綿貫民輔の発言 (本会議)
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○議長(綿貫民輔君) 本日表彰を受けられました他の議員諸君のあいさつにつきましては、これを会議録に掲載することといたします。
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原田昇左右君のあいさつ
ただいま、院議をもって永年在職の表彰を賜りました。議会人として誠に光栄であり、先輩同僚議員及び関係者各位に、厚く御礼申し上げます。これもひとえに、旧静岡一区、現二区を初めとする静岡県民の皆様の変わらぬ御支援の賜物であり、心から感謝申し上げます。また、私事ながら、政治生活を支えてくれた事務所のスタッフ、年老いた母、亡き妻、その他の家族にも御礼を申したいと思います。
このたび、アメリカで発生した同時多発テロは、残虐、非道な無差別テロであり、心底から怒りを禁じ得ません。犠牲になられた多くの方々に、改めて哀悼の意を表します。
私は、かって湾岸戦争のとき、イラクに拘束された人質の解放交渉に、議員団の一員として参加しました。席上、イラク側に日本の武士道について説き、武士は己を律するに厳しく、無辜の民を巻き添えにしないと話したところ、先方からは異論も無く、数日後に人質の解放が実現できました。これと比べて、今回のテロは全く何をかいわんやであります。我々は今こそ、テロの根絶と打撃を受けた経済の再建のために、全力を挙げて取り組まなければなりません。
さて、議員生活を振り返って印象に残るものは数多ありますが、そのうちの一つを挙げれば、国民の安全と安心に係わる地震立法を手がけたことであります。
私の初当選は昭和五十一年ですが、当時、東海地震間近しという説がマスコミに大きく取り上げられ、地元の静岡県民は不安な日々を過ごしておりました。そのため、何とか地震の予知を含めた対策ができないかと思い、各方面と折衝して、地震に関する体制整備を目指す「大規模地震対策特別措置法」を、さらに、いわゆる「財特法」を成立させました。それにより、駿河湾や周辺地域に細かくセンサーが張り巡らされ、東海地震の予知体制を作ることができた上、学校等の公共建物の補強が可能になりました。
その後二十数年を経て、予想外の阪神・淡路大地震が起きました。もともと日本列島は地震の巣の上にあり、何処で地震が起きてもおかしくない状態にあります。そこで、地震予知よりも、地震の被害を最小に抑える対策と、調査研究体制の確立を主眼として、「地震防災対策特別措置法」を超党派の議員立法で成立させ、若干の時間を経て、「被災者生活再建支援法」を作りました。被災住宅の再建については目下検討中ですが、これによって、地震対策は法的には一応整ったものと思います。
四半世紀に及ぶ議員生活を通じて、私は、どんな困難に遭っても常に前向きに考え、国益のため、郷土の発展のために力を尽くしてまいりました。これからもこの姿勢を貫いていきたいと思います。
最後に、サミエルウルマンの詩の一節を引用させていただき、お礼の挨拶といたします。
人は信念とともに若く 疑惑とともに老いる
人は自信とともに若く 恐怖とともに老いる
希望ある限り若く 失望とともに老い朽ちる
ありがとうございました。
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中西 績介君のあいさつ
本日、院議を持ちまして、永年在職議員として御丁重な表彰の決議をいただきましたことは、身に余る光栄であり、感激にたえません。
この栄誉は、ひとえに、先輩同僚各位の御指導、特に郷土福岡県の皆さんの多年にわたる温かい御支援の賜物であり、また、全国各地からの同志の声援のおかげであり、心から御礼申し上げます。
私が本院に初めて議席を得ましたのは、一九七六年、国内的には日中国交回復、沖縄本土復帰、ロッキード田中金権批判、田中内閣総辞職後田中前総理逮捕後の十二月でした。
政治倫理と本格的な国会の在り方が追及された時代でした。
しかし、今なお正常化されず、混乱は続いており、自責の念にかられます。
しかも、私自身、エネルギー革命により破壊的な打撃を受け、地域経済復興が最も困難な状況にあった旧産炭地、筑豊でありましたので、諸先輩とともに真正直に政治の在り方を勉強させていただきました。
私が育った時代は、世界恐慌による不況と治安維持法の猛威、国家主義の台頭、その結果、一九四五年八月十五日の敗戦直後、九月の卒業式に参加できたのは五十名中七名でした。
翌一九四六年、旧制中等学校の教職に就き、一月の天皇人間宣言、十一月、日本国憲法公布は、国家主義的観念を引きずっていた者として、平和憲法の九条は理解できても、十条以下の社会的イメージは当初理解できませんでした。
