたしております。
 この分譲が進んでおりますころは年間の売上高が大体百億から二百億ぐらいに達しておりまして、法人税を納付するというようなところまで会社の体質は強化されました。しかしながら、先行きとしては大規模工業基地の建設というのはもう限界に来ておるということでございまして、それ以外の立地は遅々として進んでおりませんでした。
 昭和六十年代に入りまして、大規模工業基地をねらうのではなくて、むしろ空港に一番近い地域、柏原地区を臨空工業団地として造成し、企業誘致をしようというふうに方向転換をいたしました。これも国を初め関係者の間で意見調整をしていただきまして、第三段階計画ということで計画の一部手直しをしていただいて、先ほどの図面で空港に一番近い左上の地域を小規模な小口の分譲に踏み切ったわけでございます。
 昭和六十年から平成二、三年ごろまでは土地ブームがございましたし、それから大都市近郊の工場が郊外に移転するというふうな流れがございました。特に平成三年にはトヨタ自動車が苫小牧西港に立地をいたしまして、その関連企業でありますアイシン精機さんとか日本板硝子さんとか、そういったところが苫東基地内に工場用地を手当てしてくださいました。
 そして一息つきましたけれども、その後の円高の進展等によりまして企業の立地が日本の国内に向かうよりは外国に向かうというふうな風潮になり、私ども会社の方も営業の人間をふやしたりいろいろと努力をしてまいりましたけれども、この数年は土地の分譲は非常に低調になり、分譲が低調になるだけ金利の負担が重くのしかかるというふうな状況で推移してまいりました。
 平成五年ごろから大規模工業基地という看板はもう既に時代おくれというか、これだけではいけないということで計画の見直し作業が始まりまして、平成七年に新しい計画をまとめていただきました。それで、産学住遊複合開発ということをうたい文句にいたしまして、製造工業だけではなくて、大学、教育機関あるいは住宅、都市機能、さらにはスポーツ施設等、この地域を活用するために一種の規制緩和といいますか、利用する幅を大きく広げていただきました。
 私どもはそれを受けて、当時、首都機能移転なんかが議論されておりましたので、新千歳空港周辺に首都機能を移転するならば、あしたからでも工事が始められる場所があるというふうなことをPRして、平成七年十二月の調査会の報告には、六百キロ以上離れた場所であっても他の条件にすぐれたところは検討対象にしようというふうに言っていただくまでになりました。しかし、この大きなプロジェクトもその後は北海道は対象外になっております。
 それ以外に、国際熱核融合の施設ですとか、大きなプロジェクトについても地元と一緒に誘致活動をしてまいりました。
 それから、企業誘致につきましても、会社独自でアンケート調査を行い、戸別訪問をするほかに、北海道あるいは苫小牧市と共同で企業誘致を図ってまいりましたが、十分な成果を上げることはできなく、非常に残念に思っております。
 平成九年に入りまして、九月二十四日の閣議で「特殊法人等の整理合理化について」というのが閣議決定されました。北海道東北開発公庫と開銀とが統合するまでに苫東、むつの案件については結論を出すんだということに相なりました。それ以降、金融機関から、この結論が出るまでの間、融資をとめたいというふうな意見が出てまいりまして、協融団を組成するために努力いたしましたけれども、平成九年度の協調融資は組むことができませんでした。
 そして、平成九年十一月以降、金融機関からの借り入れができず、私ども会社の金利ですとか、償還期限の終わりました元本をお支払いすることはできないという延滞状況に入りました。それ以来、金融機関には結論が出るまでの間、元利棚上げをお願いしてまいりました。元利棚上げ自体は認めていただけませんでしたけれども、金融機関の方々は一応会社の経営を見守ってくださいました。
 この二年間、会社といたしましてはリストラに励みました。役員、職員の給与を引き下げ、希望退職を募り、当時六十二名いました従業員が現在二十五名まで、再就職のあっせんをしながら規定の退職金を支払い、整理をしてまいりました。何とか金融機関からお金を一銭も借りないままで今日までやっとやってまいりました。
 この間、昨年七月には北海道開発庁鈴木宗男長官のもとで新しいスキームを決めていただきました。私どもの持っております土地が新しい会社に引き継がれまして、このプロジェクトが続いていくというような方向になったことを従業員ともども非常に期待もし、喜んでおる次第でございます。
 少し時間をオーバーして申しわけございませんでした。まだまだお話ししたいことがございますが、いずれまた御質問の機会にお話しさせていただくことにいたしまして、冒頭陳述をこの辺で終わらせていただきたいと思います。
 本日はどうもありがとうございました。

発言情報

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発言者: 中田一男

speaker_id: 20285

日付: 1999-06-01

院: 参議院

会議名: 財政・金融委員会