2003-05-08
衆議院
森岡正宏
憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会
森岡正宏の発言 (憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会)
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○森岡小委員 私は、自由民主党の森岡正宏と申します。
きょうは、坂野参考人に大変貴重なお話を伺いました。しかし、私は、明治憲法については余り今まで勉強していなかったものですから、本当に、何といいますか、難しいなというふうにも感じましたし、また、制定過程でいろいろな考え方があったんだなということを改めて知った思いでございます。
そして、私、戦前、軍部の力が台頭をして、日中戦争、そして第二次世界大戦、そして敗戦に至った経過を思い起こしながら、明治憲法の構造的な仕組みと実際の運用の間に非常な隔たりがあったんじゃないかということを感じるわけでございます。
明治憲法が制定の過程で、この事務局のつくってくださった資料によりますと、難しい言葉が使ってあるんですけれども、公議輿論の徴取に配慮しながらも、欽定憲法として、建国の体に基づきつつ、海外各国の成法、すなわち西洋近代の憲法思想をしんしゃくし、その制定後、その解釈、運用において憲政の常道がうまく機能していた時期もあった。だけれども、昭和十年の美濃部達吉天皇機関説事件で、国体明徴声明が出された、そして天皇主権説が力を持つに至ったという過程がございます。
ところが、昭和天皇は、お若いころ英国に学ばれ、国王の大権が実質上骨抜きになって、中世以来議会が力を持っていた英国の歴史から、英国流の立憲君主制を描きながら、機関説天皇論に徹しようとしておられたようでございます。また、それは、昭和四年の田中義一内閣総辞職の苦き経験に基づくものであったとも言われております。
その証拠に、昭和天皇のもとで、御前会議は、昭和になりまして、昭和十二年から終戦に至るまで合計十五回開かれております。天皇は、全くと言ってよいくらい発言しておられません。
天皇が大本営の方針に初めて異議を唱え発言されたのは、昭和十六年九月六日の御前会議で、日米交渉が袋小路に入って、打開の見込みがなく、戦争準備を始める国策案が出た、このとき明治天皇の御製を引き合いに出して、なお外交交渉による解決に力を尽くすよう訴えられたことと、昭和二十年八月九日の御前会議で軍部の反対を押し切ってポツダム宣言受諾の御聖断を下された、その二回だと言われております。
実質的な最高議決機関である御前会議という制度が明治憲法の規定にはありませんでした。しかし、この御前会議が大日本帝国最後の日のときに天皇親政という本来の機能を最もよく果たしたというのは、歴史の皮肉だと言われております。
明治憲法が明治、大正、昭和という歴史の中で十分機能をしなかったことについて、坂野参考人は、憲法に欠陥があったからだと思われるでしょうか、それとも運用した人間が悪かったからだと思われましょうか。改めてその辺の御感想を伺いたいと思います。