小里貞利の発言 (本会議)
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○小里貞利君
代表謝辞
本日、ここ衆議院本会議場において、院議をもって永年在職表彰を受けましたことは、私ども五名の議員にとり、まことに光栄の極みであります。
ここに、年長のゆえをもちまして、一同を代表して、慣例に従い、自らの来し方を振り返りつつ、御礼の言葉を申し上げます。(拍手)
今回の表彰は、先輩、同僚の皆様方の御指導、御鞭撻の賜物であると同時に、二十八歳で郷土鹿児島の県議会議員に当選して以来、四十五年余にわたり御支援いただいた鹿児島県の皆様や、すべての友人、知人の皆様のおかげであり、心より感謝を申し上げるものであります。(拍手)
私どもが衆議院に初めて議席をいただいたのは、昭和五十四年十月七日の総選挙においてでありました。
この総選挙では、一般消費税導入問題やダグラス・グラマン事件などのあおりを受けて、自民党の議席は過半数を割り、大平首相の責任問題が噴き上がり、世に言う「四十日抗争」に突入いたしました。
翌年に至るも党内の亀裂は収まらず、ついに大平内閣不信任決議案が可決され、大平首相は衆議院の解散を断行し、その直後に帰らぬ人となられました。
初当選して一年も経たずに再び総選挙を戦うこととなり、さらに政治の師とも仰いだ大平首相を失い、私は、国会議員としての第一歩から、大きな衝撃とともに政治の厳しさを思い知らされたものであります。
政治家としてさらに忘れられないことは、村山内閣において、阪神・淡路大震災対策特命大臣として緊急対応に当たったことであります。
発災四日目に特命大臣を拝命し、その日に現地に向かいましたが、伊丹空港から神戸までの道のりは混乱し、身動きがとれず、ようやく到達した現地はいまだに火煙が立ち、六千四百余名のとうとい人命が奪われ、瓦礫の山と化した被災地の惨状は、今でもまぶたにまざまざと浮かんでまいります。
現地に飛ぶこと二十数回、国会にあっては与野党挙げて御協力を賜り、そして被災者の皆様方が懸命に復旧、復興に取り組んでこられた、そのひとこまひとこまに思いをいたしつつ、十年を経て今、見事に復興した神戸の町並みを見るときに、大きな感慨を禁じ得ません。(拍手)
さらに振り返れば、海部内閣においては労働大臣として育児休業法の制定に携わらせていただき、橋本内閣の総務庁長官としては、一府二十二省庁から一府十二省庁へと、明治以来の省庁体制に初めて抜本的な改革を加える行政改革を担当させていただきました。
あるいは、日本列島の国土軸を形成し、新時代の地方に大きな光を投げかけるとの信念から、初当選以来、整備新幹線の建設促進運動にも取り組ませていただいてまいりました。
それぞれの政治テーマの場面場面において御指導をいただいた先輩議員、同僚議員の皆様、そして広く御理解と御協力を賜りました国民の皆様に改めて感謝を申し上げる次第であります。
さて、私ども国会議員は、それぞれの時代において、国家、国民の繁栄を願い、懸命に行動してまいったつもりであります。
しかしながら、「失われた十年」という言葉に象徴されるように、国家は久しく停滞し、時代の波は、針路に迷う日本丸に容赦なく打ちかかっております。
今こそ、変革の先にある明るい未来を信じて、新しい日本がいかにあるべきか、その針路を明確に国民に示し、なすべき真の改革をしっかりと実行してまいらなければなりません。
そのことが、時代の大きな変わり目に国会議員という職務を担った我々の責任であることを改めて認識いたします。
「己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」
西郷隆盛遺訓にあるこの精神を胸に、今後も力の限り行動してまいることをお誓いいたしまして、感謝の言葉といたします。
ありがとうございました。(拍手)