古川道郎の発言 (総務委員会)

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○古川道郎君 川俣町長の古川道郎でございます。
 私どもの町は四月二十二日に、計画的避難区域ということで、町の一部、山木屋地区が指定された町であります。
 三月十一日午後二時四十六分のあの地震によりまして、川俣町は、津波等はございませんが、町内の損壊したところ、建物が三百四十八件、道路等が百一カ所でございました。建物のうち、役場庁舎が使えなくなりまして、これは建てかえをしなくてはなりませんし、総合体育館または公民館等々もそのような被害を受けております。
 そんな中で、家屋が損壊した皆さん方が、夕方から八十名の方々が避難をするということで、町の老人センターの方に入られまして、町は午後三時に対策本部を立ち上げて、学校の安全確認等も含めて対策をやってきたのでありますが、人的な被害はなかったことだけが幸いだと思っております。そんな中で、夜を徹して八十名の皆さん方の避難のための対応をとり、一緒にやってきたのであります。
 明けて十二日、きょう双葉の井戸川町長さんもお越しでありますけれども、私の記憶では六時前だったと思っておりますが、町長さんから電話をいただいて、原発の事故が発生してすぐ避難しなくちゃならない、川俣の方で七千名を受け入れてほしいと、私の記憶なのでありますが、そのようなことを受けました。七千名というと、双葉町民さん全員であります。私どもの町は人口が一万六千を切っております、一万五千五百ほどでありますが、そんな中で、地震の被害もありましたしと思っていたんですけれども、とにかく引き受けたわけであります。
 その後、十二日から、双葉町さんを初め浪江町さん、南相馬市さん、また浜通りの町村の方から避難される方がどんどん来られまして、校舎等を除いて、地震の被害に遭わなかった町の十二の小学校等も含めた公共施設を使いまして、最高時は六千八十名の方々を受け入れてやってきました。そのほか、グラウンド、また道の駅等には、車のままで寝泊まりして避難されている皆さんもおりました。
 私どもは断り切れない、本当に立錐の余地もないような状況を呈した十二日から十三、十四日の夜であります。帰ってくださいとは言えません。夜十一時ころ、赤ちゃんをおんぶして、とにかく泊めさせてくれと来られます。ですから、ここがあいているから、ここでちょっと休んでください、おにぎりがあるところがある、そんな状況もありました。
 その次の日から、今度は福島市などと連携をとって、市の方の避難所の紹介をしたりしながら、あの四日間というものは本当に混雑いたしまして、避難される方々が着のみ着のままで来られています。津波に遭って、自分の家の流された牛も確認できない、また、亡くなったかどうかも確認できないで来られる方がたくさんおられました。安否確認の照会もあります。なかなか大変でございました。
 当時は、電気もない、電話は通じなくなっておりますし、またガソリンもありません。ないない尽くしであります。しかし、皆さん方に何とか食事の提供だけはしたい、しなくちゃならないと思いまして、町内の米屋さんを総動員して米を提供してもらいましたが、これはもう一日でなくなりました。役場職員に米を持ってきてくれと米を出させたり、また避難所になっている学校の近辺の自治会の皆さん方の中では、みずから六十キロ持ってきたり五十キロ持ってきたりということで米などを提供していただいて、おにぎりの提供をしていただきました。
 おにぎりも、五千個を握るわけでありますけれども、五千個握っても一人に一個であります。物資が、カップヌードル等が何日目かに来ましたけれども、電気がありませんからお湯を沸かすことができません。食べられないわけです。大きなパン屋さんがありましたので、パン屋さんにお願いして、パンを何とかしてくれと言ったら、パンは粉が入ってこなくてできないと。では、何かないか、菓子パンならあるということで、菓子パンを五千食、袋に詰めてもらいました。それで、朝は菓子パンにしました。あとはおにぎりを、婦人会の皆さん方、ボランティアの皆さん方に手伝ってもらって、朝から六千個のおにぎり握りをやりました。