しかし、その成立過程と、翌年中止させられたが二・一ゼネスト参加以降、弾圧と学習の中で、国の最高法規であり、戦争の申し子であった者として、平和憲法三原則は、人間としてこれだけは如何なる事態になろうとも護り抜くことの勇気と誇りを持つことを決意しました。
しかし、半世紀、戦後民主主義は何であったかで問われています。
大国覇権主義追随と、経済至上主義による政治、経済、教育、社会構造の崩壊は、目に余るものがあります。
今こそ、国権の最高機関としての最大の危機乗り切りのため、真の国会再建を目指すべきです。
また、本日採決される自衛隊法改正、テロ対策防止法等は、今こそ冷静に再検討し、撤回すべきです。
私は、二十一世紀を担う世代に平和で心豊かな社会を引き継ぎ、地球規模で人間の尊厳を認め合い、共生と連帯を築くためには、世界唯一の日本国憲法前文の崇高な理想と目的を達成する以外に実現はできないと確信します。
いささか所感を述べましたが、お許しをいただき、今後一層の御指導、御鞭撻をお願い申し上げまして、感謝の言葉といたします。
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谷 洋一君のあいさつ
このたび、衆議院在職二十五年に当たり、院議をもって表彰していただきましたこと、誠に光栄であり、感謝にたえません。
これもひとえに、中曽根康弘先生を初め、多くの先輩同僚議員の皆様方の御指導、御鞭撻の賜物であり、また、今日まで温かい御支援をいただきました郷土の皆様方のおかげであります。改めて、心から厚く御礼申し上げます。
私は、第三十四回(昭和五十一年十二月)総選挙で初当選いたしました。三回目の選挙後ぐらいから、最高裁判所から一票の格差が強く指摘され、我が選挙区は、三名区から二名区に減員という運命が待ち受けていました。第三十八回総選挙から実施されました。選挙制度もこれで安定するかと思いましたが、第四十一回から小選挙区比例代表選挙が行われ、これほど選挙区情勢の変化があったにもかかわらず、選挙区の皆様方に絶大なる御支援をいただいたこと、心から感謝を申し上げます。
振り返りますと、昭和三十年、町議会議員に当選して十年、昭和四十年より村岡町長を六年務めた後、昭和四十六年、兵庫県議会議員に当選し五年八カ月、師小島徹三先生の御推挙により後継者として出馬し当選しましたことが、今日の栄誉を担うことになり、心から感謝しております。
昭和五十六年十二月、自治政務次官に就任は、嬉しさがこみ上げ、感激を覚えました。以来、今日まで地方自治、過疎山村問題等に力を入れてまいりましたし、建設政務次官就任以後は、地域開発の発展に努力してまいりました。特に自治、建設、農林水産に頑張りました。
世界平和のために、日朝友好促進議員連盟会長として、朝鮮民主主義共和国と日本の友好親善に努力しましたことや、日本ウルグアイ友好促進議員連盟の会長として、ウルグアイに、自閉症の子供たちの学校をつくったことも、大きな思い出です。
今、世界は大変な動乱の時期に入りました。それは、アメリカにて同時多発テロによって、人類が意識を変えなければならない時代となりました。日本の平和、世界の平和、心から願わなければなりませんが、日本の伝統、「親を大切に、兄弟仲良く、友人隣人を大切に」この気持ちをもう一度見直す時代が今だと思います。
今、私は、自民党の林政調査会長として、新しい森林林業に取り組んでいます。山林は資産価値を失ったと言われますが、それ以上に大切な国土の保全、水資源の涵養、環境整備など、限りなく大きい使命があります。我々は山を大切にしようという日本古来の風習をよみがえらすのが私の願いです。
長年にわたります皆様方の御厚情に対し、衷心より感謝申し上げまして、私の御挨拶とさせていただきます。
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津島 雄二君のあいさつ
このたび、本院永年在職議員として院議をもって表彰を賜り、議会人としてこの上ない名誉であり、先輩同僚議員各位に対し、心から御礼申し上げます。特に、昭和五十一年から今日まで、一日も欠かすことなく私を地元選良として本院に送っていただいた青森県民有権者の皆様には、心の底から深く感謝いたしております。
思えば、在職二十五年の間、世紀の変わり目というこの時期を通じて、我が国を取り巻く情勢は、冷戦の終結や新たなる国際テロリズムの台頭など、特筆すべき展開があり、また、国内の社会・経済状況においても、バブル経済の崩壊と長引く資産デフレ・不況や、本格的な少子高齢化の到来など、これまでの経験では対応できない困難な課題に直面しているところです。このような歴史的挑戦を前にして、今、何よりも求められるのは、変化に対応できる政治基盤の形成であり、これに向けての国民の理解と協力の確保であります。
