吉川沙織の発言 (本会議)
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○吉川沙織君 民進党の吉川沙織です。
私は、ただいま議題となりました山本順三議院運営委員長解任決議案に対し、会派を代表して、提案の理由を御説明申し上げます。
今回もまた、昨年の十二月十四日に引き続き、多数の専制により、本決議案の議事における趣旨説明は十五分、討論その他の発言時間は一人十分に制限することの動議が与党から提出されたことに遺憾の意を強く表明いたします。
良識の府たる本院で、各議員に認められた最も基本的な権能の一つである発言権を制限することは、多数の専制による少数派の意見の抑圧にほかなりません。しかも、この議事に入ってから自民党議員の多くがこの議場を退席しております。本会議の定足数を満たす責任は最大会派にある、それは基本だと思います。
今日は九時三十分から議院運営委員会の理事会が予定どおり開会をされ、九時四十分から議院運営委員会がこれまた予定どおり開会をされ、本日の本会議は十時にベルが鳴り、十時一分に議長がギャベルをたたき、開議となりました。
今朝九時三十分の議運理事会並びに九時四十分の議院運営委員会で与野党各会派、院内交渉会派で合意した議事日程は、議了案件の採決並びに昨日提出をいたしました内閣府特命担当大臣並びに法務大臣に対する問責決議案の処理のみでございます。そこまでが合意した議事日程でございました。
しかも、今朝九時三十分からの議院運営委員会の理事会で、与党の筆頭理事から、次の理事会は本会議散会後に再開をしたい、このようなお申出がありましたので、私どもとしても、会期末でございます、毎日本会議を立てなければならない事情もございましょう、ですので、本散後、理事会の再開ということで合意をいたしましたところ、休憩時間中に、十三時の本会議の開会はちょっと見送ってくれないか。しかも、先ほど議事日程になりました「法務委員会において審査中の組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案について、速やかに法務委員長の中間報告を求めることの動議」をこの際議題とすることの動議が議事日程に追加をされました。
我が良識の府参議院は、今から七十年前に現行憲法下で、五月二十日の第一回国会においてその産声を上げました。良識の府として、国会法や先人が築いてきた規則や先例にのっとって議会運営を、議事運営を行ってきたはずです。その中で、確かに中間報告の規定は国会法第五十六条の三にございます。ただ、その規定につきましては、「特に必要があるときは、中間報告を求めることができる。」、このような規定になっております。
つまり、例外的であるならば、それは皆さんが納得できる理由がなければこれをやってはならない。だからこそ、中間報告の過去例は、直近の例でいえば、この議場にその当時いらっしゃった議員もいらっしゃいますが、平成二十一年七月十日、十三日、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案、これは中間報告となっておりますが、これは政党間の対立というよりも、むしろ委員会で議決を採ることが逆に議員間の対立を深めるからこそ中間報告を求めて、その後は本会議に委ねるという、こういう形式を取ったわけでございますので、これは今出されている中間報告の事例とは異なります。
その前の例でいえば、第百六十六回国会、平成十九年六月三十日、国家公務員法等の一部を改正する法律案、その前は、第百五十九回国会、平成十六年六月十四日、金融機能の強化のための特別措置に関する法律案及び預金保険法の一部を改正する法律案、その前の例は、第百四十五回国会、平成十一年八月十二日、住民基本台帳法の一部を改正する法律案、全て野党の委員長に対して中間報告を求める動議が出され、じくじたる思いで野党の委員長は中間報告の求めに応じて中間報告をさせられたということでございます。
