町村信孝の発言 (本会議)
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○議長(町村信孝君) 本日表彰を受けられました他の議員諸君の挨拶につきましては、これを会議録に掲載することといたします。
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細田 博之君の挨拶
本日院議をもって永年在職の表彰の栄に浴しますことを感謝いたします。
二十五年前の平成二年二月十八日の総選挙におきまして初当選して以来、九回の総選挙を勝ち抜いてまいりました。これも地元島根県民の皆様、後援会の皆様の御支援のたまものであり、心より御礼申し上げます。また家族、親類、縁者の皆様に多大なる迷惑をかけてまいりました。感謝とともにお詫び申し上げます。
私の父細田吉蔵は昭和三十五年に初当選以来、定数五人の島根全県区で十回当選してまいりました。大橋武夫、櫻内義雄、竹下登という偉大な先輩が現職でしたが、四人目の自由民主党議員として当選いたしました。三位ないし五位当選がほとんどでしたが不思議なことに落選は致しませんでした。
九回目の総選挙ではわずか二百一票差で当選でした。後援会の皆様から強く若返りの要望があり、当時通産省に勤務していた私は、アメリカの首都ワシントンで石油公団事務所長をしておりましたが、私は意を決して帰国後物価対策課長を最後に、昭和六十一年に退官して父の秘書となり、父の最後の選挙を戦いました。島根県全県の後援会の皆様とお目にかかり、全国一の最高齢県であり、過疎と人口減少問題に悩む有権者の皆様が政治に期待する声がいかに大きいか実感いたしました。当時全県には高速道路が存在せず、隠岐の島にはフェリーで三時間近くかかって渡りました。秘書としての四年間は、島根県の素晴らしい点と解決すべき問題点を私に教えてくれました。
平成二年に初当選の後、二回目の当選時の選挙で自由民主党は敗れて下野し、細川政権が誕生しました。政治改革の嵐が吹き、小選挙区比例代表並立制が実現して今日に至っております。私は以後七回の総選挙を島根第一区で当選しておりますが、途中で三区から二区に定数削減、区割りの変更が行われました。政治改革のための特別委員会で二回生の私は、七会派連立の各党を代表する閣僚一人一人に、質問をしたことを覚えております。「小選挙区制になった場合、七会派の皆さんはどうやって立候補者調整をするのか、二大政党に本当になると思うか。」答えはあいまいで、大きなお世話であるといった答弁がほとんどでした。しかし今日政党が分裂・消滅したり、少数政党ゆえに縮小してゆく現状を見ると政治制度改革の難しさを改めて実感しております。
この二十五年間は、バブルの崩壊、石油の高騰と下落、近隣諸国の成長、リーマンショック、長期デフレ、財政の悪化と増税問題、社会保障費の増大、大規模災害等々、怒涛のごとき変化であります。
今後とも我が国がこれらの問題を克服して、平和国家、安定成長・高福祉国家を堅持し、地方創生政策が成功して豊かな地方が実現致しますよう、努力してまいることをお誓いして御礼の御挨拶と致します。
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高木 義明君の挨拶
本日、衆議院本会議において永年在職議員の表彰の栄誉を賜りましたことは、この上ない光栄であります。これもひとえに、私を国会へ送っていただき、支えつづけていただいた地元長崎の皆様をはじめ、全国で応援していただいた皆様、先輩、同僚議員の皆様、役所、事務所スタッフの皆様のご指導とご支援のお蔭であり、心より感謝申し上げます。
顧みれば、私の政治活動は昭和五十年四月、長崎市議会議員から始まりました。エンジニアの私が、はからずも労働組合の先輩、同僚に推され「真面目に働く者が報われる社会」の思いで未知の世界にとび込みました。市議会三期の後、長崎県議会に進み、一期途中で前任の小渕正義先生の後継者として擁立されました。平成二年二月、浅学非才を省みず、「国政刷新、活力長崎」を掲げ、激戦の旧長崎一区で初当選をさせていただきました。以来こん日まで二十五年間、多くの厳しい試練に直面してきました。