私は、この機会に、次の三つの課題について広く世論や同僚議員に訴えるとともに、私に残された政治家としての活動の日を、その課題の解決に献げたいと考えるものです。
第一は、政党政治の確立であります。
一定の理念に則った骨太の政策は、政治家個人の力のみによって実現できるものではありません。政党に所属する志ある政治家による、時間をかけての努力と、その積み重ねから生まれる伝統が必要です。社会や経済の変化に対応しながらも、政治力の結集の求心力を失わせない、強固にして柔構造を兼ね備えた政党がなければ、議会制民主主義は機能しません。五五体制の下で結成された自由民主党は、この意味における政党の役割を果たしてきたと確信しますが、他の政治勢力を含め、我が国の政党政治の確立のため、一層の努力が必要であると感じているのは、私一人ではないと信じます。
第二に、日常、政党間で激しい論戦が行われるべきことは当然ですが、一朝有事、すなわち我が国の命運のかかる困難に直面したときは、党利党略を乗り越えて、国民の平和、安全、福祉のために結束できる日本の政治であってほしいと念願するものです。
第三は、国際社会の中で日本がより建設的で、かつ、積極的な役割を果たすことです。
言うまでもなく、日本の人口は、世界人口の二%にも満たない一方で、経済的には世界のGNPの一五%を占めるのです。その事実を重く受けとめ、国民が二十一世紀においても真に揺らぎない平和と繁栄の途を歩み続けていくためには、世界の人々のために貢献し、憲法にも謳われるとおりの名誉ある地位を与えられなければなりません。比較的長い期間にわたり海外生活を経験することができた私としても、後世のため、この目的に沿って今後一層の努力を重ねたいと誓うものであります。
今日の栄誉にあずかった感激を忘れることなく、私は、これからも生命の続く限り、世界の平和と国民の幸せ、日本国の発展のために尽瘁することを改めてお誓いし、お礼の言葉といたします。
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池田 行彦君のあいさつ
このたび、院議をもって永年在職の表彰を賜りましたことは、身に余る光栄であり、感激のきわみであります。四半世紀にわたり国政に参画できましたのも、ひとえに、多くの方々、とりわけ郷土の皆様の御理解と御支援並びに先輩同僚議員各位の御指導と御鞭撻の賜物であり、衷心より感謝申し上げます。また、今日の栄誉を天上で喜ぶ二人の母を含めた家族の永年の労苦にも謝意を表するものです。
顧みますと、私どもが初めて議席を得た昭和五十一年暮れの総選挙では、四年の任期満了の上行われたこともあり、百二十四人に上る多数の新人が当選しました。当時、我が国の経済社会は第一次石油危機による激動の中にあり、政治の世界も大きく揺れておりました。エネルギー問題や環境問題、さらに、新しい経済社会の在り方等、時代の課題をめぐり、若い仲間で議論を闘わせたのも懐しい思い出です。
その後、大蔵常任委員長を務めたのを初め、予算委員会、内閣委員会、外務委員会等を中心に議会活動を続け、内閣にあっては、総務庁長官、防衛庁長官、外務大臣を歴任、自由民主党においても、政務調査会長、総務会長等として、時々の重要課題に取り組む機会を得たことは政治家として真に幸せであったと存じます。
殊に、防衛庁長官として、湾岸戦争終結後ではありましたが、海上自衛隊の掃海部隊を派遣できたことは、新たな国際貢献の途を拓くことにつながったと秘かに自負してきたところです。また、外務大臣としては、大きく変化した国際社会の枠組みの中での我が国の在り方を真剣に追求してまいりましたが、就中、日米同盟の今日的意義を確認し、将来に向けて一層緊密化していくことに力を注ぎました。党政務調査会長として、金融システムの危機への対処、連立の構築と維持のための政策協議に文字どおり日に夜を継いで取り組んだこと等、昨日のことのように思い起こします。
数々の局面でともに汗を流した多くの方々の友情と、主義主張を超えて国と国民を思う至情に敬意と謝意を表す次第です。
新しい世紀の劈頭に立つ今、世界も日本もテロリズムと闘い、新しい秩序を構築しようとしております。経済社会のパラダイム変革のための政治の役割も極めて大なるものがあります。私も二十五年の経験と反省を踏まえ、より一層の力を尽くす決意であることを申し上げ、謝辞とさせていただきます。
