青山茂利の発言 (厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会)

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○青山参考人 御紹介いただきました青山です。
 ただいまから、私のつたない経験を通して、我が国で移植を待機するということが一体どのようなことであるのかについてお話をさせていただきます。
 ただ、私の立場としては、決して議論の方向を云々するつもりはもちろんなくて、ただ、我が国で移植を待った患者の一事例を御紹介させていただいて、それを何らかの参考にしていただければと思います。まず、その立場を確認いたします。
 私は、今から十年ほど前の一九九九年の九月に、会社の会議中に突然息が苦しくなりまして、近くの大学病院で緊急の検査を受けました。その日の夕方に家族が呼ばれて、病名は突発性の拡張型心筋症、余命は約三年、ただし移植をすれば助かる可能性がありますという宣告を受けました。四十六歳の誕生日を迎える十日前でした。
 こうして、私の四年半に及ぶ闘病生活が唐突に始まりました。
 それでも、最初のころは余り切迫感もなくて、これも運命かなとか、そのうち何とかなるだろうと結構気軽に構えておりました。しかし、その後、いろいろインターネット等で、現行法制下で脳死から移植に至る過程をつぶさに調べたところ、その現実に愕然としまして、自分の置かれた事の重大さに気がついたわけです。もちろん、海外で移植をするという選択肢があることも存じておりましたけれども、しかし、普通のサラリーマンが海外渡航をするということは、自分の命のために家族の将来を犠牲にすることにほかなりませんので、そんなことは少なくとも私は決してできませんでした。ですから、選択として、日本でドナーをひたすら待つ、それで時間切れになってその日が来れば、潔く家族に別れを告げて死のうと思っておりました。そう覚悟を決めて、家族にもしっかりそれを伝えました。
 その日から、二人の子供たちにはいつまでも力強い父親でいたい、妻に対しては頼りがいのある夫でいたい、両親と同居しておりましたので、苦労をかけた両親なので、最後まで優しい息子でいよう、それを最後まで演じ切ろうと覚悟しました。そんな入院中の私にとって最もつらかったのは、やはり、子供はまだ二人とも中学生でしたので、家族が日常生活で進学のことで悩んだり学校でいじめられた云々という話があって、そういう話を聞くにつけ、彼らのそばに寄り添えないことが本当につらかったです。とにかく病室でひたすら祈ることしかできることはありませんでした。この悔しさとか歯がゆさは想像を絶するものがあります。本当に家族のもとに帰りたい、もうなえそうになる気力を必死で、それこそ必死で支える日々が続きました。
 現行法制下で日本で助かる可能性はもちろんございます。事実、私が入院していた病院でも、笑顔で退院していった入院仲間も知っております。ですから、頑張れば自分にだってその日がいつか来るぞと一生懸命思おうとするのですが、やはりだめかなという気持ちがわいてきます。そんなとき、可能性がゼロではないということは、ある意味幸せなことなのかもしれませんけれども、それを希望というにはやはり現実は余りにも絶望的で残酷でありました。その絶望的な希望といいますか、そういう状況に置かれるということは、絶体絶命よりもひょっとしたらつらいというような気がしました。いっそのこと、もうおまえは一〇〇%死ぬと言ってもらえればもっと楽じゃないかとよく思ったものです。
 そのような毎日が延々と続いたわけですが、いろいろ考える中で、先ほど言ったように、ポーズだけでも毅然として生き抜くために、幾つか解決しなければならない問題がありました。
 一つは、今言ったように、自分の気持ちをコントロールしていかに家族に格好をつけるかという大問題なわけですけれども、結構いろいろ悩みましたけれども、意外と出た答えはシンプルでして、それは、生きようと思うからつらいんだから、まず生きることをあきらめる、もうおれは死ぬということを自分に説得しました。それから、その日まで生きることの理由づけに、とにかく死ぬまで生きようと覚悟しました。言葉にすると非常に当たり前のことですけれども、とにかく死ぬまで生きようというこの言葉は、私にとっては非常に心の支えになりました。
 二つ目は、こうやって生きることをあきらめたとはいっても、当然、万が一を願う気持ちも消えたわけではありませんので、移植の日を願ってはおりました。しかし、そのときを、その日を願うということはだれかの死を待っているんじゃないかということを、どうしてもある意味では否定しがたい事実を何とか自分の中で理屈をつけないと余りにも自分が情けなくて、それで考え抜いた末に私の出した結論はこうであります。ある人は本当に避けがたい運命によって不幸にも医学的な脳死になられる、ここまでで第一幕が終了します。そこで第二幕が開いて、ドナーカードの存在であるとか御家族の承諾であるとかそれから法的な脳死判定だとか、いろいろな経緯を経て臓器提供が決定されます。その段階になって初めて我々は登場するんだ、だから、我々が願っているのは決して第一幕ではなくて第二幕以降なのだ、第一幕に我々の存在の有無は全く関係がないのだ、そう思い込むことにしました。
