佐藤勉の発言 (本会議)

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○佐藤勉君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員望月義夫先生は、昨年十二月十九日、逝去されました。
 昨年の九月ごろにお会いをしたときに、もっちゃん、痩せたのではないですかと心配する私に、ダイエットしているだけだよとお答えになりました。しかし、その後、国会でお見かけをしなくなり、電話したところ、実は入院をしていると打ち明けられました。ただ、心配ない、大丈夫、見舞いは不要だよとおっしゃったので、必ずや元気に復帰されると信じ、同僚議員にも、もっちゃんは大丈夫だと伝えていました。しかし、その願いむなしく、帰らぬ人となられたのであります。
 まだ七十二歳、これまでの経験を生かされ、練達の政治家として、ますますの御活躍が期待されていました。そうしたやさきに、思いも寄らぬ訃報に接し、言い尽くせぬ驚きと深い哀惜の念を禁じ得ません。ましてや、御家族を始め、関係者の皆様の深い悲しみに思いをいたすと、御心中はいかばかりかと察するに余りあり、お慰めする言葉もございません。
 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表して、謹んで哀悼の言葉を申し上げたいと存じます。
 望月先生は、昭和二十二年五月二日、良港清水港を有し、風光明媚で温暖な静岡県清水市、現在の静岡市清水区において、父長治様、母やう様の御次男としてお生まれになり、主に野菜を扱う食料品店を営む御両親のもと、周囲からの深い愛情に包まれ、幼少期を過ごされました。
 中学生時代は、生徒会活動に熱心に取り組まれておりますが、あえて会長ではなく、丁寧で説得力のある説明が求められる書記長を進んで務められたというのは、人との対話を大切にされる望月先生らしいエピソードであります。また、小学生の時代から柔道に励まれ、中学三年のときには市の大会で優勝されるといった勇壮な一面もお持ちでありました。高校は地元の名門、県立清水東高等学校に学ばれ、中央大学法学部に進まれたのであります。
 昭和四十六年に卒業された後、努力する人、汗をかく人が報われる社会づくりに人生をかけてみたいと強い信念を持って、政治の道を志し、代議士秘書を経て、昭和五十年五月、弱冠二十七歳で清水市議会議員に当選をされ、四期十六年務められます。その後、静岡県議会議員を二期五年務められ、地元の発展に尽力をされました。
 平成八年十月、我が国初の小選挙区比例代表並立制のもと実施された第四十一回総選挙に、地方議員の経験を生かし、国と地方との結び目になるとの強い決意で、静岡県第四区より無所属で立候補され、見事に当選を果たされ、衆議院議員となられたのであります。
 本院に議席を得られた先生は、以後当選すること八回、国土交通委員会、災害対策特別委員会を中心に、多くの委員会で理事、委員を歴任され、さらには国土交通委員長、災害対策特別委員長と重要な役割を担い、誠実にその職責を果たしてこられました。
 特に、災害対策特別委員長は、亡くなられるまで二年以上にわたって務められ、災害対策の強化に大きく貢献されました。災害が発生すれば、率先して諸課題を把握し、国会開会、閉会時にかかわらず委員会を開会するなど、誠心誠意取り組まれ、こうした真摯な姿勢には、会派を問わず絶大な信頼が寄せられていたのは言うまでもありません。
 さらに、委員長みずからリーダーシップを発揮し、各会派の調整を図り、委員会提出の法律案として、特定災害の義援金の差押えを禁止する法律案などの成立にも尽力をされたほか、多くの被災地に積極的に足を運び、現地の方々の声に丁寧に耳を傾け、昨今の激甚化、多様化する災害に、国としてどう対処していくべきかを真摯に考えておられました。
 昨年十月、改めて委員長に選任をされた直後にも、我が国には被災地に多くのボランティアが駆けつけ助け合うすばらしい国民性があることから、こうした伝統などを生かすため、防災目的で国民が積み立てる基金を創設してはどうかとの構想を熱心に話しておられました。こうした志が道半ばでついえてしまった今、先生の無念さに思いをいたすと残念でなりません。
 また、政府においては、外務大臣政務官、環境大臣政務官を務められ、平成十八年には国土交通副大臣、そして、平成二十六年九月には環境大臣・原子力防災担当大臣に就任をされたのであります。
 外務大臣政務官在任時の平成十三年二月、ハワイ・オアフ島沖で、宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」が米国の原子力潜水艦に衝突され、九名が犠牲となった沈没事故が発生をいたしました。先生は、一カ月にわたり現地に滞在し、陣頭指揮をとられ、毅然と米国政府と向き合うなど交渉に奔走され、その誠実な仕事ぶりが高く評価されたのであります。
 また、環境大臣政務官在任中には、当時、世界遺産登録を目指していた富士山の環境改善が大きな課題となっておりました。そこで、先生は、ごみ問題への対応や環境配慮型トイレの整備などに尽力され、平成二十五年の世界文化遺産登録へとつなげていかれたのであります。
