谷公一の発言 (本会議)
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○谷公一君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員長島忠美君は、去る八月十八日、新潟県長岡市内の病院で御逝去されました。
十五日未明に緊急入院されてから三日、余りにも突然で思いも寄らぬ訃報に、言いようのないショックと、なぜ、どうして、本当にという思いが錯綜し、にわかには信じることができませんでした。
入院のお見舞いに伺う手はずをしていた中での突如の訃報でした。翌日の夜、山古志の御自宅に伺いました。長島さんは静かに横たわっていました。早いよ、長島さん、これからじゃないか、まだまだ一緒にやりたかったよ、本当に無念だったよねと語りかけました。
奥様の久子様は、皆さんに助けられ、皆さんのおかげで活動することができました、ありがとうございましたと、悲しみをこらえ、気丈に弔問の私たちに気遣い、感謝の言葉を述べられました。
まだ六十六歳、寂しさがしんしんと込み上げてまいります。残念で、無念で、痛恨のきわみです。
ここに私は、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと思います。
長島先生は、昭和二十六年一月九日、新潟県古志郡山古志村にお生まれになりました。日本書紀にも記述があり、悠久の歴史を有する山古志村は、ニシキゴイの発祥地であり、また、千年の伝統があるとも言われる牛の角突きといった地域文化を大切に守り続けてきた土地柄であります。
先生は、先祖代々守り継いできた美しい景観を見せる棚田の周りを駆け回り、情豊かで、きずなの強い、温かな人々に囲まれた少年時代を送られました。
県立長岡高校に進み、さらに、後に理事長になる東洋大学に進まれ、昭和四十八年に同大学を卒業。東京都内に就職後、二十八歳にて、家業の農業、畜産業を継ぐため、生まれ故郷の山古志村に帰郷されました。
長島家は十四代続いた旧家の兼業農家で、先生は、平日は長岡の建設会社に勤め、週末には田んぼや畑で汗を流すという生活を過ごされました。農作業は手間暇がかかり大変だが、お金では買えない豊かさがあり、大地の恵みを感じられると、目を細めてよく話をしていたことを思い出します。
山古志の方々は、先生の村を思う熱い気持ち、高い見識を見過ごしません。力量を買われ、村の教育委員、さらには村議会議員にと推され、平成十二年には、地域の衆望を担い、四十八歳で村長に就任したのであります。
村長になられ数々の意欲的な取り組みをなされていた平成十六年十月二十三日、運命の新潟県中越地震が起きます。瞬間的な揺れの強さは、私が経験した平成七年の阪神・淡路大震災をはるかにしのぎ、震源地に近い山古志村は、村に続く道路や橋が根こそぎ壊れ、村内の斜面に点在している全十四集落が完全に孤立し、壊滅的な状態となりました。ほとんどの住民が取り残され、防災無線も携帯電話も通じない中、先生は、村長として被害状況の把握と緊急の対応に忙殺されたのであります。
余震が続き、予報ではまとまった降雨が見込まれる中、長島村長はついに全村避難という苦渋の決断をされ、被災の翌日には自衛隊に救出輸送を依頼し、何と二十六時間ほどの驚異的な短時間で二千二百人にも及ぶ村民全員を安全に、無事に、見事に避難させたのであります。(拍手)
そうした緊急事態の中で、村を陣頭指揮するさなかにあっても、きめ細かな配慮、復興への道筋を忘れてはいませんでした。
高齢者が避難先でも同じ医療を受けられるよう、診療所のカルテも一緒に移送するなど周到な配慮も怠らず、さらに、人の命が第一義だが、先祖から受け継いだ伝統、文化を守ることも大切だ、これがなくては、住民が地域コミュニティーそのものを失い、意欲をなくし、生活再建もできないと、千年続く牛の角突きの闘牛をヘリコプターで運んだのであります。
非常時のリーダーの姿を、阪神・淡路大震災以降、私は数多く見てまいりましたが、当時の長島村長の果敢な決断のすごさ、危機対応の的確さ、そして、限りない愛に裏打ちされた気配り、心配りのすばらしさに感嘆せざるを得ないのであります。
後に、先生は当時を振り返り、大きな三つの決断をしたと述べられています。第一に、全村避難、第二に、みんなで帰ろう山古志へというメッセージの発信、第三に、二年で帰ろうと帰村の時期を宣言したことです。
「疾風に勁草を知る」と中国の古書にありますが、艱難に耐え、長島村長は、前例のない全村避難を実行し、村民が避難先で希望を失わないための明確な目標を掲げ、村民を鼓舞し続け、嵐の中でも大地にしっかりと根づく強い草のような底知れぬ強さを発揮したのであります。
奥様は、避難先の災害対策本部に泊まり続ける先生の姿をテレビのニュースで見ながら、自分が結婚した人はこんなにも腹が据わった人なのか、こんなにも頼りがいがある人なのかと、大きく、たくましく思い、そして誇りに感じたとのことであります。
全村避難して仮設住宅で暮らしていたころの話です。仮設住宅暮らしも時が過ぎ、恒久住宅に次々と住民が移り行くころ、一人のおばあさんが不安げに長島村長に尋ねたそうです。村長さん、私はいつまでおれますか、もう追い出されるのではと、とても心配で夜も眠れないんです。村長は答えた。おばあちゃん、大丈夫、追い出したりはしませんよ、皆さんの最後に私が仮設住宅を出ますから。
