大沼保昭の発言 (憲法調査会)

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○参考人(大沼保昭君) それでは、私の方からお話し申し上げます。
 レジュメをお手元にお配りしてあるかと思います。三枚でございます。
 私は、今の浅田参考人のお話が武力行使に比較的集中したお話でありましたけれども、私のこれから申し上げることは、より一般的に、憲法と国際法、国際連合という問題を三つの大きな柱に分けてお話ししたいと思います。
 まず第一に、この「憲法と国際法、国際連合」というテーマの意味を考えてみたいと思います。
 私は、憲法を考える際に、直接的視点と大局的視点という二つの大きな視点を分けて考えるべきだというふうに考えております。直接的視点と申し上げますのは、憲法の具体的な諸規則と国際法の具体的な諸規則あるいは諸原則との関係を問題にする、あるいは憲法と国連、そしてその国連の理想と現実との関係を具体的な形で論ずるということであります。
 この具体的な問題としては、例えば憲法九条と国連憲章二条四項の武力不行使原則、あるいは憲章五十一条の個別的、集団的自衛権との関係といった問題がありますし、さらに、日米安保条約あるいはサンフランシスコ平和条約、日中共同声明といった、日本が拘束される対外的な国際文書と憲法との関係という問題などがあろうかと思います。
 これに対して、大局的視点ということを私が申し上げたいのは、憲法を考える際には、何よりもすべての人が自分の立場というものを相対化して議論を冷静に行う必要があるということであります。特に、今日のように憲法改正が現実の論点として登場している場合には、我々としては、できるだけ多くの国民の祝福を得て改正を実現させて、そうしてその改正憲法が定着するように議論を冷静に、かつ時間を掛けて、そうして長期的な視野に立って憲法を議論しなければならない。
 中には、憲法が政界再編の言わば分水嶺になると、憲法を材料として政界の勢力を再編すべきだというような議論もありますけれども、私はこういう考え方は極めて危険であるというふうに考えます。憲法というのは政界再編の道具となるようなものではなくて、国家の基本法、根本法でありまして、最後に申し上げますように、少なくとも一世代、二十五年間はもつという、そういう長期的な視点で慎重な国民的討議を行う必要があるというふうに考えます。
 例えば、現在、憲法と国際法との関係で最もかまびすしく論議されておりますのは、今、浅田参考人もちょっと触れられました集団的自衛権の問題であります。この集団的自衛権の問題といった場合に、これを認めるべきだという方は次のような議論をなさるわけですね。日本を守ってくれる米国軍が攻撃されたときに自衛隊は米軍を守ることができないと。で、米軍は自衛隊を守ることができると。これは不合理であると。だから、日本も米軍を守れるように集団的自衛権を認めるべきだという主張であります。これは、私はそれなりに、現在の国際情勢を考えた場合には説得力のある議論だろうというふうに思います。
 しかし、ではそれを直ちに憲法改正と、あるいは憲法の解釈ということに結び付けるのがいいのかどうか、特にその憲法改正という問題をこういう集団的自衛権という極めて具体的な目前の論点から考えることがいいのかどうか。これは、私は非常に問題だろうというふうに思います。集団的自衛権の問題というのは非常に大きな広がりを持つ問題でありまして、少なくとも今後二十年から三十年のアジアの状況、例えば中国が恐らく超大国化するであろうという状況、そういったものを考えて、十分長期的な視点に立って議論しなければならないというふうに思います。
 他方で私は、先ほど言いましたように、憲法というのは一世代を最低限単位として考えるべきだというふうに申し上げましたが、その観点からいいますと、現憲法は既に二世代以上制定から時間を経過しているわけです。これは、私の考えでは、一般的に申し上げて明らかに現実とのそごを来す、現実とのずれを多々の点で生じている。これは憲法九条に限りません。したがって、私は、やはり我々としては、改正を真剣に考えてこれを実現すべき時期に来ているというふうに考えます。この点は最後に詳しく述べたいと思います。
 この関連において、憲法というのは、広義の憲法と狭義の憲法、広い意味での憲法、つまり国家の基本理念の表明としての憲法と、それから狭義の現行憲法、これは国民主権原則に基づいて今日の我々が国民主権を行使して作るという、そういう憲法とに分けて考えるべきであろうというふうに思っております。