 米が入ったのが三日目ですか、県の方から一トン入ったのが。それで、給食センターも故障しておりまして、給食センターの炊飯器、米の方はできなくて、野菜を煮るようなものを使ったんですけれども、これまた一度にはできなくて、分けるきりありませんから、朝の七時から午後の三時ころまで、ずらっとこういうところに並んでおにぎり握りです。一斉につくって、熱くてなかなか大変なんですけれども、そんなことで、私どもは、避難された皆さん方に不自由をかけたくない、せめて雨風をしのいで、そして食事は何としてもやるしかない、そんな思いでやってきました。
 いろいろと物資は当然ありませんでしたし、ガソリンは入ってこれませんから、車を満タンにして今回の災害を待っておりませんから動けません。連絡がとれません。ですから、今回アナログからデジタルになっていますけれども、便利なことをやったって何にも役に立たない。役に立ったのは人の口と手と足です、その連携だけであります。消防団そして民生委員の皆さん方と連携をとって、町民の皆さんの安全、安心を確認しながらやったわけであります。
 電気がありませんから信号がとまります。信号に立つ警察官もあのときはおりませんでした。消防団員がみんな出て、双葉さんから来られる方の道案内です。胸にこういうのを書いて、川俣小学校は双葉町と書いて、ずらっと並んでいただいた。夜は消防団員が全部出て警ら活動です。三日間、三日三晩寝ないでやってもらいました。そんなことをやって、本当に、今回は町民の皆さん方のあれだけの支援といいますか参加があって、あの避難された皆さん方を受け入れることができたなと私は思っております。
 ただ、申し上げますけれども、来られた皆さん方は選ばれてきた方々だけではありませんから、具体的には、赤ちゃんからお年寄りの方から、松葉づえをついている方もおりましたし、車いすの方もおりましたし、泣いている赤ちゃんもおりました。妊婦の方もおりました。ですが、同じ条件でこういう広いところにいるきりないんですね。ですから、これは、私どもは一生懸命やろうとしてやってはきましたけれども、あちらの町民の皆さん方は本当に我慢して、お世話になっているから言わないだけだと思いますが、大変な苦労をされたと思います。
 一番心残りだったのは、おふろの提供ができなかったことであります。三カ所のおふろ場もあったのでありますが、灯油がなくてお湯を沸かせないんです、水道は使えたんですが。
 それで、五日目です。灯油が全部行き渡るようになって、きょうはふろを出そうと。六千名近くの皆さん方をおふろに入れるには朝から夜までです。バスを回そうとしてやったのでありますが、恐らく双葉町の皆さん方には入れないでいた方がたくさんいたんじゃないかと思うんですが、赤ちゃんのおしりを洗うこともできない。ですから、避難所の近所の方が見かねて、うちのふろに入れたこともあるよと、今ごろになりますといろいろな話を聞かされますけれども、我々はなかなか目が届かない。でも、近所の人たちがそうやっておふろや何かに案内したということも聞かされました。
 我々はそういうことをやらせていただきました。先ほどお話がありました防災訓練もやっておりますけれども、防災訓練なんて全く何にも役に立ちません。本当にこれは手探りの中で、あとは人が頼りで、お互いの気持ちでやるきりないなということでやってきたわけであります。
 そういったことを経ながら、今度は私どもの町が計画的避難ということを、四月十日の夜、政府の福山さん初め、細野さん、松下さんらが来られてそのような話を出されました。川俣町は二十ミリシーベルトを超す地域のところがあります、そのことについては将来健康障害を起こすことがあるので、国としては、国民の健康を守るためにも、このような地域については計画的避難区域ということで、おおむね一カ月以内をめどに避難をしてほしい、そういうようなことになる考えだということでありました。
 そのときは指示とか設定とかではなく協議と言われましたけれども、来られた以上は、これは決まるんだろうと思いました。私どもは皆さん方の受け入れをしてきたんですけれども、そこまでは考えておりませんでした、当時は五十ミリシーベルトでありましたから。モニタリング、三月十七日から放射線をはかってきましたけれども、今回なった山木屋地区というところは高いですから、十五とか十四くらいありましたけれども、トータルすると五十ミリにはならないんです。ですから私どもは、川俣は避難ということにはならないだろうという思いでいたんですが、その日、二十ミリシーベルトという新しい基準を示される中で、避難の話をされました。
