前田武志の発言 (本会議)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○前田武志君 ただいま、院議をもって在職二十五周年の表彰を賜りました。誠に光栄であり、心より御礼申し上げます。
また、溝手顕正先生より丁重なる御祝辞をいただき、誠にありがとうございました。皆様に厚く感謝申し上げます。
昭和六十一年七月の衆議院選挙において、奈良全県区から初当選をさせていただきました。米ソ冷戦終結等、内外激動の時代となりました。政治改革が大きな課題となり、そのうねりに身を投じました。
平成五年六月、政治の師匠であった田村元先生のいさめを振り切って羽田孜先生と共に行動をいたしました。平成十二年の小選挙区選挙に落選、その後、参議院選挙、知事選挙に連続して敗退いたしました。それにもかかわらず、平成十六年の参議院選挙全国比例区で国政に復活させていただきました。支援者の皆様に生かされているとの思いでいっぱいでございます。
平成二十二年秋、予算委員長に就任。田村元先生から電話があり、公平いちずにやりなさい、わしは今でも前田武志の後援会長じゃよとおっしゃって、大層喜んでいただきました。家出息子がやっと顔向けできた感じでありました。
与野党逆転、ねじれの委員会でしたが、東日本大震災発生時の平成二十三年予算委員会においては、国家の危機に対処するため、与野党理事の協力の下、財務大臣のみの出席など柔軟な委員会運営をしてくださいました。そして、二十六回に及ぶ委員会を開催し、国難に対する予算委員会の責任を果たしていただきました。
平成二十三年九月、国土交通大臣拝命直後、母村十津川村を含む紀伊半島を台風十二号が直撃いたしました。千五百ミリを超える豪雨により、各所に深層崩壊や土石流が発生し、奈良、和歌山、三重、三県の被害は誠に甚大なものがありました。直ちに先頭に立って救援、復旧に当たりましたが、何か運命的なものを感じました。
八ツ場ダム再開の判断は誠に厳しいものがありました。東日本大震災から教訓を学ぶため、事務次官の下にタスクフォースをつくり、畑村洋太郎先生を始め各分野の賢人から意見を聴取してもらいました。これらの結果も参考に、最終的に決断いたしました。ダムサイトの地元の方々は、三世代にわたって、生活を、人生を、町づくりを翻弄させられてきたのです。政府を代表して真っ先に地元におわびに出向いたところ、逆に励ましを受けまして、誠に申し訳ない気持ちやら、うれしい気持ちやら、感激をいたしました。
私は昭和十二年生まれ、私たちの世代は、男親は戦争に取られ、一家は空襲にさらされ、戦中戦後をひもじい思いで過ごしました。七十年前の三月十四日、私は、奈良、大阪の境にそびえる金剛山の稜線が、一晩中赤々と真っ赤に燃えているのを恐ろしい気持ちで眺めていたのを思い出します。多大な犠牲者を出した大阪大空襲でした。
苦労を掛けてきた最愛の妻は、昭和二十年八月十一日の神戸空襲で焼夷弾を受け、身内に犠牲者が出る中、奇跡的に助かり、今日この晴れの場に立たせていただいております。
昭和五十年四月三十日、ベトナム戦争が終結しました。当時、私は難民・人道援助担当の書記官としてサイゴンの日本大使館に勤務しておりました。
市内が戦場になる危険が迫る中、二千人の日本人が在留しておりました。日本政府に在外邦人の避難、脱出のプログラムはなく、外国の民間機による早めの避難を呼びかけて回る以外にすべはありませんでした。妻は四人の子供を連れて直前に帰国、私も最後の民間機で香港まで脱出いたしました。
国家という装置が崩壊していくさまを目撃いたしました。歴史に裏付けられた民族の強靱な一体感が国を永続させるということを学びました。歴史の転換点に居合わせたことが政治を志す原点となりました。
支援者の皆様、そして家族の理解に支えられて、自分の思いを通させていただいてまいりました。余りの有り難さに感謝の言葉もありません。
良識の府、参議院の一員であることを誇りに、微力を尽くして使命を果たしてまいります。
誠にありがとうございました。(拍手)
─────・─────