 広義の憲法といいますのは、国民が自らの在り方というものを表明した最高規範でありまして、この意味での憲法というのは、何も近代の国民主権原理に基づかなくとも、非常に長い人類の歴史の中に各民族が持っていた国の根本法であります。私の考えでは、あらゆる支配というのはその支配を受ける民の最低限の支持がなければ持続しないと。これは、たとえ皇帝の帝政であっても貴族制であっても現代の独裁制であっても、あらゆる政治において最低限の言わば暗黙の国民の受忍、支持というものがなければ長続きしないと。そういう意味で、その超歴史的な時間を超える民族というものが持っているその政治の在り方、これを体現するのが憲法であろうというふうに思います。
 我々、現在生きている国民自体が幾世代もの国民の作為不作為の産物でありまして、我々は直近の世代から大きなものを受け取っているわけでありまして、この受け取っているものというのは、もちろん恩恵がありますし、前の世代の負債がございます。戦争責任の問題はその負債の一つであります。憲法の改正を考えるに当たっては、我々が前の世代から受け取っている恩恵と負債ということを考える必要があろうかと思います。
 次に、二番目の憲法と国際法のやや具体的な問題に論点を移したいと思います。
 憲法と国際法との一般的な関係に関しましては、これまでの議論に、国会での様々な議論も含めてでありますが、若干の混乱があったかというふうに思います。
 まず、憲法あるいは国家の国内法の観点から見ますと、各国の国内法体系がそれぞれ様々な規範の上下関係を定めるのは、これは国家として当然のことであります。米国は米国の憲法に従って、日本は日本の憲法に従って、中国は中国の憲法に従って、その中で憲法、条約、法律、条例、政令その他の効力関係を定めていると。日本の場合には、一般的な考え方としては、国際法は憲法の下位で法律よりは上位にあるという考え方が支配的で、政府、裁判所もおおむねこの見解を取っておりますけれども、米国の場合はそれとは違って、連邦法と条約は同格であります。ですから、米国の場合には、条約を結んだ後でも、連邦法がそれに反する規定を設けてしまえば条約は覆されるということになります。この意味では、各国内法の上で国際法というのは位置付けられる。多くの場合、憲法よりも国際法は下位に置かれておりますから、憲法が優位に立つということになります。
 しかしながら、国際法の観点から見ますと、国際法というのは日本や米国という国家を丸ごと言わば義務付けております。したがって、憲法違反の条約は、国内法上これは履行できないわけでありますけれども、その結果として、日本なり米国なり条約に反した国というのは国際法違反の状態に置かれます。そうしますと、国家間関係においてこれを解消する必要があると。そのために、諸国は外交交渉を行ったり、あるいは、場合によっては憲法改正あるいは法律改正その他の方策で国際法上の違法状態を解消しようというふうに努力するわけであります。
 したがって、国際法の観点からは、そういう意味で、国内法上履行できないからといって国際法上の責任を回避することはできないわけですから、その意味では国際法は優位にあると。あらゆる国家は、憲法や法律を言わば言い訳として国際法違反を正当化することはできないと。どんなに自国の憲法が大事であっても、その憲法が大事であるということは国際法上の義務を逸脱する根拠にはならないと。このことははっきりと指摘しておく必要があろうかと思います。
 ですから、例えば日米安保条約が憲法第九条に違反しているという議論がございます。仮に違反しているとすると、日本の国家機関はこの日米安保条約を国内では履行してはならないということになります。しかし、その場合には、日本は米国に対して日米安保条約の義務を履行しないという違法状態に置かれることになる。したがって、米国との関係では、日本はその違法行為を解消するために何らかの具体的な行動を取らなければならないという、そういう関係に立ちます。
 次に、浅田参考人が触れられました九条における武力行使についてごく簡単に触れておきたいと思います。
 私がこれまでの議論を拝聴していて一番違和感を持ちますのは、九条における武力行使というのは、そもそも性質の違う武力行使をこれまでの議論は一緒くたに議論しているということであります。
 一番簡単に分かりやすく言うために私がよく学生に使う例えをいたしますと、国内法上、私服刑事とやくざが取っ組み合いをやっていると。そうすると、我々第三者が見た場合に、一体これがけんかであるのか何であるのかは分からないわけであります。しかしながら、私服刑事の実力行使というのはこれは公務執行でありまして、やくざの実力行使というのはこれは暴力であります。ですから、同じ実力行使といっても法的観点からいえば全く違う。私服刑事がやっているのは公共的な公務であり、やくざがやっているのは暴力であります。
 同じように、国際法上、国際紛争解決の手段としての武力行使というのは、これは国家の自己利益追求のための武力行使でありまして、言ってみれば、その国がどう正当化しようとも、それはやくざの暴力であるということがあり得ます。これに対して、国連軍やPKOが行う活動というのは言わば私服刑事の活動であって、国際的な公共的な性格を持つものであって、武力行使ではあるけれどもそれは国際法上正当であり、憲法をもってさえもそれを否定することのできない公共的な活動であります。