 国土交通副大臣としては、以前から熱心に取り組んでおられた港湾振興に努められ、十二に及ぶ港湾の整備事業を推進されたほか、初めて県境を越えた御当地ナンバーである富士山ナンバーの実現にも尽力されたのであります。
 そして、環境大臣としては、就任直後より、福島、東北の復興なくして日本の再生なしとの思いから、福島の除染や復興に必要不可欠な中間貯蔵施設の問題に粉骨砕身して取り組まれました。建設予定地である大熊町、双葉町とは徹底した意見交換を重ね、その必要性を誠意を尽くして訴えられ、建設受入れを判断していただくに至りました。しかしながら、実際に除去土壌等を搬入することについては大変厳しい意見があり、こうした中、先生は、町のみならず、幅広い関係者との膝詰めの調整を進められ、搬入開始を現実のものとされたのであります。
 このように、ひたむきに現地との信頼関係の構築を重視し、復興に献身的に取り組まれました。
 また、地球環境対策のため、世界を駆けめぐり、日本の立場を丁寧に説明され、平成二十六年十二月にペルーで開催をされたCOP20では、翌年に採択されたパリ協定への道筋をつけられました。
 さらに、環境行政の原点である四大公害への思いも強く、全ての現地に足を運び、地元の方と意見交換を行うなど、公害問題にも積極的に取り組まれたのであります。
 一方、自由民主党にあっては、経済産業部会長、国土交通部会長、幹事長代理などを歴任され、特に、平成二十四年には行政改革推進本部長に就任され、その要職にあるときには、温厚篤実なお人柄と、先生の座右の銘である至誠天に通ずの精神で、難攻不落と言われた公務員制度改革に取り組まれ、幹部職員人事の一元的管理を図ることなどを内容とする関連法案の党側の意見を取りまとめ、党と政府との調整役として、その成立に大きな役割を果たされたのであります。
 望月先生と私は、当選同期で、何でも話し合える仲でありました。特に、平成二十一年の総選挙で落選をされたつらい時期には、毎日電話で意見交換をしました。大変苦労されたようで、一日も早く国政に復帰したいとの強い思いがひしひしと伝わり、数え切れないくらいの街頭演説に飛び回るなど、懸命に活動されている様子をよく伺いました。こうした思い出は今でも鮮明によみがえってまいります。
 二十代から公私ともに先生を支え続けてこられた真由美夫人を平成二十二年に亡くされているのでありますが、大変大切に思っておられ、奥様のお話もたくさんたくさん聞かせてくださり、妻がいたからこそ今の自分がいるんだといつも言っておられたことを思い出します。そして、私には、奥さんを大事にしろ、私の妻には、会うと、丈夫でいなければだめだよと声をかけてくださいました。
 また、お嬢様への思いも奥様と同様に深く、いつも近くにいて支えてくれるんだよとうれしそうに語られるなど、本当に家庭を大事にしておられる先生でありました。
 明るい性格で、もっちゃん、よっちゃんと親しみを込めて呼ばれ、分け隔てなく人と接しておられた先生の周りには、いつも笑顔があふれていました。そして、フットワークが軽く、常に謙虚に、等身大の自分で、本音のコミュニケーションを重ね、物事を円滑に運んでいかれたのであります。このお人柄は、終生変わりませんでした。
 昨年十月の天皇陛下の即位礼正殿の儀に出席された際には、隣り合わせたイギリスのチャールズ皇太子が腰に座布団を当てておられるのに気づかれ、日本の良質な座布団は腰によいと、御自身も愛用されている地元産の座布団を贈ることを約束されたようであります。そして、みずから生地を選び、そのできばえに大変満足されていたのでありますが、これは、お亡くなりになるつい一週間前のことだったそうであります。先生の心配りの座布団は、確かに海を渡り、イギリスに届けられたのであります。
 一方、先生は、努力の人であり、深夜の二時、三時まで、内外の諸情勢について常に問題意識を持って勉強しておられました。こうした御努力によって培われた幅広い見識とバランス感覚のもと、多くの人々からの相談に丁寧に応じておられました。
 誰からも愛され、常に庶民のための政治を心がけておられた政治家望月義夫先生の訃報は、地元のみならず、多くの人々にどれほど多く衝撃を与えたことでしょう。
 先生は、確かな未来をつくろうと、国政に携わること二十三年、政治を志してからは、実に半世紀の長きにわたって、日本のため、ふるさと静岡のために駆け抜けてこられました。
 内外ともに政策課題が山積している今こそ、先生のお力が必要であるにもかかわらず、もはやこの議場に先生のお姿を見ることはできません。しかし、万分の一でも先生の思いや理念をつないでいけるよう、残された我々は全力を挙げて取り組んでまいることをお誓い申し上げるものであります。
 私は、ここに、望月義夫先生の御逝去を悼み、謹んで御冥福をお祈りし、先生を今日まで支えてこられたお嬢様、そして弟様を始め、御家族の皆様方の胸中に深く思いをいたすとともに、最愛の真由美夫人のもとに旅立たれたみたまの安らかならんことを心から願って、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――

発言情報

speech_id: 120105254X00320200123_018

発言者: 佐藤勉

speaker_id: 29164

日付: 2020-01-23

院: 衆議院

会議名: 本会議