そして、震災から三年二カ月後、約束どおり最後の一人となった先生が村に戻り、全村民が村に帰ることができたのであります。
大災害時のリーダーの姿として、末永く語り継げられる感動的な話であります。(拍手)
時あたかも平成十七年の夏、郵政問題で国会が解散されました。震災から九カ月余り、御礼やお願いのために霞が関や国会や自民党本部などに足しげく通ううち、村民を思っての復興に対するたぎるような情熱と、穏やかな中にもしんの強い人柄が自然と伝わり、政府を動かし、他の被災地域から、何ゆえ山古志ばかりと、うらやむほどの評判が立っていました。
このとき、不屈のリーダー山古志にありと目をとめた時の小泉総理から、国政への出馬要請があったのであります。合併して長岡市の復興管理監になっていた先生が断っても断っても、手をかえ品をかえ、さまざまな形で要請はとどまりません。熟慮の末に、腹を据え、覚悟を決め、同年九月、第四十四回総選挙に立候補し、見事、初当選されたのであります。
かくして、本院に議席を得た先生は、国土交通委員会、災害対策特別委員会などに籍を置き、ライフワークとなった復興、防災、中山間地域対策に取り組まれました。そして、国会運営の裏方としての仕事にも汗をかかれました。初当選から衆議院議員在職約十二年間、ひたすらぶれることなく、愚直に、山古志の闘牛のようにまっしぐらに突き進まれたのであります。
平成二十三年、東日本大震災が発生しました。先生は、自民党対策本部チームの中心メンバーとして発災直後から被災地に入り、復旧復興を支える活動をされました。
そんな先生が、政権交代を機に、平成二十四年十二月、農林水産大臣政務官兼復興大臣政務官に就任され、さらに平成二十六年九月から二年間、私の後任として復興副大臣に就任されました。
この間、ほぼ毎週のように岩手、宮城、福島などの被災地に入り、御自身の目で現場の状況を確かめるという徹底的な現場主義を貫かれました。中越地震の経験から、被災地に対して、みずから考え、みずから復興のシナリオを描くことを求め、また、被災地の将来を見据えた助言をするなど、先生は、誰よりも被災者、被災地に寄り添い、一人一人の話をよく聞き、被災地の課題に一つ一つ丁寧に取り組んでおられました。中でも、大槌、南三陸、飯舘など小さな町村の復旧復興には殊のほか心を寄せておられました。
長島先生は、時に過大過ぎる復興ビジョンに、気持ちはよくわかる、しかし、私の経験から、厳しい現実を踏まえた計画でないと将来に禍根を残すよとじゅんじゅんと、切々と説かれ、納得していただきました。修羅場をくぐり抜けた政治家ならではの迫力と説得力でした。その先生の根底には、被災地や被災者への限りない愛情があったのであります。
大きな体でした。分厚い手でした。静かな語り口でした。酒を飲むとすぐ顔が赤くなりました。素朴で、律儀で、土のにおいのする議員でした。地元に誇りを持つこと、地域コミュニティーの大切さを何度も熱く語る方でした。
震災による瓦れきを、瓦れきは役所のように単に震災廃棄物と考えちゃいけない、写真、手紙、服、建物など、被災者一人一人の大事な思い出が詰まった宝物なのだと訴える心優しい方でした。
農業の大切さを訴える方は世に多い。しかし、大地の恵みに感謝、国土を守る農業を大切にと選挙公約に記す国会議員をほかに私は知りません。大地と自然と人への感謝の心を忘れない政治家でした。
母ちゃん、母ちゃんと呼びながら、奥様を大切にされ、御家族を何よりも愛した方でした。
もはやこの議場に先生の姿を見ることはできません。先生の携帯に電話をしても、あの穏やかな声をもう聞くことはできません。
長島先生と一緒に仕事できたことは幸せでした。熱い感謝の気持ちでいっぱいです。ともに汗をかかせていただいたことは私の政治家人生の何よりの誇りです。本当の優しさとは何か、被災地に寄り添うとはどういうことか、大切な中山間地域を守り育てるとはどういうことか、長島先生から数多くのことを学ばされました。
それでも私は言いたい。早いよ、早過ぎるよ、あなたが仮設住宅を最後に退去したのと逆ではないですか、一人先に逝ってはだめだよと。
力強い同志の一人がいなくなった寂しさは、冬の越後の寒さのように身にしみます。親を亡くしたのと同じ喪失感を私は感じます。
蛍舞う山へ緩(ゆる)りと牡牛(こってうし)
長島先生を失ったことは、ひとり本院のみならず、被災地、被災地支援に心を寄せる人々、全国のボランティアの人々、中山間地域を支えるために汗をかいている人々にとって、また、我が国にとりましてもまことに大きな痛手であります。
復興と防災と中山間地域に一身をささげてこられた長島先生には遠く及びませんが、少しでも先生の志を、思いを、心配りをつないでいけるよう、後を継がれた泉田先生ともども、残された我々は全力を挙げて取り組んでまいることをお誓い申し上げるものであります。
私は、ここに、長島忠美君の御逝去を悼み、謹んで御冥福をお祈りいたしますとともに、長島先生を今日まで支えてこられました奥様を初め、御家族の皆様の胸中に深く思いをいたし、追悼の言葉といたします。(拍手)
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