 この辺までは何とか整理がつきましたけれども、もう一つ問題が出てきました。
 最初は名古屋の大学病院に入院したんですが、一年半ほどたって、移植を待機するために大阪吹田市の国立循環器病センター八階西病棟に転院しました。その八階西病棟は心臓移植を待つ患者のみの病棟でして、約二十名の患者が、ほとんど全員が補助人工心臓、補助心をつけて待っておられました。それぞれが個室で、基本的には外部の機械につながれておりますので、その機械のコードの長さは約三メートルぐらいでしたか、その半径三メートルの範囲が一応自由に動ける世界でした。その長さですと、辛うじて病室のドアの外までは出られまして、それで、お互い出て、両隣の患者とは会話をすることができました。それから、検査に行ったり、たまにドクター等に連れられて軽くナースセンターを一周するぐらいの散歩がありまして、そんなようなときに、みんな、何人かの患者とだんだん知り合っていくわけです、何せ年単位の期間ですので。そうこうするうちに、徐々に周囲の様子がわかるようになっていきます。何人かの方の血液型も知るところとなります。
 そんな中、八階西病棟で、少なくても待機順位が私より上である、私と同じO型の患者が二名みえました。ある日、ふと、彼らのうちの一人か、いや、できたら二人とも、突然何らかの事情でここからいなくなってくれたらと思いました。その思いは、それ以降、否定しても否定しても頭から離れなくなりました。あのときのまさに悪魔のささやきがまだ残っています。何かこぶし大のちょっとずしっと重たいものがずっとみぞおちのあたりを、まだここにあります。
 発病後三年経過した二〇〇二年の十二月にドナーが久しぶりに出まして、その方の血液型がO型だったんですが、私にそのときの待機の連絡はありません。御存じかもしれませんが、ドナーが出て、待機順位一番の方が当然移植の準備をするわけですが、大体二番目、三番目まではアクシデントに備えて待機の準備がかかるそうなんですが、私にはありませんでした。ということは、その時点で少なくても私はO型の四番目以降だということがわかりました。三年たった時点で四番目以降です。あのころは年に三例とか四例とかそんな状況でしたので、これから年に最低一例のO型のドナーが出てくださったとして、さらに三年を待つ計算になります。それまで私の体力がもつはずは絶対にありません。
 その翌年に入ってすぐに、私に埋め込まれた補助人工心臓のポンプの音がちょっと、かりかり、かりかりと異音がするようになりました。私が装着した補助人工心臓というのは埋め込み型の補助人工心臓でして、ハートメートというアメリカ製なんですが、治験でそれを入れておりまして、ポンプが腹の中に入っておりました。そのポンプが、埋め込んで一年経過して耐用年数に近づいたということなんでしょうか、そして、四月を過ぎるころにはその音ががりがりという音に変わっていきました。その音は、まさにXデーへのカウントダウンの音でした。いよいよそのときが来たと思いました。それで、本当に長かったなと感傷的になったわけです。僕は、発病以来、自慢にならないかもしれませんが泣いたことはありませんけれども、このときだけはさすがにちょっと涙が出ました。あれほど死ぬ覚悟をしたつもりでしたけれども、そんな程度の覚悟だったということです。
 そして、その年の六月でしたけれども、一階のレントゲン室に、レントゲンを撮るために看護師さんの押す車いすに乗って八階ホールのエレベーターホールでエレベーターを待っていたんですけれども、そのとき、斜め後ろの方からお元気ですかという声があって、振り向いたら、ほんの半年ぐらい前まで私の二つ隣の病室にいた一人の若者だったのです。何か最近見かけないなと思っていたんですけれども、彼はしっかりと自分の足で立って、補助人工心臓のコードはどこにもありませんでした。彼は、募金によってアメリカに渡って心臓移植をして、その帰国後の検査のために八階西病棟に帰ってきたところだったのです。彼が本当にまぶしく、大きく見えました。
 その日の夜はほとんど一睡もしないで朝を迎えて、家族が起床する時間を待ちかねて病室から自宅に電話をしました。そして、たまたま電話口に出た母に、許してもらえるのなら渡航移植の可能性を探るだけ探らせてほしいと伝えました。母は、おまえがそう言い出すのをみんなずっと待っていた、そう言ってくれました。こうして、これまで必死で演じ続けたやせ我慢に私は終止符を打ってしまいました。発病後千三百五十四日目のことです。
 それからいろいろなことがあって、本当に奇跡的な幸運があって、その年の九月三十日に関空を飛び立ちました。そして、翌年の二月十二日に懐かしの我が家に再び戻ることができました。発病から千五百九十八日目、こうして私の闘病は終わりました。
 話は以上です。何のことはない体験談を聞いていただいてありがとうございました。終わります。(拍手)

発言情報

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発言者: 青山茂利

speaker_id: 9803

日付: 2009-04-21

院: 衆議院

会議名: 厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会