このような形で、委員会中心主義を取っている参議院において、委員会での審議を途中で打ち切り、本会議でその議事を決するようなことは、立法府の我が良識の府参議院としての自殺行為であると言わざるを得ません。
昭和三十八年七月五日、参議院与野党各派の申合せ、このようなことが中間報告において行われております。
参議院の各会派は、議院の正常な運営を図るため、少数意見の尊重と議員の審議権確保に留意するとともに、議院の品位と秩序の保持に互に協力することとし、次のとおり申し合わせる。
一、議案の中間報告は、審査につき委員会中心主義を採用している国会法の趣旨にかんがみ、みだりに行なわないものとすること。
二、中間報告に関連し、本会議の運営が混乱した実情にかんがみ、今回のような中間報告は行なわないよう努力すること。
これは、昭和三十八年七月五日、議会の先人が与野党各派で申し合わせた内容でございます。
だからこそ、平成に入ってから、中間報告の例は、野党に求めた三例並びに臓器移植法案のみとなっております。その前の例は、私が生まれる前の昭和五十年の例が最後です。
良識の府たる参議院で、法律案の審議において、従来から委員会中心主義を貫き、実質的審議を深めてくることができたのは、議会の先人が築いてきた伝統と努力によるものです。そのいずれにも代え難き良き伝統をいとも簡単に踏みにじる今回の理不尽極まりない中間報告の議事の日程の追加を議院運営委員長は容認されてしまったのです。
国会法第五十六条の三に基づいて、今、中間報告を求めることの狙いは、報告後直ちに本会議による審議と採決を強行しようとするものではないでしょうか。従来から委員会中心主義を取ってきた本院として中間報告を行うことは、委員会の審議権を侵害することであり、絶対に容認することはできませんし、今後の議院運営にも大きな禍根を残すこととなるのではないかと、大きな危惧を抱いています。
一匹の妖怪が徘回しています、今、行政独裁という妖怪が。治安維持法が国民を萎縮させた昭和初期の政治体制を昭和の妖怪と言うなら、よりまがまがしい行政独裁という平成の妖怪に国民は苦しめられています。昨年五月十六日、私は立法府の長であると衆議院予算委員会で発言し、慌てて答弁訂正した総理の真意は、独裁的に行政運営するとの意思表示だったのでしょう。立法も司法も行政の下に隷属する国家は、まさに行政独裁国家です。
官邸、内閣に権限を集中し、総理の権限が一層強化される中で、公務員は周囲の空気を読み、そんたくしつつ、自由な主体的意識を持つことなく、自らの良心を行動の制約とせず、より上位の者に抑圧、規定され、その抑圧を下位の者に順次移譲していく抑圧移譲の原理の下で働いています。
総理は形跡をとどめず指示を出し、総理周辺からの各種働きかけにより、各行政主体は総理の意向を推し量り、責任の帰属の明確化を避けつつ、曖昧な行政運営が冥々行われています。ただただ総理へのそんたくによって事態が雪だるま式に重大化してしまい、かといって、総理はもとより誰も結果責任を取らない、丸山真男が言う日本特有の統治構造である無責任の体系がよみがえったのです。この総理の行政独裁を法的に支えるのが、米国デザインの特定秘密保護法、安保関連法、そして米国のシステムを利用し個人情報を大量に収集するためのいわゆる共謀罪法案なのです。
政府権力の腐敗や濫用から国民の自由と権利を保護するため、政府の行動を国民の監視の下に置くという、民主主義制度を根底から覆し、国民を監視する大量監視社会を実現しようとするのが現政権の狙いです。
共謀罪法案は、テロ対策のため、オリンピック・パラリンピックのため、国際組織犯罪防止条約のため、一般人は処罰対象にはならないなどといったうそで固めた理由で国民を欺き、政府への批判的活動を弾圧するため、捜査権限を肥大化させ、一般市民の自由や権利を過剰に制約するものです。国民全体を監視するようなこれまで日本になかった監視文化を醸成し、公安警察が猛威を振るったような暗い時代を再現させようとするのでしょうか。