世界では、ドイツ統一、ソ連消滅など東西冷戦構造が崩れ、湾岸戦争、同時多発テロ、EU統合、中国の抬頭など、いずれも、わが国の政治、経済に大きな影響を及ぼしました。
国内では、バブル崩壊後の混迷、デフレ経済、格差拡大など、少子化、高齢化とあわせて国民の生活に不安を投げかけています。
一方で、自然災害も多発しました。地元長崎県の雲仙普賢岳火砕流災害や、あの阪神淡路大震災、そして東日本大震災など、あらためて、復興と防災対策に万全を期さねばなりません。
衆議院では、議院運営委員長、石炭対策特別委員長などを歴任し、微力ながら職責を全うできましたのは、皆様のお力添えの賜物です。
政治改革の嵐の中で、私の所属政党は民社党から民主党に変りましたが、その目指すものは国民に「信頼される政治」であり、戦後の五十五年体制の打破と、政権交代体制の実現でした。ついに平成二十一年八月の総選挙において、国民の一票による歴史的な政権交代が起こりました。私は平成二十二年九月に文部科学大臣を拝命し「明日の国づくりは、豊かな人づくりから」の実践に取り組むことができました。今後も、未来に向い活力を発揮し、世界の人々に敬愛される日本を創るため、さらなる努力をお誓い申し上げます。
終りに波乱万丈のわが道を共に歩んでくれた妻恵子と家族に感謝し、御礼の言葉といたします。
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大畠 章宏君の挨拶
本日、院議をもって、永年在職表彰の栄誉を賜りました事に対し、厚く御礼申し上げます。すでに旅立たれた皆さんもおられますが、熱心にご指導を頂きました諸先輩、そして、今日までご支援を頂きましたすべての皆さんに感謝申し上げます。さらに、事務所の皆さんや、今は亡き祖父母と教職の道を歩んだ両親、そして兄をはじめ親族や妻孝子そして子供たちにも心から感謝いたします。
私は、武蔵工業大学院(現東京都市大学院)で機械工学を専攻し、一九七四年に日立製作所に入社し、当時の浜田邦雄原子力設計部長をはじめ多くの諸先輩にご指導を頂きました。さらに、一九七八年には日立労組日立支部の専従執行委員に選出され、当時の鈴木定夫委員長をはじめ多くの皆さんのご指導を頂き、二年後に原子力設計部に復職致しました。その後、働く仲間のみなさんの力強いご推挙を頂き、全ては世のため人のためと一大決心をし、一九八六年十二月十四日投票の茨城県議会議員選挙に挑戦し、当選させて頂き政治の道を歩むことになりました。その後、一九八九年十一月、城地豊司衆議院議員が急逝されたことにより、急遽、後継者として国政に挑戦することとなり、電機連合をはじめ働く仲間の皆さんや市民の皆さんのご支援を頂き、梶山静六先生や塚原俊平先生と共に一九九〇年二月の総選挙で当選させて頂きました。当時、政党は異なりましたが、梶山静六先生には、「情と理」など政治の道を教えて頂きました。
私は「まじめに働く人が報われる公正な社会」の実現に今日まで全力を尽くして参りました。一九九〇年当時は「政治改革」が主要な政治課題となり、一九九三年の総選挙の結果、非自民の細川連立政権が誕生し、小選挙区比例代表並立制が成立しました。その後、自社さの連立による村山政権が誕生し、一九九五年通商産業政務次官に就任。また、日本国の未来のために、欧米並みに国民の選択により政権交代が出来る国にしなければと、新党を結成する決意を固め、一九九六年九月、鳩山由紀夫さんらとともに民主党を結成。さらに、一九九八年に現在の民主党が結成され、ついに二〇〇九年の総選挙で政権交代を実現することが出来ました。この中で、経済産業大臣、国土交通大臣を拝命しました。特に、二〇一一年三月十一日には、東日本大震災が発生し、国土交通省六万一千人の職員の皆さんと共に力を合わせ「国民の命と暮らしを守る」ため全力を挙げて行動しました。