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中野 寛成君のあいさつ
私は、このたび、院議をもって永年在職議員の表彰の御決議を賜り、誠に光栄に思い、心から感謝申し上げます。
これもひとえに、恩情あふれる御指導を賜りました先輩諸兄及び友情に満ちた同僚のおかげであり、重ねて感謝申し上げます。
特に、「魔の大阪三区」と言われた選挙区で勝ち抜くことができましたことは、旧大阪三区及び分区後の現大阪八区の皆様や、格別の御支援を賜りました各種団体の皆様のおかげであり、厚くお礼申し上げます。
私が政治家を志したのは、小学校一年生の時でした。長崎での原爆体験と無医村での疎開生活の中で、「戦争や原爆を無くし、無医村に医者を呼ぶことのできる仕事」として政治家という仕事があるとの父の言葉がきっかけでした。
その後も父の事業の数回の失敗によって貧困生活が続く中で、中小零細企業対策や育英制度の充実など、政治家への決意はますます固まりました。
大学入学と同時に六〇年安保騒動に巻き込まれましたが、ちょうどそのころ、世界平和、議会制民主主義の確立、福祉国家の建設を党是とする民社党が誕生。胸をときめかせて早速入党。
豊中市議会議員を経て、若くして急逝された岡沢完治代議士の後を受けて、諸先輩のお推めにより衆議院に立候補、その時は落選しましたが、四年後の昭和五十一年、ロッキード事件直後の選挙で初当選、ついに夢の代議士になることができました。
その後は、永らく文教委員会に属し、政争の具になりがちの文教行政を立て直すことに心血を注ぎ、後に民社党の政策審議会長や書記長として、非自民・反共産の野党結集と二大政党制を目指し、頑張ったものです。
続いて、細川内閣、羽田内閣を支え、日本政治の改革に取り組みましたが、残念ながら、与党生活も短命に終わり、改めて野党の結集を目指し、新進党、新党友愛、民主党へと離合集散を繰り返しましたが、終始、政策調査会長などとして政策畑を歩み、中道勢力の結集と、二大政党制による議会制民主主義の完成と、社会政策の充実による国民生活の向上を目指し続けてきた誇りだけは、今日も堅持しております。
今、改めて内外の諸情勢を見るとき、テロ問題に世界は揺れ、私が政治家の目的とした平和、教育、医療、中小企業、貧困等の問題は、古くて新しいテーマとして、その深刻さの度合いを拡大しております。
振り返って、改めて、自らの非力を思うとともに、歴史的使命の重大さを思い、残された力を振りしぼって政治、経済、社会システムの改革に邁進する決意を新たにするものであります。
皆様の今後ともの御指導をお願い申し上げます。
最後に、苦労をかけた家族、事務所の諸君にも心から感謝します。
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鹿野 道彦君のあいさつ
このたび、衆議院議員在職二十五年の永年勤続に院議をもって表彰していただき、議会人として誠に光栄であり、名誉なことと感激しております。
これもひとえに、地元山形の皆様の格別な変わらぬ御支援、御厚情の賜物であり、指導いただいた政界の先達、同僚議員、また友人、知人の温かい叱咤激励があったればこそと感謝しております。
誠にありがとうございました。
さて、顧みれば、私が初当選を果たしました昭和五十一年、ロッキード事件が政界を直撃し、政治の在り方が根本から問われておりました。永年たまった政治のひずみ、ゆがみをいかにして正すか、政治改革の機運を背に、自由、公正、友愛、共生を信条として、国民の政治に対する信頼を回復すべく、ひたすら精進してまいりました。
そして二十五年、運輸・交通問題に取り組み、農政不信と闘い、官依存の政治脱却、政治主導体制の確立を目指し、ひたすら走り続けてまいりました。
新しい国造りの根幹をなす憲法問題に対しては、国会の憲法調査会に所属し、背景、経過、問題点を提起し、時代の変化とどう適合すべきか、各国の憲法事情や国民の憲法意識を探り、地道な勉強、厳しい論議を積み重ねております。憲法は、国の歴史、文化を背負い、国の精神文化を体現しております。人間の身体に例えれば骨格をなすものであります。挑戦と改革、信義・信頼の政治へ足掛かりを築くために、さらに、二十一世紀の我が国の本質的テーマとして論議を深めていきたいと思っております。
忘れられないのは、国鉄改革、さらには山形新幹線、すなわち新幹線直行特急構想の実現です。在来線を活用した新型の新幹線によって、地元の利便性が飛躍的に向上し、地域の発展に寄与できたばかりか、全国にミニ新幹線網整備の先鞭をつけることになったのではないかと自負しております。