ただ、実体は、前文部科学次官の発言に対する一部メディアや官邸からの脊髄反射的な人格攻撃からも明らかなように、共謀罪法案は、既に秘密裏に進む個人情報の収集活動を裏の活動から表の活動へと法的に追認するものと言えましょう。
共謀罪法案には国際ペンクラブなどの国際的批判も強く、言論と自由に関する国連特別報告者も、プライバシーや表現の自由を制約する懸念があるとし、同報告書では、政府がメディアに対して直接又は間接的に働きかけている、安全保障を根拠とした情報統制が進んでいることが日本の民主主義基盤を損なわないよう注意する必要があることなどが指摘されています。
国連人権委員会での報告に対する日本政府の批判に対して、世界は納得できないことでしょう。総理自身もメディアを選別し、自分の主張や反論を意図的に示す言論操作をしているのですから。報道、言論、表現の自由度が圧倒的に低いという国際的評価のとおりです。
それでは、なぜ総理はこれほどまでに無謀な共謀罪法案を成立させようとするのでしょうか。それは、総理年来の宿願であり、米国が反対する憲法改正を実現するため、ひたすら米国の意向に沿いつつ、そんたくにそんたくを重ねて、情報統制国家にしようとするのが総理の真意でしょう。
米国は明確な意見を表示しているわけではなく、そこには米国をリーダーとする形を変えた無責任の体系が見て取れるのです。もちろん、そこでは総理と志を一にする人間以外の国民の意思などは一顧だにされていないことは言うまでもありません。
これらの民主主義基盤を切り崩す政策を進めるため、総理は国民の意見が大きく二分される重大な政策変更を、多数決を錦の御旗に、数の暴力である採決の強行を続けており、これはJ・S・ミルが言う多数の専制そのものです。多数の専制においては、多数派は、国民の多数を代表するとの擬制の下で、多数派の主張を実現するためポピュリズムをあおり、国民の利益が短期的に守られるように見せながら、少数派の意見は抑圧され、長期的には国民の真の利益は侵害されるのです。
将来世代への影響が大きく、現在、喫緊の課題である巨額の長期債務残高を抱えながら、国際公約であるその解消策について政府は真摯な姿勢を示さない一方で、テロやオリンピック・パラリンピック、北朝鮮の不安を喧伝しつつ、国民生活に甚大な影響を与える民主主義基盤の侵害を強引に進めています。多数の専制の弊害を避けるためには、徹底した自由な討論と少数意見の保障が不可欠であるにもかかわらず、現政権は、我が立法府をコントロールし、十分な審議の尊重などは眼中にないからこそ、中間報告を求める動議など出してきたのではないでしょうか。
マックス・ウェーバーは、政治家を、自分の理念を語る言葉に自ら酔ってしまう傾向の心情倫理型政治家と、結果に対する責任を心の底から感じることができ、自分の語る理念の行方を冷めた目で見守る覚悟がある成熟した責任倫理型政治家に分けています。政治家はこの心情倫理と責任倫理とのバランスが重要とされますが、現総理は心情倫理が突出し、責任倫理のかけらも感じられません。
老子第六十六章には、民に上たらんと欲すれば、必ず言をもってこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身をもってこれにおくるとあります。統治者は謙虚であれとして、統治者となって人民の上に立ちたいと望むなら、必ず自分の言葉を謙虚にして人にへりくだり、指導者になって人民の先頭に立ちたいと望むなら、必ず自分の振る舞いを抑えて人の後から付いていくような謙虚な態度が必要であるとされています。
これまで、疑惑などが発覚し政治道徳あるいは政治倫理上の説明責任を果たせない場合、政策的破綻よりも政治倫理上の説明責任を重視し、自らに対する国民からの説明不足を指摘する声に配慮し出処進退を決めてきたのがこれまでの政治家でした。
ところが、道徳教育に熱心な総理や官房長官は、国民が求める十分な説明を無視し、ノーコメントや答弁をそらし、証人喚問を否定し、証拠書類を出所不明の怪文書として立証責任を転嫁し、前文部科学次官などのイメージを悪く印象操作するなど、およそ謙虚な統治者像とは真逆の唯我独尊、高圧的な姿勢を貫いています。