 したがって、私の考えでは、自衛隊がPKOの一員として、あるいは国際連合から正当性を付与された多国籍軍の一員として武力行使することは何ら憲法九条に反するものでないと。憲法九条が否定しているのは自己利益追求の、つまり国際紛争解決の手段としての武力行使であって、国連軍やPKOが行う実力行動というのは何ら憲法によって否定されていないというふうに考えます。したがって、従来の政府解釈を変更して自衛隊にそういった任務を行わせることは、私は現行法上、現行憲法上可能であるというふうに考えます。
 ただ、私は、そういったやり方は、これから述べます理由でやるべきではないと。私は、そういった行動をやるには憲法を改正してやるべきだというふうに考えております。
 次に、時間がありませんので、三の護憲的改憲論に入りたいと存じます。
 まず、この前提として、現行憲法の評価でありますけれども、私は先ほどお話ししたように、憲法改正というものを国民の総意をもって祝福された形でやるためには、まず何よりも現行憲法が果たした役割を正当に評価することが大切であるというふうに思います。
 現行憲法は、日本が侵略戦争をやっていながら国際社会に受け入れられ、アジア近隣諸国との関係を保ち、軍事費の負担を減らして戦後の経済発展を支え、そうして米国からの軍事力増強あるいは様々な圧力に言わば抗する盾となってきた、我々の戦後の言わばサクセスストーリーを支えてきた非常に重要な柱であったというふうに考えております。ただ、他方で、このサクセスストーリーを支えた現行憲法は余りにも現実と乖離をして、国民の間に言わばシニシズムを生むと。余りにも無理な政府の憲法解釈が重なって、国家の根本法に対する国民のシニシズムを生じせしめている、そういう危険水域に今日憲法は入っているというのが私の判断であります。
 私はその観点から、今申しましたような武力行使の可能性ということを含めて、これを憲法解釈の変更ということで行うのではなくて、憲法改正という正道を通して行うべきであるというふうに考えております。
 その根拠として最後に、私が最初にちょっと申し上げました憲法というものが一つの世代を見据えた国の根本規範であるということをお話ししたいというふうに思います。
 あらゆる国家は当然のことながらその国民によって運営されますけれども、世代的な観点からいえば、恐らく四十代から六十代ぐらいが平均すれば最も判断力が充実した社会を担う層であるというふうに考えます。ところが、現在の四十代から六十代というのは、現行憲法ができた当時はまだ生まれていないかあるいは未成年でありました。そういった時代に作られた憲法で現在の日本というものを運営するということは非常に無理があります。これは憲法九条に限らず、環境権の問題とか、あるいは道州制の問題とか、司法制度の問題とか、様々な点でそういう現実とのそごが生じてきております。
 私は、一つの世代というのを約二十五年というふうに考えるならば、この一つの世代ごとに憲法というのは基本的にマイナーな、小規模の改正を行って、そのことによって憲法を現実との適合性に当てはめていくと、現実に適合させていくということが極めて重要であろうというふうに考えております。
 当時、憲法が作られた当時は日本はまだ、これは推計でありますけれども、一人当たりのGDPが百ドルあったかなかったかという焼け野原の時代でありました。それに対して今日の日本というのは、世界第二の経済大国であり、国際社会における責任というものも全くけた違いに増大しているわけであります。その他、当時は日本が大日本帝国のあらゆる理念というものを否定されて、米国的な価値、あるいは欧米的な価値、近代主義的な価値というのがひたすら輝いて見えた時代であります。二十一世紀の時代というのは明らかにそうではありません。我々はこれから、ひたすら欧米的な価値というものを相対化した、より多文明的な、より文化の多元性を目指した国際社会というものを作り上げていかなければならない。
 日本はアジアにおいて最もこれまで成功し、経済的に繁栄してきた国として、これからは恐らく経済的には次第に下り坂に向かうでしょうけれども、しばしばそういう経済的に下り坂に向かう国というのは文化が成熟し、国際的にも発信することができる国であります。我々日本の生きる道というのは、そういった経済的には今までほど大きな影響力は持たないかもしれないけれども、文化的に貢献していくと。そういう時代に見合った憲法を私は二十一世紀初頭に作るべきであろうというふうに考える次第です。
 御清聴ありがとうございました。

発言情報

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発言者: 大沼保昭

speaker_id: 13023

日付: 2004-03-03

院: 参議院

会議名: 憲法調査会