安藤裕の発言 (文部科学委員会)
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○安藤委員 ありがとうございます。
そういう答えが返ってくると思ったんですけれども、英語による授業というものを拡張していくことによって、では、日本の科学技術の水準あるいはさまざまな研究の水準が上がるのかということについて、少し私は疑問を呈しておきたいと思っています。
寺島隆吉さんという英語教育研究者、元岐阜大学の教授の方が言っておられる話です。
東京帝国大学の授業が英語で行われていたのは明治時代の話だ。高額で外国人を雇い、学生も全国から選ばれたエリートだけ。教科書もなく原書で学ぶほかなかった。しかし、夏目漱石が英国留学から帰国し、経済や工学のみならず文学までも日本人が教授できるようになって、ついに、英語で授業は終わった。明治の先人たちは、翻訳を通じて存在、自然、権利、自由などといった学問、思想の基本用語を苦労してつくり出し、そのおかげで、今や最高レベルの学問成果まで母国語で学べる。このような国は欧米圏以外ではほとんどない。母国語で深く思考できることが日本の優位性であり、だからこそ日本から次々とノーベル賞の受賞者が誕生しているのだ。
東京帝国大学の教壇に立った漱石は、英語で授業について次のように言っている。独立した国家という点から考えると、かかる教育は一種の屈辱で、あたかも英国の属国インドといったような感じが起こる。日本のナショナリティーは誰が見ても大切である。英語の知識ぐらいと交換のできるはずのものではない。したがって、国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は自然勢いを失うべきが至当で、また事実として、ようやくその地歩を奪われたのであるというふうな指摘がされているわけです。
そして、松野大臣は早稲田大学の出身だと思いますけれども、早稲田大学の創立のときの東京専門学校の開校の辞を述べた小野梓という方がいますけれども、この方が言った学の独立というのが、早稲田の校歌になっているわけですよね。
この方はどう言っているかというと、余は本校に向かって望む、十数年の後にようやくこの専門の学校を改良前進し、邦語をもって、要するに日本語をもって我が子弟を教授する大学の位置に進め、我が国学問の独立を助くるあらんことを。要するに、日本語で学問ができること、これが学の独立につながるということを言っているわけです。
したがって、私、申し上げたいのは、英語で授業をするということは、今までの日本の歴史、学術的な、学問的な地位を世界的に高めたものに対して逆行しているのではないかということを思いますし、留学生を引きつけるために英語の授業をふやすというのはむしろ本末転倒で、日本で世界最高水準の勉強ができるから日本で勉強したいという留学生が来てくれるんだったらいいんですけれども、日本でもアメリカと同じような授業が受けられるから来るんだというのだったら、それは一流の優秀な学生は当然アメリカを目指すわけで、アメリカに行けなかった二番手、三番手の人たちが日本に来るという現象を起こすと思うんですね。
そういった立場を日本が目指していいのかということに対しては、私は甚だ疑問を感じるわけでありますけれども、ぜひ、大臣の御感想をお伺いしたいと思います。