今日の世界は、「社会格差と貧困」が世界的社会問題として浮上し、世界各地で紛争とテロ行為が多発しています。このような情勢の中で、「未来への責任」ある政治を実行しなければなりません。現在、将来に対する不安を口にする国民が増えております。日本国の歴史と文化と伝統を踏まえ、報恩感謝の精神で「平和と人とふる里」を大切にする政治を求め、すべての国民が安心して働き、すべての国民が安心して生きられる「共生社会」の実現を目指して全力を挙げることをお誓いし御礼のご挨拶と致します。
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赤松 広隆君の挨拶
この度、永年在職議員の表彰を院議をもって御決議を賜り、万感胸に迫る想いであります。この栄誉は偏に長きに亘って私をお育ていただき、御支援を賜った愛知、名古屋の皆様、そして至らぬ私を御教示、御指導くださった先輩、同僚、後援会の皆様のお蔭でございます。心から感謝申し上げます。又、合せて、妻弥生をはじめ子供達、事務所の秘書の諸君にも改めて心から感謝します。
私の政治の原点は、生まれた時に既に国会議員だった父親の影響もあって、「虐げられた人、悲しみにくれる人が一人でもいる限り、闘いは終らない」であり、「政治は弱い立場の人達の為にこそ、ある」でした。高校、大学を通じての学生運動、勤めてからの労働運動、三十歳で県会議員、四十一歳で国会議員となり、二十五年を経た今も、その考え方や、行動の原点は変わりません。
この二十五年は、私にとっても、日本の政治にとっても激動の二十五年だったと思います。
当時、野党第一党だった社会党は、政権政党への脱皮を図るべく、大胆な人事の若返りを図り、一期生だった私を書記長に抜擢。半年後の解散、総選挙では八党会派に依る非自民の連立政権、細川内閣が誕生することとなります。その後、羽田政権、村山自社さ政権と目紛しく政局は動いてゆきましたが、私自身は自らの信念に従い、保守に対抗し得るリベラル勢力の結集をめざして、民主党の結党に参画しました。新生民主党は選挙の度に躍進を続け、二〇〇九年には、私自身の政治家としての夢であり、目標であった本格的な「政権交代」を実現することができたのです。三百八議席、過去最大の議席を獲得したこの歴史的な選挙を党の選対委員長として司ることができた幸せは私にとって最大の栄誉でもありました。その後の鳩山内閣では図らずも農林水産大臣を拝命し、戸別所得補償制度の創設や、まぐろ、IWC、FTA等の国際交渉、口蹄疫の対応など厳しかったけれど、やりがいを持って取組んだことも良き思い出となりました。衆議院にあっても、外務、労働の常任委員長、郵政をはじめ特別委員長も数多く歴任しました。直近のこの二年間は、予想さえしなかった第六十五代衆議院副議長にも就任させていただき、感激でいっぱいです。我が人生に悔いなしです。
結びにあたり、本日の永年表彰の意味を改めて認識し、政治の原点を忘れず、今後とも尚一層、議会制民主主義の発展に微力を尽すことをお誓いし、謝辞と致します。
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森 英介君の挨拶
このたび、院議をもって在職二十五周年の表彰を賜りました。身に余る光栄であり、感無量の思いです。昭和六十三年、衆議院議員であった父の他界に伴い、それまで民間企業の技術者であった私は、一大決心をしてその後継を目指すことにしました。そして、十五年間勤めた会社を辞し、一年半の選挙運動期間を経て、平成二年二月の総選挙で当時の千葉三区で初当選することが出来ました。以来、九期連続当選し、今日を迎えました。ここに至ることが出来ましたのは不敏な私を支えてくださった多くの皆様、とりわけ郷里・房総半島の皆様のご支援のお蔭です。ただただ心より厚く御礼申し上げます。
長い道のりであったような気もしますし、あっと言う間だったような気もします。その間政府、国会、党の様々な役職を担当させて頂きました。就中、麻生内閣においては法務大臣を拝命しました。人の命や生活に深い関わりを持つ内容の仕事であっただけに日々精魂傾けて職務に取り組みました。何とか大過なく職責を全うすることが出来たときは、本当にホッとしました。我が人生で最も緊張感に満ち、濃密な一年間でした。
