仁比聡平の発言 (憲法調査会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。
私は、前回の調査会において、人権保障の永久不可侵性について意見を述べさせていただきました。
我が国の違憲審査制は、第二次大戦後、この人権保障の永久不可侵性を中核とした憲法の最高法規性の維持、すなわち憲法保障のために導入されたものであり、世界各国においてこのような動きが共通をしております。
問題は、諸外国と比較をして我が国憲法下の違憲審査制がお世辞にも積極的に活用されてきたとは言い難いという点にあります。最高裁が法律の条項を明確に違憲と判決をしたのは五十七年間でわずか五種六件であり、このような違憲審査制のありようが、日本の現実政治、立法府や行政において憲法に対する緊張感をなくしている。つまり、少々のことでは裁判所によって違憲と判断されることはないという誤った安心感が、本来、民主的政治過程と呼ばれる立法や行政の中にあるのではないかという厳しい指摘までがなされています。
我が国の違憲審査制は、司法裁判所が具体的紛争の解決に伴って適用法令の合憲性審査を行ういわゆる付随的審査制と呼ばれているものですが、このような現状から、違憲審査権の活性化のための方策として、違憲審査を専門に行う憲法裁判所の導入が語られています。
しかし、我が国の違憲審査制が十分に機能していない原因は本当に付随的違憲審査制にあるのでしょうか。最高裁の司法消極主義、違憲判断消極主義の一方で、下級裁判所による違憲判決が勇気を持ってなされるとき、これが人権保障を大きく前進をさせ、憲法を光り輝かせてきた経験を私たちは度々持ってまいりました。
私は、私自身が経験してきたそのような瞬間の一つとして、前回本調査会の意見陳述においてハンセン病問題をめぐるらい予防法違憲国賠訴訟の熊本地裁判決言渡しの瞬間を御紹介をしましたが、この判決は、強制隔離政策が医学的見地からも同法成立時から既に公共の福祉による合理的な制限を逸脱しており、遅くとも一九六〇年には隔離規定はその合理性を支える根拠を欠く状況に至っており、その違憲性は明白になっていたとして、遅くとも一九六五年以降にこの規定を改廃しなかった国会議員の立法不作為につき国家賠償法上の違法性と過失を厳しく断罪をしたものでした。
このような憲法訴訟の闘いの経験に見られるのは、我が国憲法が採用した違憲審査制が、それ自体として憲法保障に無力なのではないということだと思います。これが活用されてこなかった点にこそ問題があるのであって、その問題を明らかにし、国民、市民のための真の司法改革を進めることにより違憲審査制による憲法保障を全うさせることが大切だと私は思います。
我が国の付随的審査制には、憲法裁判所型との比較において三つの利点があることが指摘をされています。
第一は、具体的事件に即したきめ細かな憲法判断を可能とする点です。著名な民事訴訟法研究者である兼子一教授は、特に憲法問題については、政治的に論議され、真に具体的利益を代表する者によって真剣に争われ、十分に双方の主張や資料が出尽くすのを待ってこれに必要な限度で裁判所が初めて最後の断を下す仕組みとして意義を持つ、こう述べられています。
第二は、下級裁判所にも違憲審査権の行使が可能となる点です。
事実に即した憲法判断も、事実認定と格闘する下級裁判所においてこそ可能となります。また、下級裁判所の憲法判断は多様なものとなる可能性を持っており、これが上級審の判断や下級裁判所相互の対立を経て、新たな判例理論発展の基礎となることが期待できるものです。
第三は、訴訟当事者として市民が参加をし得る点です。
市民にとって一番身近な人権救済機関であるべき一審裁判所から最高裁に至るまで、訴訟事件に自ら利害関係を有する市民がそれぞれの裁判所を説得するために旺盛な訴訟活動を行うことにより、当該問題についての社会的関心が高まり、その問題の裁判上の解決はもちろんのこと、政治的、社会的な解決が促されてきたことは多くの憲法訴訟に見られる重要な経験だと思います。
違憲審査を活性化させるという場合にまず考えなければならないのは、付随的審査制のこのような利点を生かすような制度作りと運用ではないでしょうか。
では、このような利点が生かされてこなかったのはなぜでしょうか。私は、最高裁の憲法判断の在り方と裁判官の市民的自由の確保の二点について申し上げたいと思います。
最高裁判所の実際の判決の在り方は、先ほど述べたような本来の付随的違憲審査制とはかなり趣を異にするものです。統治行為論や立法、行政の裁量論を始め、憲法判断回避のルールと呼ばれるものが極めて自己抑制的に働いてきました。また、具体的事件の解決のために憲法判断をするとされながら、最高裁判決において事実関係が参照されることは少なく、専ら上告主義に応答するという形で、抽象的な憲法原則の提示、法文解釈が示されるのが常となっています。
事実関係とのかかわりにおける判断よりも判断内容を重視するこの傾向は、一方では違憲審査のための間口を著しく狭めながら、他方で、具体的事件の解決による人権救済よりも、憲法、法令についての有権的解釈を示すこと、すなわち法秩序維持機能を重視しているんだという有力な指摘がなされているところです。