 これは町民の命と健康を守るということでありますから、我々、それを反対とか何かいきませんので、これは聞かざるを得ませんので聞きました。次の日、早速、地元の人に集まってもらって説明会をやりましたけれども、私は国から言われたこときり言うことができませんので、改めて集会を持つということで、国の方からまた福山さんを初め来ていただきまして、夜三時間に及ぶ、いろいろとひざを交えた説明や何かをやっていただいたわけでありますが、そのようなことを経て、二十二日には正式に設定となったわけであります。
 現在、一次避難も終わり、仮設住宅もできて、山木屋地区の皆さん方千二百五十二名、世帯が三百六十世帯でありますけれども、避難になってきますと五百十一世帯に、世帯はばらばらに分かれております。そんな中で、大きな混乱もなく避難の方に今進んでいるのでありますが、ただ、残念なことには一人だけ亡くなられた方がおります。これはもう本当に我々も残念なのでありますが、だんなさんも家族の皆さん方も、本当に申しわけないというようなことで我々の方にも来られて、とにかく避難について町の方でもやっているんだからというお話をいただいたわけであります。
 そういうこともございましたが、現在、山木屋地区の皆さん方は、落ちついた中でというと表現があれなんですが、課題はたくさん持っていますけれども、何がある、かにがあるという大きな混乱を生じながらの毎日ということではなく、今避難生活の方に入っているところでございます。
 町では、国、県の方にも要望しておりますけれども、原発の事故が一刻も早く収束すること、またあわせて、避難をしておりますけれども、地域の除染について、農地、宅地等も含めてこれをしっかりとやっていただいて、ゼロにしていただきたい。汚染された土地、マイナスからゼロに戻していただいて、いつかは戻るわけでありますから、安心して戻れる地域づくりを、今からそのためにやってほしいということで要望しながら、現在、農地等の除染のための実証試験なども入ってやっていただいております。
 また、もう一つは人の健康管理であります。こちらの方についても、三十年間にわたって町民の健康管理をしてほしいという要望を私は出しておりましたが、今回、福島県の方でも具体的に、計画避難である私どもと浪江町さんと飯舘村さんの住民の皆さん方に対して調査に入っております。今、川俣町では、最初は千葉の方へ行きましたけれども、十二名、現在は、おとといから茨城県東海村の方へ行ってホール・ボディー・カウンターの感性検査に入っております。そのような対策も今とっていただいております。
 また、町でも、災害または今回の原発に伴います地域の復興計画づくりに入っておりますので、そういったものを支えていただくのは何といっても財政支援であります。このことは総務大臣との懇談会でもお話をさせていただきましたが、今回は平常時ではありません、全く異常事態でありますから、今までの財政制度、税制度をそのままで、そこをちょっといじくったくらいでは私はもたないんじゃないかと思っているんです。ですから、我々は新たな試みで、この対応、対策については、期間をくっきりと区切って、余り長期にわたらない中でしっかりと私どもの要望にこたえていただきたい。そんな要望を申し上げております。
 最後に、私どもの町は原発の地域ではございません。全く関係ない四十キロ圏外の地域でありまして、いただいたのは放射能だけであります。しかも、いろいろなことをやらせていただいております。ですから、我々、今までにいろいろな立地交付金や何かは全くいただいておりませんので、私どもが今つくっております復興計画、復興ビジョンについては改めて財政支援をいただいたっておかしくないんじゃないかと、私はそのような話を最近申し上げるようになりました。これから落ちついて復興計画の策定に入り、具体化をしていくことによって、町民の皆さん方の安全、安心を少しでも保つことができるんじゃないかと思っております。
 今、町内、これは福島市内も含めてでありますけれども、放射線量の問題で、低い、ゼロでないと納得しません。学校の除染も含めて、あるいは今度ホットスポットということも出ておりますけれども、本当に今関心が高まっておりますから、市民、町民の健康管理についてはしっかりと国の方の指針のもとに対応、対策をやっていただきたい、そのようなことを思っております。
 少し長くなりました。以上で、状況のお話とさせていただきます。

発言情報

speech_id: 117704601X02420110728_016

発言者: 古川道郎

speaker_id: 18094

日付: 2011-07-28

院: 衆議院

会議名: 総務委員会