さて、私たちの前途には様々な困難が立ちはだかっています。地球規模で言えば、最大の障壁は、大気中の炭酸ガス濃度の上昇に伴う気候変動の問題と考えます。また、世界人口の増加と消費の増大とが相俟って、エネルギー、食料、および、水の消費量が急増し、いずれ人類の需要を賄えなくなる事態も想定されるようになってきました。他方、我が国では、超高齢化が進み人口減少時代に突入し、経済成長、そして、それを支える労働力、また、社会保障制度の維持が次第に困難になってきました。いずれも解を見出すのが難しい複雑な方程式を解かなければなりません。こうした難問を何としても克服し、持続可能な世界、持続可能な日本を構築することこそがこれからの最大の政治課題と考えます。これらの課題の解決に些かなりとも資することを自らの使命と心得、これからも全力で邁進したいと思います。
これまでご支援、ご厚情を賜った全ての皆様に深く感謝を捧げますと共に今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げ、謝辞とさせて頂きます。
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山口 俊一君の挨拶
この度、院議をもって永年在職議員の表彰の栄誉を賜り感無量です。心よりお礼申し上げます。
平成二年二月、旧徳島全県区で初当選させて頂きました。以来、九期連続当選、ここに在職二十五年を迎えることとなりました。その間、御指導頂きました方々、お力添え頂き、又お支え続けて下さった皆様、とりわけ地元徳島の皆様方には心より厚くお礼申し上げます。又、秘書、スタッフの皆様も厳しい政治状況、又は選挙戦を通じて常に支えて頂き、感謝の念に堪えません。そして家族のみんなにも感謝の思いを伝えたいと思います。特に幼い四人の子供達を抱え、孤軍奮闘の連続だった妻洋子には決して頭が上がりません。皆様に心から「ありがとう」と言いたいと思います。
振り返って見れば、波瀾に満ちた二十五年でした。初当選直後から「政治改革」の嵐が吹き荒れ、議論の末、宮澤内閣不信任案が可決され、自民党は下野しました。そして小選挙区制度が導入をされました。今思い直してみると、結局残ったのは党内の隙間風と、小選挙区制、政治資金の規制強化でした。今の政治状況を見ると、果たしてこれで良かったのか、何やら割り切れぬものを感じます。そして政権復帰に向けて自・社・さ連立政権が発足しました。首班指名選挙では、旧社会党の党首の名前をどうしても書く事が出来ませんでした。尊敬する後藤田正晴先生の的確なアドバイスにも従わず、今となってみれば赤面の思いです。又、所謂「小泉旋風」の中「郵政民営化騒動」もありました。私としては地方に於ける郵便局ネットワークの果たす役割を考えた時、賛成する気にはなれずに「造反」をし、党を離れざるを得なくなりました。その間も、関係議員をはじめ多くの皆様に御指導、お力添えまたお助けを頂きました。本当に有難うございました。その郵政民営化も先般法改正があり、当時私達が懸念していた多くの問題が解消されました。この十年間を考えた時、少し淋しい思いも致します。しかし、多くの友人、同志に助けられながら充実した二十五年でもありました。これまで私は地方の活性化を常に意識しながら様々な課題に取り組んで参りました。そして今、政府与党一丸となって地方創生に向かって歩みを始めつつあります。これまでの全てに感謝をしながら、今後も元気な地方を目指しつつ歩んで参りたいと思います。皆様本当に有難うございました。
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山本 有二君の挨拶
この度は、衆議院議員、勤続二十五年表彰の栄誉に預かりましたこと、厚く御礼申し上げます。
思えば、平成二年二月十八日三十七歳、私は、運に恵まれ偶然にも衆議院議員に初当選を果たすことができました。弁護士のわずかな体験と、県議会の二年間の経験しかありませんでした。しかし、心は国家の改革や、地域高知県の発展を目指し、はやっていました。