他方で最高裁は、朝日訴訟では生活保護受給権の訴訟承継を認めず、訴えの利益を認めず却下をしながら、念のためとして、生存権が具体的権利でないことをるる判示するなど、時に事件の解決に必ずしも必要とは言えない憲法判断を行ってきました。こうした傾向をとらえて、最高裁は単なる司法消極主義ではなく違憲判断消極主義なのであり、合憲判断についてはむしろ積極主義的であるとの有力な指摘があります。
本来、違憲審査制は、国家機関による憲法規範の逸脱を統制するところにその目的があります。ですから、違憲判断にこそ真髄があると言うべきです。とするなら、事件解決に不必要な場合にも合憲判断をためらわず、違憲判断については厳密に事件解決に可能な場合に限定するという最高裁の姿勢は、違憲審査制の意義を没却するものではないでしょうか。このような、言わば秩序維持を重視する最高裁の姿勢が、最高裁判決が判例として事実上の拘束力を持つことのほか、違憲判決を下した裁判官に対して差別的な待遇がなされることによって下級裁判所による違憲審査の活力を著しくそいでいるという点がもう一つ重要な点だと思います。
このような違憲審査のありようは、憲法制定直後からのものではありませんでした。最高裁は一九六〇年代に、官公労働者の争議権を禁止した法律が労働基本権を保障した憲法に違反する疑いがあるとしてその適用範囲を狭く限定をした全逓東京中郵事件判決や都教組事件判決を始め、画期的な判決を相次いで出しました。
これに対し当時の政府・自民党は、最高裁が左翼に偏向していると非難をし、最高裁判事の任命権を利用して政府の意向に従う判事を送り込むなどし、この時期を境に最高裁は、時の政権に従い、下級審の裁判官に対しても様々な官僚的統制を行って、裁判を政府や大企業の利益に偏ったものに変えていきました。最高裁は裁判官の採用、任地、昇給昇格などの人事権を利用して裁判官の差別的人事を行い、物言わぬ裁判官づくりを行ってきました。憲法や基本的人権を大切にしたいと考える裁判官は差別をされ、昇給を遅らされ、他の裁判官よりも、ある元裁判官の証言によれば、月給で十四、五万円少ない給料を五年以上続けられるなどの屈辱的な扱いを強要をしています。青年法律家協会に属する下級裁判官の再任拒否や任官拒否、脱退強要が行われ、一方では、裁判官会同や裁判官会議などを通じて判決の内容まで統制し、裁判官を法務省に出向させ訟務検事として行政側の代理人をさせる判検交流を行って、行政に追随する意識が裁判官に醸成されることになりました。
このような官僚統制により、裁判所内に自由な空気が失われ、上意下達的な意識が裁判官に植え付けられ、その中で、裁判官の中で人間的な関係が希薄となる一方、事件数の激増の中で超過密な仕事に追われるという状況も生まれています。
一方では、裁判の公開という憲法上の要請にもかかわらず、裁判所構内の撮影すら許可をされないという国民不在ぶりです。
これらの司法抑圧の政策の弊害は極めて大きいものとなっており、正にこうした官僚的裁判官統制をやめ、憲法と基本的人権に忠実に、法と良心に基づく裁判を実現することが今最も求められているのではないでしょうか。
日弁連の調査によりますと、裁判官の平均的労働時間数は週八十時間であり、三年ごとに繰り返される転勤により地域とのつながりがほとんどない、そのために市民感覚から懸け離れ、国民との間に壁ができていると語る裁判官があります。
記録映画に「日独裁判官物語」というものがあります。これは我が国と憲法裁判所の存在する典型とされるドイツの裁判官の在り方を対比をした本当に有意義な記録映画だと思いますが、この中である裁判官は、人事上の差別の大きな要素として、任地上の差別、二つ目に給料、三つ目に部総括裁判官、いわゆる裁判長への指名を受けられないことが裁判官の市民的自由を著しく制約をし、家に引きこもって忙しくてほかのことは何もできない、このような裁判官の状態を解決をすることが司法権が行政、立法から独立をして存在をする意義につながるんだと指摘をしています。
最高裁の独立と裁判官の市民的自由が十分確保できるように裁判官の任命方法を改めること、国民の裁判参加の道をより広げること、国民、市民のための司法改革を進めることこそが求められているのではないでしょうか。
一方で、憲法裁判所を導入をすれば違憲審査制が活性化して、本来の機能を果たすようになるとの保証はどこにもありません。それは、いかなる裁判官が選任されるかによって大きく左右されるものであり、それは現在の付随的審査制におけるのと同様の問題です。
国会や内閣に対して毅然とした態度を貫く裁判官が極めて少ないのは、国民の批判の届きにくい官僚的裁判官制度や運用の問題であって、憲法裁判所を設置すれば解決できる問題ではありません。むしろ、一般の係争事件において憲法判断を求める主張が排除され、憲法裁判所以外の裁判官から憲法判断の権限を奪うことになります。
また、憲法裁判所導入の改憲論の一部には、国論の分裂回避や迅速な憲法裁判の処理を期待する議論がありますが、これは人権保障の全うという憲法本来の姿と異なるものであることを指摘をしなければならないと思います。
現行憲法下での本来の司法改革こそ必要だということを申し述べて、意見陳述とさせていただきます。
ありがとうございました。