那谷屋正義の発言 (憲法調査会)
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○那谷屋正義君 民主党・新緑風会の那谷屋でございます。私は、憲法第九条にかかわって二つの視点から意見を述べたいと思います。
まず、憲法は今後の国家の在り方を中長期的に定義するものであることからかんがみて、これからの日本の外交政策をどうしていくのか、その方向性を示すのは現憲法の前文とこの第九条に込められていると考えます。
憲法前文は、全世界の人々の平和的生存権を確認し、それを保障する公正な世界秩序をつくるために、国民と政府に対して不断の努力を求める根本規定として構成されています。ここで言う公正な世界秩序とは、圧制や貧困、搾取などに象徴される構造的暴力が克服された社会を意味します。また、第九条が、武力による威嚇、交戦権を否定するなど、直接的暴力の克服をうたっていることは世界の共通認識になっています。
日本国憲法の揺るぎない先見性、開放性は、構造的暴力の克服をうたう前文と直接に暴力の克服をうたう第九条が相まってこそ担保されるものであり、それゆえに、いわゆる南北格差や民族紛争、宗教問題等も克服できる実践的な道しるべの意義を有していることにまなざしを向けるべきです。
国連の安全保障体制は、大前提として、国連憲章二条四項に明らかなとおり、武力行使の包括的禁止から出発しています。一方で、憲章四十二条では安保理の武力行使を定めていますが、これはあくまで、国際平和を損ねる行為や事態に、非軍事的措置等では不十分であった場合に国連が一丸となって対処する方式を指し、一国家又は同盟による主権行使とは別次元のものです。つまり、国連における例外的な実力行使も集団安全保障措置によることを要因としています。憲章五十一条が定める集団的自衛権の行使に至っては過渡的な応急処置にすぎず、国連の安全保障体制をむしばむものであってはならない制約下にあることは自明であります。
このような国連憲章の本来の趣旨を考えるなら、集団的自衛権行使の主張が、敵国を想定しない集団安全保障方式を基軸とする国連中心主義を叫ぶことには違和感を否めません。平和維持を目的とする国連部隊を構想する場合も、第一義的には紛争予防にかかわる機能強化に意が用いられるべきだし、構造的暴力の克服も含め、非暴力介入主義に徹するNGO活動との有機的な連携構築へ平和憲法下で培ってきたノウハウを発揮していくことが強く要請されるでしょう。
私が昨年十一月本調査会で述べました平和基本法構想の核心には、日本国憲法を国連憲章の運用指針として国際社会に提案したいとの思いを込めたものであったことを付け加えておきたいと思います。
次に、この憲法が自らの未来を規定する課題にもかかわらず投票権を与えられていない子供たちへの責任を全うするために、また教育に携わってきた者として、第九条について述べます。
もし憲法に集団的自衛権の行使や自衛隊を軍隊として位置付けるとしたなら、国土の防衛がやはり外交防衛の第一義的ですから、兵員の確保が重要になります。しかし、我が国は先進諸国でも例を見ない少子化が進んでいる国ですから、自衛軍のための要員の確保が大きな課題になると思います。兵員確保となれば、国家財政が厳しいことも考えれば徴兵制が選択肢の一つになる可能性も出てきます。現に自衛隊の定員が充足されていない現状から、教育を受ける権利を有している者の徴用が憲法改正、自衛軍の憲法上の位置付けにより具体化される可能性が出てくることを危惧するものです。
日本はかつて兵員不足を学徒出陣により若い前途ある若者を戦地に行かせ、死なせるという苦い経験をしてきました。また、女性や中学生以上も軍需工場などに総動員し、子供たちを学びの場である学校から離れさせ、教育を奪ってきました。多くの子供たちを軍国少年に育てましたが、こうしたことは二度とあってはなりません。子供は戦争の道具ではありません。戦争は自衛であっても子供たちを犠牲者にします。子供の成長は、これからの日本の未来を考えても貴重な財産であります。
以上のことから、これまで平和憲法を擁し、また唯一の被爆国である日本は、国連の軍事的対応を抑制させ、非軍事的な活動を発展させていく使命を担っていると考えます。そのための切り札として前文と第九条は今後も大いに活用されるべきであることを訴え、討論を終えます。