幸い政府では、自治政務次官、法務総括政務次官、財務副大臣、金融担当大臣。
自民党では、建設部会長、経理局長、財務委員長、副幹事長、国会対策副委員長。
衆議院においては、法務委員長、経済産業委員長、懲罰委員長、予算委員長を経験させて頂きました。
いずれも、私にとって身に余る身分地位でありました。
こうした仕事の数々も、高知県の選挙区の方々のいつも変わらない厚い御支持、友人や家族の理解や、育み。本当に周りの素晴らしい人々に恵まれたことが、何よりのおかげでありました。改めて、厚く感謝御礼申し上げる次第であります。
本来、引っ込み思案な子供であった私を、活発な人間にしてくれた土佐中学高校の時代、更に、生きる意味や、将来に夢と希望、野心を養ってくれた早稲田大学、その雄弁会。仕事をする社会の一員であることの重要さを痛感した高知弁護士会。地方自治の本旨を教わった高知県議会。
いずれを振り返っても、運の良さ、人に恵まれ助けていただいた恩に感謝をせざるを得ない気持ちであります。
特に、両親や親類、家族はもちろんでありますが、竹内和夫という、二十歳の学生時代に出会った郷土の先輩、後に家内となる女性の父親には、言い尽くせない恩義や導きの数々を頂きました。
二十五年は区切りかもしれません。決して、頂上ではないと思います。もし、ここで総括をするとすれば、「運と人に恵まれた」人生であったであります。
今後、もし更にこの私に、政治家として、選挙区の皆さんが、活躍の場をお与えくださるならば、これまでの知識経験など、能力の限りを尽くし、全力で取り組み、持てる実力以上の結果を出して参りたいと誓う者であります。
御支持いただけた皆様へ、感謝の誠を心から捧げ、ご挨拶に代えさせていただきます。
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古屋 圭司君の挨拶
平成二年二月に初当選させていただいてから、九回の選挙を勝ち抜かせていただき、このたび在職二十五年の表彰を賜りこの上ない名誉であります。
初当選の際の選挙は中選挙区制でした。私の選挙区は四人区でトップと次点の差はたったの一万票ほどでした。三位でこの激戦を勝ち抜いた記憶はつい先日のように鮮明に記憶に残っています。初当選後、本会議席はいわゆる一丁目一番地と呼ばれる最前列の議長の真下でした。後ろを振り返ると最後列に中曽根康弘先生や竹下登先生、安倍晋太郎先生など重鎮の先生方が新議員の品定めをすべく腕組みをしながら我々初当選議員を見つめていました。隣席の同僚議員に、「あそこまでたどり着くのは遠い道のりだなあ。」と語り合ったものです。
九回連続当選ではあったものの、無所属での戦いを強いられた郵政選挙や、野党に転落した平成二十一年選挙では比例復活当選となるなど、決して順風満帆ではなかったのも現実です。
しかし、平成二十四年総選挙で再び自民党が政権に復帰し、首相と全閣僚が同じ人事の内閣としては戦後最長の六百十七日を記録した第二次安倍内閣のもとで、私は国家公安委員長、初代国土強靱化担当、拉致問題担当、防災担当大臣を拝命し、充実した仕事に取り組ませていただきました。
初代国土強靱化担当大臣として、国の最上位計画となる「国土強靱化基本計画」を閣議決定することができ、地方創生と両輪でその取り組みがスタートしたことは私にとっても嬉しい限りです。国家公安委員長としては、「真に交通事故防止、取り締まられた側が納得する取り締まりや規制の見直し」や昨年の流行語大賞を受賞した「危険ドラッグ」対策など政治主導での取り組みを推進。拉致問題は解決には至っていませんが、これからが胸突き八丁ではあるものの、北朝鮮との協議のドアをこじ開けることができました。防災担当大臣としても常に危機管理を念頭に「空振りを恐れずに早目の避難勧告」徹底や災害対策基本法の大改正などに取り組みました。今後もこれまでの経験を国家と地域のために尽くしていくことが私の責務です。
私は初当選以来一貫して、「真の保守主義」を政治理念の柱としてきました。
このブレない政治姿勢こそが政治家古屋圭司の強みであると改めて今実感しています。ここまでお育ていただいた地元の皆さんに心から感謝申し上げるとともに、苦楽を共にしてきた家族に心から感謝の念を表して御礼のご挨拶とします。
