岡田健一郎の発言 (憲法審査会)
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○岡田健一郎君 高知大学人文学部で憲法を担当しております岡田と申します。
本日は、発言の機会を与えていただき、ありがとうございます。
今回私がお話をしたいのは、昨年七月に政府が行った、集団的自衛権に関する憲法解釈の変更についてです。私には、この解釈変更が、日本の平和主義だけではなく、憲法改正問題や立憲主義、そして憲法審査会に対しても深刻な影響を与えているように思われるからです。
そこで、まず取り上げたいのが、憲法解釈の変更と憲法改正との違いです。
実際に日本国憲法を見てみるとわかりますが、その条文は、その多くが抽象的な言葉遣いになっています。それは、憲法というものが、いわばこの国の形を定めるものであることに由来します。
すなわち、国や社会の形をあらかじめ全て細かく決めておくことは難しい、したがって、ある程度形の大枠を抽象的に書いておく、そして、時代が変化しても、憲法の解釈を変えていくことによって、そのたびごとに憲法改正の手続を踏まなくても、社会の変化に対してある程度柔軟に対応していくというわけです。したがって、一般論として、憲法解釈の変更は、それ自体、絶対に許されないというわけではありません。
しかしながら、ここには大事なルールがあります。それは、憲法解釈の変更には限界があるということです。条文から大きく逸脱した解釈は許されません。したがって、解釈の限界を超えて憲法の内容を変えたい場合には、憲法九十六条に従って憲法を改正せよというのが、現行憲法のルールなのです。このことは、憲法九十九条に定める憲法尊重擁護義務からも要請されると考えられます。
先ほども述べたとおり、憲法は人権や統治機構など、国家や社会の基本原理を定めたルールですが、その内容が政府の解釈変更によって頻繁に変わることになれば、人々は一体どのように行動すればいいのかわからなくなってしまいます。これが、最近よく言われる法的安定性の問題です。
さらに、憲法九十六条は、憲法改正のために、国会の議決に加え、国民投票をも要求しています。したがって、日本において憲法を改正する決定権は、最終的には有権者にあると考えられます。本来なら憲法改正手続を踏むべき場面なのに、政府が憲法解釈の変更によってその場面を切り抜けようとするいわゆる解釈改憲は、政府が有権者から憲法改正権を奪うことにほかなりません。
しかも、今回の解釈変更は、数ある憲法の条文の中でも、平和主義という国家の基本原理というべき内容にかかわるものでした。
自衛権に関する従来の政府解釈は、自国が攻撃を受けた場合にのみ反撃が可能になるというものでした。しかし、新しい政府解釈は、自国が攻撃されていなくても実力行使が可能であるという集団的自衛権の行使を認めるものです。これら新旧の政府解釈の間には、はっきりとした断絶があります。
私は、自衛隊や個別的自衛権を認める従来の政府解釈自体、憲法九条の解釈として許される一線を越えていると考えています。しかしながら、今回の解釈変更は、それをさらに一層踏み越えたものであります。最近、政府・与党は、日本を取り巻く安全保障環境の変化や砂川事件の最高裁判決などを持ち出して解釈変更の正当性を主張していますが、いずれも説得力に欠けると言わざるを得ません。
なるほど、確かに安全保障環境は変化しています。だから、私はそうは思いませんが、日本の平和のためには集団的自衛権を行使できた方がよいのではないかと考える方が少なからずいらっしゃるとしても、それは無理なことではありません。しかし、そうだとすれば、先ほども述べたように、解釈変更ではなく、憲法改正によって対応することが筋と言えます。
さて、ここまでの話は最近よく議論されていると思います。ですが、私がさらに危惧するのは次のような問題です。すなわち、このような解釈変更が許されるのならば、もはや、どんな条文を、いかなる内容に解釈変更することさえ可能ではないかということです。
例えば、従来の政府解釈は、徴兵制が苦役を禁じる憲法十八条などに反するため許されないとしてきました。しかし、集団的自衛権に関する解釈変更が許されるのならば、日本の安全保障環境の変化などを踏まえると、必要最小限度の徴兵制は憲法に反しないなどと政府解釈を変更し、徴兵制を導入することも可能ではないでしょうか。まさか、そんなことはあり得ないと思われるかもしれません。しかし、政府は昨年七月、国家の基本原理の解釈を、憲法の改正手続をとることなく変えたのです。もしそうだとすれば、徴兵制に関する解釈変更がどうして不可能だと断言できるでしょうか。
