二階俊博の発言 (本会議)
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○二階俊博君 ただいま大島議長から御報告のありました、本院議員鳩山邦夫先生は、去る六月二十一日、御逝去されました。まだ六十七歳の若さでありました。
先生の急逝の報に接しましたときには、誰もが同じ思いでありましょうが、驚きの余りにただ絶句するばかりでありました。亡くなられる一時間ほど前までは御家族の方々と普通にお話をされておられたと伺っております。突然の出来事にお身内の皆様や関係者の深い悲しみはいかばかりであったかと今なお察するに余りあり、お慰めする言葉もありません。
私は、ここに、ありし日の鳩山先生の面影をしのび、議員各位の御同意を得て、謹んで哀悼の言葉を申し述べさせていただきます。
鳩山先生は、昭和二十三年九月十三日、文京区音羽の地において、大蔵事務次官、参議院議員、外務大臣を務められた父威一郎先生と母安子様の次男としてお生まれになりました。祖父は鳩山一郎元総理大臣、兄由紀夫氏も元総理であり、鳩山家は、政界では名門中の名門であることは今さら申し上げるまでもありません。
さかのぼれば、衆議院議長を務められた曽祖父和夫氏は、今でいえば東京大学法学部に当たる法科大学の教頭や、早稲田大学の前身、東京専門学校の校長も務められ、曽祖母春子様は現在の共立女子学園の創設者であり、祖母薫様はその理事長という、類いまれな教育者の御一家でもあります。
こうした家庭環境に育った鳩山先生は、祖父の鳩山一郎総理大臣が、保守合同による自由民主党の創設と、日ソ国交回復という日本の政治史の大きな転換点にまさに身命を賭して深くかかわられたお姿を見て、小学二年生にして早くも、将来は政治家になることを夢見ていたとのことであります。
長じて、昭和四十六年三月、先生は東京大学法学部を優秀な成績で御卒業された後、やがて内閣総理大臣となられる田中角栄先生の門をたたき、いよいよ政治家を目指す活動を開始されました。
当時、田中先生は口癖のように、戸別訪問は三万軒、つじ説法は五万回と語っておられましたが、その先生の真意は、各地域の実情をしっかりと把握しろとのことであったと述懐されております。
田中先生のもとで政治とは何かを学ばれた鳩山先生は、父威一郎先生の秘書を経て、昭和五十一年十二月の総選挙に無所属で勇躍立候補されました。選挙運動では、田中先生の言葉のとおり、足のまめが潰れ、白い運動靴が血で真っ赤に染まるまで、歩いて歩いて支持を訴え続けられました。そのかいあって、祖父が築かれた盤石な地盤に頼ることなく、二十八歳の若さで見事初陣を飾られたのであります。
以来、本院議員に当選すること十三回、在職三十七年九カ月の長きに及び、御承知のとおり、平成十五年十月には、永年在職議員として院議をもって表彰を受けられました。
この間、国政に残された御功績は枚挙にいとまがありません。その一端を御紹介いたしたいと存じます。
まず、本院においては、議員生活の第一歩を無党派クラブという小会派から出発され、法務委員会に所属されました。今でも、明快な先生のその当時の論旨と、颯爽と質問されておられる御様子は、先輩議員の語りぐさであります。当選一回の議員ながら既に論客の風格を感じさせるものがあったと言われております。
以後、法務、文教、予算などの各常任委員会や、倫理選挙特別委員会などの重要委員会で、若き理事として各党との折衝に当たられたほか、文教委員長、議院運営委員長、武力攻撃事態への対処に関する特別委員長、地方創生に関する特別委員長などの要職を歴任されました。与野党が対立する難しい法案の取り扱いなどに当たっては、持ち前の円満な人柄により、公平かつ円滑な委員会運営に尽力されました。
内閣においては、平成三年、宮沢内閣の文部大臣として最年少閣僚で初入閣を果たされました。教育者の家系でもある鳩山家の一員として、祖父一郎先生も御経験された文部大臣に若くして御就任のお喜びは、格別なものがあったであろうと想像されます。その後、平成六年には羽田内閣の労働大臣、自民党に復党されてからは、第一次安倍内閣、福田内閣の法務大臣、麻生内閣の総務大臣として、四度にわたり国務大臣の重責を担われました。
自由民主党においては、文教部会長、選挙制度調査会長、司法制度調査会長、政治倫理審査会長などを歴任され、卓越した手腕を遺憾なく発揮され、党の中枢にあって、政策づくりの根幹を担われたのであります。さらに、昨年の十一月からは、地方創生実行統合本部長に就任され、安倍政権の最重要課題である地方創生を党のサイドから推進されている最中に病魔に倒れられたのであります。
さまざまなお立場で重任に当たられた鳩山先生ですが、その政治に対する基本姿勢は明確であり、終生、揺らぐことはなかったのであります。