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佐田玄一郎君の挨拶
この度の在職二十五年の表彰を賜りまして大変光栄に感じております。
思えば平成二年初当選の栄誉を得ることができ、以来お陰様で連続九期当選し、選挙区である、ふるさと群馬県のことを思い続け、全力で頑張って参りました。長きにわたり、支え続けて下さった地元群馬の支持者の皆様方のお陰であり、また全国で応援して下さった皆様、事務所の秘書(秘書OB)の皆さん、そして家族、親戚全ての応援して下さった方々に深く、深く感謝申し上げます。
初めて衆議院選挙へ出馬する時は、畑ちがいの土木技術者という経験が、本当に群馬、選挙区の疑問や期待に応えていけるのか、真の問題意識をもってやっていけるのかという不安と共に、一方では自分がやらなくてはという自負と頑張り抜くぞという思いが混在しておりました。
東京から百キロメートル圏内のふるさと前橋市をもっと県都にふさわしい群馬の中心に、山紫水明の地、利根沼田を歴史文化と自然の調和のとれた、住みやすい活気あふれる地に、そのためには県民の意見に素直に耳を傾け、その考えを国にしっかりつないで行こうという信念がありました。この気持ちは今も変わっておりません。
幸いにも厳しい選挙を勝ち抜くことができ、大きな病気にもならずやってこられたのも、繰り返しになりますがお支え戴いてきた皆様方のお陰であります。
平成七年大蔵政務次官を皮切りに、文部政務次官、総務副大臣、総務委員長、議院運営委員長、平成十八年内閣府行政改革担当大臣として初入閣いたしました。
党においては筆頭副幹事長として当時の武部幹事長をお支えした記憶もあります。
中越地震の時は、すぐにヘリコプターに乗り、ふるさと前橋、みなかみの上空を通り新潟に駆け付けた事を思い出します。
政治は行動であり、困っている人がいればすぐにも行動し、誠意をもって出来る限りの事をやる、そんな思いがあります。
国の立法府に身を置き、これから最も大切なことは、国民のため、特に困っている方々に視線を向け、法律、制度作りも続けていかなくてはならないということです。私が中心となって策定した石綿健康被害救済法も、今年で適用となった方々が全国で一万人を超えたとの事であります。安心して療養できるよう心より願うところであります。
また東日本大震災に接しまして、地方をもっと強化しなくてはいけないという思いを強くしております。
地方自治体、国の出先機関がもっと連携を強化し、出先機関は国の方向をみるのではなく、もっと国、県、基礎自治体が強く広域的に連携協力し、災害を防ぎ、真の地方の活性化を実現していく。そして国の財源や権限も地方に移管して地方分権を進めていくことが大事です。
今は様々な事が心の中を駆け巡っています。これからも、ふるさとの方々にお支え戴いてきた思いを忘れずに、もっとご恩返しが出来るよう改めて初心に立ち戻って、今後も全力で頑張ってまいります。
この度は誠にありがとうございました。
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石原 伸晃君の挨拶
この度、永年勤続議員として、院議をもって表彰を戴き、誠に身に余る光栄であり、感激にたえません。この光栄は、私をお育ていただいた地元東京杉並の後援者の皆様をはじめ、先輩・同僚の御厚情とご指導、そして労苦をともにした妻里紗、事務所のスタッフのおかげであり、ここに心から感謝致します。
さて、私が初当選したのは平成二年二月の雪の降る大変寒い選挙でありました。当時は中選挙区制度下で、定数五名の東京第四区でした。自民党には二名の先輩が公認でおり、私は無所属での出馬となりました。結果は第二位で初当選を果たし、その後追加公認となり、自民党代議士として政治家生活をスタートしました。時代はバブル景気の真っ只中、日本の経済はいったいどこまでいくのだろうと不安も感じる状況でした。