また、農林水産大臣や総務庁長官として、農政改革、行政改革に取り組むことができました。まだまだ課題は山積しておりますが、農林水産業の再建と、時代を担う新しい行政の構築に一定の役割を果たせたのではないかと思っております。
米国を襲った同時多発テロ。暗雲立ち込める世界経済。経済回復の兆しが見えず、いまだ閉塞感に覆われる日本。いかに時代を切り開くのか、国民の願いはこの一点に絞られております。
今こそ、幕末の志士が胸に刻んだ「知行合一」の思想に学びたいと考えております。旧来の手法に堕するなら、行動を伴わなければ、日本は甦ることなく、二十一世紀の日本は停滞と後退を繰り返すばかりであります。
本日の名誉を糧として、改めて初心に立ち返り、国政の改革に渾身の力を奮うことをお誓い申し上げ、感謝とお礼の言葉とさせていただきます。
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中村喜四郎君のあいさつ
このたび、本院永年在職議員として院議をもって丁重なる表彰の御決議を賜り、議会人として誠に身に余る光栄であり、感無量でございます。
連続九期、二十五年の長きにわたり国政に参画することができましたのは、ひとえに、諸先輩同僚議員各位の御指導、御鞭撻、さらには、今日まで順境の時も、誠に厳しい逆境の時も、深い御理解と温かい御支援を賜りました郷土の皆様方のおかげであります。
また、陰に陽に私の支えとなってくれた事務所スタッフ、家族の協力の賜物であります。
この機会に当たり、改めて御礼を申し上げます。
私が本日賜った栄誉はこれらの方々に帰するものと、重ねて感謝いたす次第でございます。
さて、私が衆議院に初めて議席を得ましたのは、昭和五十一年十二月の第三十四回総選挙でありました。
この選挙には、自民党を離党した河野洋平氏ら六人で結成した新自由クラブが台風の目となり勝利し、それから政界の離合集散が繰り返され、今日の流動化が始まった大きな節目の選挙であったと思われます。
その後、幾多の政界スキャンダルを経ながら政治改革が議論され、その結果として、衆議院の選挙制度改革のみが先行して実施されていきました。
これを機会に、保守と革新のイデオロギー対立の構図で描かれた五五年体制が崩壊していく中で各政党の存在基盤も埋没してしまったことが、今日、国民が国政への信頼を失った大きな要因であったと思われます。
私は、本来、政治改革と選挙制度の改革は切り離して実行しなければ大きな不都合が起きるという持論でありました。
内政・外交・防衛各般にわたり、各々の政党の主義、主張、信念を明示して、国民に選択しやすい政党政治の基本をつくり上げていくことが政治改革であり、その後に選挙制度の改革を進めていかなければならなかったと自責の念を持っています。
なぜならば、今日の与野党政治の有り様は、選挙に勝つためだけの野党協力であり、政権を維持するためだけの連立政権になってしまい、そこには、各政党の主義、主張、理念がことごとく埋没してしまい、国民がますます政治に参加しにくい、理解に苦しむ政治が遠い存在となってしまったというところに、今日の深刻な政治危機があると認識しております。
他方、日本経済は未曾有の危機的状況にある財政事情の中で、構造改革を進め、新世紀の活力のある社会を構築していくために最も大切なことは、今、我が国が大きく失いかけている「公正」「公平」をすべてに優先させ、経済・行政・教育・司法の改革の中で回復させていくことが、社会にモラルと秩序を取り戻すことであり、国難に立ち向かえる国民のエネルギーにしていかなければならないと認識しております。
一方、冷戦構造の終焉により、米国、中国、ロシアを初めとする世界各国は、国際秩序の創造に重点を置き、積極的な外交政策の展開、相互依存関係を強めつつあります。
各々の国家の拠って立つ理念と責任がこれまで以上に厳しく問われる中で、我が国はもっとはっきりと国民に国益の取らまえ方を示していくべきであると考えています。
具体的に、当面する国益、中期的展望に立つ国益、そして長期的展望に立つ国益、それぞれが密接に関連しながらも微妙に矛盾を含んでいることも含め、日本の未来への具体的な方向性を示していくことで国民の総力を結集することができる「外交新時代」をつくり上げていくことに、さらに研鑚を重ねていくことが長年本院に籍を置いた者の務めであると自覚し、初心を忘れずに取り組んでまいります。
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日程第一 平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法案(内閣提出)
日程第二 自衛隊法の一部を改正する法律案(内閣提出)
日程第三 海上保安庁法の一部を改正する法律案(内閣提出)