最近では、憲法改正の候補として、環境権や国家緊急権などが議論されています。しかし、それらの改正を行っても、結局その時々の政府の望むように条文が解釈されてしまうのならば、そもそも憲法改正など無意味、あるいは有害ではないでしょうか。
例えば、国家緊急権というのは、戦争や災害などの緊急時に、憲法の人権条項などを一時停止して、政府を中心とする国家権力の活動範囲を通常よりも拡大する仕組みです。そうしないと、いざというとき、政府が必要に駆られて憲法の枠組みを超えてしまいかねないというのがその理由です。
確かに、これはこれで一理ある考え方です。しかし、ここには大事な前提条件があるのです。それは、平時であっても緊急事態であっても、政府ができるだけ憲法を守ろうと努力するということです。
もしこの前提条件が成り立っていない場合はどうでしょうか。国家緊急権によって与えられた権限を政府はさらに踏み越えて活動し、国家緊急権に関する規定がない場合よりも結果として市民の人権がより広く侵害されてしまうというのは、私の考え過ぎでしょうか。
要するに、憲法改正を考える際には、私たちの政府が憲法を守るということを私たちがどこまで信頼できるのかがポイントになるわけです。今ある憲法は守らないけれども、改正後の憲法なら守りますというのは、いささか都合のよい話と言わざるを得ません。
そして、昨年の解釈変更を踏まえると、残念ながら、現在の政府にそのような信頼を置くことは、私にはいささか難しいように思われます。そうだとすれば、そもそも現在の日本は憲法改正を議論する環境にないと言わざるを得ません。これは、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議などを審査することをその使命とする憲法審査会にとっても、深刻な問題ではないでしょうか。したがって、少なくとも政府による昨年の解釈変更は撤回されるべきだと私は考えます。
さて、ここまでの話をお聞きになって、憲法学者とは何と面倒くさいこと、あるいは融通のきかないことを言うのだろうと思われるかもしれません。しかし、この面倒くささ、融通のきかなさは、この日本国憲法がよって立つとされる、いわゆる近代立憲主義の性格に由来します。すなわち、人々の基本的人権を守るために国家権力を法で縛るという考え方です。
私は、この近代立憲主義は一つの人間像を前提にしていると考えています。
それが典型的にあらわれているのは、最近知人から教えてもらい、きょうの私の資料にも載せた、アメリカ憲法の制定時に活躍した政治家ジェームズ・マディソンの、人間は天使ではないという言葉です。人間は天使ではないからこそ政府をつくるわけですが、残念ながら、その政府で働く人間たちもまた天使ではありません。民主的に選ばれたどんなにすばらしい政治家も、天使ではない以上、時には間違えることもあるし、もしかしたら、時にはわざと悪事を働くことがあり得ます。したがって、その暴走を防ぎ、人権を守るために、憲法で国家を拘束する必要があるのです。
この、ある種の人間に対する不信感、言いかえれば、自分自身も含めた人間の弱さ、不完全さに対する冷徹な認識は、トーマス・ジェファーソンの、信頼は、どこでも専制の親である、自由な政府は信頼ではなく猜疑に基づいて建設されるという言葉、さらには、その百年後、まさにこの土佐、高知の自由民権活動家植木枝盛が述べた、世に良政府なしという言葉にも見ることができると思われます。
しかし、恐らく、彼らはいたずらに悲観主義に陥っていたわけではありません。一方で、彼らは確かに、人々の力や民主主義に希望を見ていたように思われます。そして、その民主主義を可能にする仕組みこそが、近代立憲主義だったわけです。
だからこそ、権力を縛る法を権力がみずから緩めては困るのです。憲法学が憲法解釈の限界にこだわる理由はここにあります。
本日はちょっと時間がないため、憲法九条の問題や、私の資料の最後につけた伊藤博文、吉田茂の言葉については省略し、後ほどもし御質問などがあればお話しさせていただきたいと思います。
最後になりますが、現在国会で審議中の安保関連法案、並びに昨年の政府による憲法解釈の変更を撤回した上で、この憲法審査会が、今回の解釈変更の問題について、憲法、国際法、国際政治などを初めとする幅広い専門家、そして広範な市民が参加した上でじっくりと時間をかけて検証されることをお願いして、私からの意見陳述とさせていただきます。
御清聴ありがとうございました。