河野洋平の発言 (本会議)
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○議長(河野洋平君) 本日表彰を受けられました他の議員諸君のあいさつにつきましては、これを会議録に掲載することといたします。
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中村正三郎君のあいさつ
このたび、永年在職議員として院議をもって表彰の御決議を賜り、議会人として、また政党人として、まことに身に余る光栄であります。
私が在職二十五年の長きにわたって国政に参画し、今日このような栄誉に浴することができましたのは、ひとえに選挙区の皆様方の多年にわたる温かい御支援と、先輩、同僚議員の皆さんの御指導の賜でありまして、衷心より厚く感謝申し上げる次第であります。
また、この間苦労をかけてきた妻と子供たちにも感謝の意を表したいと思います。
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保利 耕輔君のあいさつ
このたび、院議をもって永年勤続の表彰をいただきましたことは、私にとってこの上もない栄誉であり、二十五年もの長い間、一貫して御支援いただいた佐賀県有権者の皆様、御指導いただいた先輩議員、苦楽をともにした同僚議員、また私の政治活動を力強く支えていただいた多くの方々、協力をしていただいた各省庁の皆様、また陰で補佐してくれた事務所の諸君や家族に対し、心から感謝の念を捧げたいと存じます。
私は、父の他界後、二十一年余り勤務した日本精工株式会社を辞し、昭和五十四年十月に行なわれた第三十五回衆議院議員選挙に立候補し、当選の栄を賜りました。五年にわたる欧州での勤務から帰国した直後の選挙であり、戸惑いもありましたが、多くの方々の御指導と御支援により当選を果たし、以来、連続九回議席をいただいたことは、身に余る光栄であります。
過ぎし四半世紀を振り返ってみますと、数々の思い出が脳裡に浮かんでまいります。党・農林部会長として合意形成の政治手法を学んだこと、ウルグアイ・ラウンドへの対応と同条約の批准への苦労、連立与党の政策調整、平壌訪問と合意書の締結などは、貴重な政治経験の積み重ねでありました。
また、平成二年、文部大臣を拝命、教育、文化、スポーツ、科学などの分野で活動したのをきっかけとして、今日もなお、終生の課題として、教育基本法改正を初めとする諸課題に精魂こめて取り組んでいるところであります。
さらに、平成十一年には自治大臣、国家公安委員長として多くを経験しました。特に、警察を巡る諸々の問題に頭を痛めた事もありましたが、警察刷新会議の皆様の御協力と当局の御努力により、ようやく事態を終息させることが出来ましたのも、思い出深いことでありました。
さて、新しい世紀を迎え、日本は国際社会の中で重要な地位を占めると同時に、今後我が国がいかにあるべきかが問われています。幕末から明治にかけての日本人の活動に思いをいたしつつ、民族の精神の再構築と新しい時代の倫理観の確立に努力することが我々に与えられた責務であり、正しい教育を充実させることが大切であると信じます。まさに教育は国家百年の大計であり、永年勤続表彰をいただいた今、問題への取り組みの決意を新たにするものであります。
今後とも、皆様の御理解と御厚誼を賜りますようお願い申し上げ、御礼のごあいさつといたします。
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亀井 静香君のあいさつ
このたび、私の衆議院議員二十五年の永年勤続に対し院議をもって表彰をいただき、関係各位に心より御礼申し上げます。
私は至らない者でありますが、今日まで何時も我が信念を貫き、躊躇することなく政治活動をしてまいることができました。これはひとえに初出馬以来私を支え、叱咤激励しながらお育てくださいました郷土の皆様、友人の御加護、そして諸先輩及び同僚議員の深い御理解と御指導の賜であります。政治家としてこの上ない冥利に尽きるとここに改めて心からの感謝を捧げ、御礼申し上げます。
私は、昭和十一年、原爆投下のあった広島県に生まれました。父は役人であったため、原爆投下直後に被災者救済に当たり、被爆者手帳の所持者でした。姉は白血球の減少する病で、早くに亡くなりました。子供心に、遠くでピカッと光った直後に大きなキノコ雲が上がり、多くの人々がボロボロになって逃げてきた光景を、今でも忘れることができません。また、祖国、愛する人を守るために身命を賭した先人達に想いを馳せ、あらゆる命を尊び、戦争を防ぐこと、平和を守り継承することが政治の最大の責任であるとの思いで政治家を志しました。