常に国民の目線に立ち、おかしいと思うことは、それを正すべくはっきりと物を言い続けることによって、国民にわかりやすく問題提起をして議論を促すという政治スタイルであります。初めて立候補された当時のみずからの著書で、選挙を通じてわかりにくい政治をわかりやすい政治にすると訴えられ、政治家の役割は世の中を幸せにするお手伝いをすることだと述べておられます。この初心をその後も徹底的に貫き、行動されてきたと言えましょう。
一例を挙げますと、鳩山先生は、同和対策、人権擁護に対しても大変熱心でありました。さきの国会に議員立法で提出し、継続審議中となっている部落差別の解消の推進に関する法律案について、いまだ苦しんでおられる多くの方々のために何としてもこの法律を成立させなければならないと強く訴えておられました。我々は、一日も早くこの法案を成立させ、亡き鳩山先生に御報告しなければなりません。
鳩山先生の長い政治生活は、この議場において永年表彰を受けられた際に御本人がいみじくも語っておられるとおり、政治改革に邁進し、政界再編のための新党の実験の真っただ中に身を置かれたもので、その存在は常に政界の中心にあったと言われております。
そんな先生が、一度だけ国政の場を離れられたことがありました。すなわち、平成十一年四月の都知事選への挑戦でありました。立候補に際し、熟考され、まとめられたのが、その後まさに先生の終生のライフワークとなる、これも、最も大切なもの、先生の政治課題として、自然との共生でありました。
残念ながら、この選挙は一敗地にまみれる結果となりました。その後、平成十二年六月の総選挙で、自由民主党の国会議員として返り咲かれたのであります。
当選後、先生は、仲間を募り、超党派の自然との共生を考える国会議員の会を立ち上げられ、メンバーの皆さんとの間でいつも熱心に議論を交わしておられたようであります。
先生の自然との共生の理念は、生態系の破壊が、結局は地球環境の破壊、ひいては人類の破滅につながるものとして、文明論にまで及ぶ高邁な思想でありました。その志が道半ばでついえてしまった今、先生の無念さはいかばかりかと拝察するものであります。
鳩山先生のもう一つ大きな御功績は、多くの方々が語っておられるように、政界を中心として多くの人材をお育てになられたということであります。自他ともに認める腕前の手料理を後輩たちに振る舞い、政治家とはどうあるべきかについて深い愛情を持って語られ、今や、先生の御薫陶を受けた数多くの多彩な顔ぶれの政治家が、国政や地方議会の場で御活躍されております。これこそが、先生の政治に対する最大の貢献であると言っても過言ではありません。
こうしたことが可能であったのは、とりもなおさず、鳩山先生が多くの人々から慕われ、包容力のある魅力的な政治家であったからであろうと存じます。堂々とした体躯で、明るく大きな声で気さくに話しかける先生の笑顔に、再び私たちは接することができないと思うと、惜別の思いと寂しさを抑え切れないものがあります。
政治家としての鳩山先生は、多才に過ぎたと評する向きもありますが、しかし、その極めてすぐれた知性、才能をもってすれば、何でもできたに違いありません。
事実、御自分でも、もう一度人生をやり直せるならば、やりたいことは、政治家のほか、食文化の殿堂づくり、また、農業、そして大好きなチョウの研究家という趣旨の文章をつづられ、多彩な生き方を夢見ておられたとのことであります。
四十三年間苦楽をともにされた、先生を身近でお支えしておられた奥様は、お別れの会で、いつまでも少年のような純粋な心を持った人でしたとおっしゃっておられました。
先生が標榜された自然との共生は、子供のころの御自宅や軽井沢の豊かな自然の中でチョウを追った原体験に基づいた、自然を愛する心から発しているものであります。しかし、そればかりではなく、我々が及びもつかないほど遠い未来を見据えて、理想とする世界の実現という見果てぬ夢を追い続けておられたのかもしれません。
私たちは、人類の未来にさえも警鐘を鳴らし続けておられた鳩山先生を失いましたことは、本院はもとより、国家にとっても大きな損失であります。まことに痛恨のきわみであります。しかし、その思いと理念は、私たち後進の政治家の心の中にいつまでも生き続け、あたかも丹精込めてつくられたあなたの精緻なチョウの標本のごとく、永久に輝きを放ち続けるものと確信しております。
ここに、改めて鳩山邦夫先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。
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