この私の不安はバブルの破裂、即ち銀行、証券会社の破綻という形で表出しました。当時当選二回の私は党の財政部会長として与野党の国会議員の皆様とこの問題の解決にあたりました。金融再生トータルプランを作成し政策新人類という名を戴いたのもこの時であります。
その後、一度は大臣として国政の中枢に入り、思う存分仕事をしたいと考えるようになりましたが、幸いにして数度閣僚に登用されるなど望んだ以上の仕事の機会を戴いてまいりました。その中で、袖振り合うも多生の縁と申しますが、多くの方々と良縁を得たことが今の私の大きな財産となっております。
さて、現在我国は少子高齢化、人口減少社会、東日本大震災からの復興、福島原子力災害からの回復と厳しい試練にさらされております。今後私達が為さねばならない改革には、たよるべき先人の教えもなく、大きな困難が予想されますが、逃げて通る訳にはまいりません。日本の技術力、日本人のきめ細やかさ、そして歴史・文化・伝統を源泉として新たなる勇気をもって立ち向かってまいる所存です。
何卒地元の皆様を始め、先輩・同僚各位の一層の御教導をお願い申し上げ、私の感謝御礼の言葉と致します。
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中谷 元君の挨拶
二十五年間、衆議院議員として、国政に参画できましたのも、ひとえに選挙区である高知県の有権者をはじめ全国からご支持を頂いた皆様、同僚の国会議員、衆議院事務局・政府関係機関等多くの皆様のご支援の賜物であり、心から感謝と御礼申し上げます。
私が当選した平成二年二月十八日の日経平均株価は、三万七千五百二十三円でありました。当時の日本人の多くは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「日本は、まだまだいける!」と、世界経済への進出と土地神話、右肩上がりの日本経済を信じていました。しかし、その後、バブル経済が崩壊し、現在でも、その後遺症である長期のデフレ経済に苦しんでいますが、累次の経済対策や社会保障費の増大によって、財政が悪化し、現在、財政再建を目指しています。また、経済の自由化・規制緩和が進み、若者の雇用形態も変化し、国民所得や地方との格差是正も懸案となっています。国会では、多様な両極の国民の意見を反映して、私なりに議会活動を通じて、積極的に関与してきました。
また、二十五年前に中国の天安門事件、ベルリンの壁の崩壊が起こり、戦後の東西冷戦の終焉をもたらしましたが、その直後にイラクのクウェート進攻やイラクでの湾岸戦争や米国での同時多発テロやISISの日本人殺害テロなどで、国際社会は、新たな脅威への対応に迫られました。また、中国の急速な軍拡や北朝鮮の核ミサイル開発などの東アジア情勢も大きく変化し、「国の防衛や国際安全保障」について、国会で、ある時は政府の考えを説明しながら、安全保障における国策をまとめる役割も果たしてきました。
私の二十五年間の議員活動の根本は、常に「万機公論に決すべし」という、高知で生まれた「談論風発」の精神を持って臨んできましたが、「とことん議論を尽くせば、お互いの立場が理解しあう答えが生まれる」「とにかく話し合いを続けること。そうすれば、必ず対立は回避できる。」との議会制民主主義による国会の機能は、正に、議論によって、民意を融合させる化学反応を起こす場であると痛感しています。
「上下議政局、議員ヲ置キ、万機公議ニ決スベキ事。」「自由は土佐の山間より出ず。」明治維新で、愛国公党を結成し、民撰議院の設立を目指して、言論第一と考える自由民権運動を始めたのは、板垣退助をはじめとする土佐の先人達であります。私は、脈々と流れている憲政の祖である高知県から選出された代議士として、この使命を果たすべく、大いに国論を談じ、審議し、採決して、国会が国権の最高機関としての機能を果たすことに努めてきましたが、これからも、次世代の日本がより良いものとなるように、この国会で、その重要な職責を果たしていきたいと思っています。
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国務大臣の演説に対する質疑