現在の日本は一応平和を保っておりますが、日本近世史においても幕末・大正・昭和初期に匹敵する大きな曲がり角に直面しているのではないかと思います。市場原理万能、競争原理至上、こうした空気が日本の社会を覆ってしまった結果、日本経済の空洞化は残念ながら着実に進んでいる今日であります。中小企業、零細企業、商店は日に日に追い詰められ、地方、農村、漁村は厳しい状況であります。こうした状況を今後政治が許してよいのか。国民もまたそういう政治を許すのか。
この地球は銀河系の中の小さな惑星にしかすぎませんが、人類にとってはかけがえのない住みかです。二十世紀は、科学技術が飛躍的に発達して、我々の生活は極端に便利になりました。一方では革命と戦乱の世紀でもありました。この二十一世紀が人類にとってどのような世紀になっていくのか。あらゆる民族、国家がそれぞれの場で必死になって生きている中を、強者の論理だけ貫徹していって本当に大丈夫なんだろうか。地球の果て、砂漠や密林の中においても、生きとし生けるものは我々人類のかけがえのない同胞であります。それぞれの地域で進んだところもあれば、遅れているところもある。そういう人達に先進国がきっちりと配慮しながら、このかけがえのない住みかで皆がどうやったら幸せになっていけるのであろうか。今や世界全体が大きな曲がり角に来ているのではないかと思います。
内外とも極めて厳しい状況の中、日本国の目指すべき国家像、社会像は芸術と文化、そして産業が融合したものであり、我々日本人の持っていた美しい魂を、また、たおやかな気持ちをどう取り戻していくのか、「友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う」という共生の社会を創り得るのかどうか、まさに正念場であります。
私は、この国に生まれてよかったと思える国家を形成するため、先輩、同僚議員の方々とともに一層の御指導、お力を賜りながら、いかなる困難にも負けず必死の覚悟で今後も頑張っていく所存でございます。
さらなる精進をお誓い申し上げ、謝辞といたします。
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丹羽 雄哉君のあいさつ
私は、このたび、院議をもって永年在職議員の表彰をいただきました。ひとえに郷土茨城の皆様、旧茨城三区、現茨城六区の皆様方の長年にわたる御厚情、御支援の賜物であり、また、先輩、同僚議員を初め関係者各位の御指導、御友情によるものであります。心から感謝を申し上げます。
さて、私が衆議院に議席を得ましたのは、一九七九年十月七日の第三十五回総選挙でありました。私は、十年間のジャーナリストの経験を経て政界入りしましたが、この初めての選挙では、消費税導入の提唱に対する強い反発もあって自民党は惨敗し、「安定多数」の確保に及びませんでした。私淑申し上げておりました大平正芳首相から、「君の一議席も大変重いよ」と言われたことを、今でも鮮明に記憶しております。
私は、四半世紀の政治生活の中で、社会保障を中心として取り組み、医療、介護、そして年金改革のさまざまな重要な局面に係わってまいりました。
医療保険に初めて一割負担を導入した一九八四年の健保国会や、厚生大臣在任中にスタートした介護保険制度など、どれも私にとって忘れがたいものです。とりわけ、私が初の厚生大臣に就任して間もない一九九二年十二月の予防接種・東京集団訴訟問題は、まさに一人の政治家として孤独な重い決断でありました。東京高裁の判決に対して上告を断念し、被害者救済へと、これまでの厚生行政を大きく転換させる施策を打ち出したのであります。
私は、記者会見の席上、自分自身で書いたメモを読み上げました。「(被害者とその家族に対して)一度限りの人生を台無しにしてしまい、慰めの言葉もありません」と率直にお詫びし、マイクの前で思わず頭を下げておりました。
その後、被害者弁護団のある方から、「今回の決断を多としたい」との一通のお手紙をいただきました。まさに私は、政治家冥利に尽きるとの思いがいたしました。
また、六年前の金融不安の折りは、「日本発の世界恐慌を起こしてはならない」との思いで、自民党の政策責任者の一人として及ばずながら金融再生法の成立に携わったことも、忘れることができません。
この四半世紀、私どもはある時はバブルに踊り、ある時は金融不安におびえ、失業者の増大に苦しむという「経済大国」の陰と陽ともいうべき激動の中にありました。私は、平和と繁栄を政治の原点とし、今後とも国民の皆様方が真の豊かさを享受できる国家、誇れる郷土・茨城のために、いささかでもお役に立てるよう邁進していく決意であります。
ここに、永年にわたってお支えいただいた皆様方に感謝の念を申し上げさせていただきます。本当にありがとうございました。
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