柳田稔の発言 (本会議)
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○柳田稔君 ただいま、院議をもちまして在職二十五年の永年在職議員として表彰を賜りました。誠に光栄であり、心から御礼を申し上げます。
また、橋本聖子先生より丁重なる御祝辞をいただき、誠にありがとうございました。
平成二年二月十八日に衆議院議員として初当選をいたしました。前年には、昭和天皇が崩御され、元号が昭和から平成に変わり、四月には消費税が施行されました。また、十一月には日本労働組合総連合会が発足しました。海外においては、ベルリンの壁が崩壊し、東西の雪解けが始まりました。平成三年にはソ連の実質的な解体という大きな出来事がありました。このように、国内外において時代の大きな変化が訪れていました。
初当選は、民社党でした。当時、多くの先輩議員に大変なお世話になりました。先生の中には鬼籍に入られた方もいらっしゃいます。そして、多くの支援者に支えられて今日まで参りました。心から御礼を申し上げます。
振り返りますと、いろいろなことがありました。その一つがPKO協力法、国連平和維持活動協力法です。平成二年八月に発生した湾岸危機を契機に、日本の国際貢献の在り方が議論の的になりました。
PKO協力法案は、国際連合平和協力法案の提出、廃案を踏まえて提出され、修正など紆余曲折があり、約二年の歳月、第百十九回国会から第百二十三回国会の五国会を経て成立をしました。
私は、民社党の一員として本法案に積極的に関与し、衆議院の調査団として国連、ドイツ、スウェーデン、カナダを訪問し、いろんな議論をしたことを思い出します。賛否の違いはあれ、各党が信念を持って激論し、そして引くべきときは引き、冷静になって出直し、国民の理解を得ようとした努力を私は心から敬意を表します。
その努力があったからこそ、自衛隊のPKO活動は現在国民に評価されていると思います。
次に強く記憶に残っていることは、平成六年に成立した小選挙区比例代表並立制と政党交付金の導入を柱とする政治改革四法案であります。リクルート事件、東京佐川急便事件等を通じて、政治と金の問題が大きくなりました。
当時の中選挙区制では、大政党にとって、政策上の差異のない同じ政党の候補者同士が最大のライバルとなり、地元への利益誘導により選挙を勝利するものでありました。また、同じ政党でありながら選挙公約が異なる候補者もいました。その打開策として小選挙区制が議論されました。
しかし、中選挙区制で当選した議員が自分自身にとって不利になるような選挙制度の改革に賛成するのだろうか、小政党にとって不利な小選挙区に賛成するのだろうか等の不安がありました。
平成三年に政治改革関連法案が初めて提出され、廃案、否決、修正を経て平成六年に成立しました。この間、与野党を超えて、若手当選一回生、二回生が集まり、昼夜を問わず真剣に議論したことを思い出します。若手の熱意が政治を動かしたと私は今でも思っております。また、細川連立政権ができたことも大きな要因だと思います。
平成五年の十一月に、与野党の造反や退席がありながらも衆議院で可決されましたが、年が明けての一月に与野党の造反、欠席が出て参議院で否決されました。その結果、両院協議会が設置され、私もそのメンバーに選出されました。雪の降る一月二十九日未明に修正合意しました。感慨深いものがあります。
このように、国の大きな方針を変えるときや民主主義の基本である選挙制度を変えるときなどには、与野党が真剣に徹底的な議論をすることで国民の理解を得て前進できるものと私は信じています。
十五年前の九・一一も忘れることができません。いろんなことがありました。走馬灯のように頭の中をよぎります。長い二十五年の間だったような気もしますが、あっという間に過ぎたような気もします。
最後に、今、広島は、二十五年ぶりの広島東洋カープのセ・リーグ優勝で盛り上がっています。選手とファンの長い間の夢が実現しました。
私は、政権交代が民主主義の大きな要素であると考えています。更に発展した民主主義をつくり上げていくためにも、私も頑張っていく所存であります。
本日は誠にありがとうございました。(拍手)
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