尾辻秀久の発言 (本会議)
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○尾辻秀久君 本院議員羽田雄一郎先生は、昨年十二月二十七日、新型コロナウイルス感染症のため、逝去されました。享年五十三歳。余りにも早過ぎる御最期であり、誠に哀悼痛惜の念に堪えません。
ここに、皆様のお許しを得て、従三位旭日大綬章故羽田雄一郎先生の御霊に対し、謹んで哀悼の言葉をささげます。
先生は、昭和四十二年七月、後の内閣総理大臣羽田孜先生の御長男としてお生まれになりました。子供の頃から保育園の先生になりたいとの夢を持たれ、敬和学園高等学校を経て、玉川大学文学部芸術学科児童専修課程を御卒業、保育士の資格を取得されました。
平成四年四月から伊藤忠記念財団に勤務をされ、全国子供文庫に対する助成など、児童館活動、野外活動に携われました。そこで出会ったお母さんたちの声なき声を伝えたいとの思いを抱かれたことが政治家としての原点であると伺っております。平成九年四月よりお父上の秘書をお務めになられました。
平成十一年十月の参議院長野県補欠選挙で初当選を果たされ、国政に活躍の場を移されることとなりました。以来、連続五回の当選を果たされ、子供たちの未来に責任を持つ、現場主義に徹するとの信念の下、国政に全力で取り組んでこられました。
本院においては、農林水産委員会、国土交通委員会、沖縄及び北方問題に関する特別委員会や共生社会に関する調査会など、多岐にわたる委員会、調査会等に所属をされました。国土交通委員会及び沖縄及び北方問題に関する特別委員会では、委員長として御活躍をされました。
議員外交にも精力的に取り組まれました。
平成十四年五月に米国ニューヨークの国連本部で開催されました国連子ども特別総会及び子どものための議会人フォーラムや、平成二十八年五月に東京で開催されました日本・EU議員会議に我が国の国会代表団の一員として参加をされました。また、超党派のユニセフ議員連盟の事務局長を務められ、貧しい子供たちの健康改善など、世界の子供たちの権利を守るための活動に献身的に取り組まれました。
政府においては、平成二十四年六月に、野田内閣における国土交通大臣に就任をされました。大臣在任中に、参議院では東日本大震災からの復興をテーマとした子ども国会が開催されましたが、先生は御多忙の中、子ども国会の会場に足を運ばれ、全国から集まった子供たちの熱心な議論を温かく見守られました。そのお姿は今も語りぐさになっております。
党におかれましては、参議院国会対策委員長、参議院幹事長などの要職を歴任されました。
語れば切りがありません。大活躍の五十三年間でありました。御功績をしのび、御霊安からんことをお祈り申し上げます。
型どおりの弔辞はここまでにします。あと少し、昔話をさせてください。
随分昔の話になりました。ある日、先生も同じ資格をお持ちの保育士をしております私の娘が、今度、羽田先生のお子様のお世話をさせていただくことになったと帰ってきました。宿舎では先生と私どもの部屋は三軒隣でありましたから、それからは、我が家ではよくお子様方のおうわさをしました。お二人の御兄弟が小学校に進まれた頃は、テニスラケットを持った天使と呼んでいました。その後、お嬢様もお生まれになりました。そろって天真らんまん、すてきなお子様方であります。
御家庭での子煩悩のお姿を目の当たりにしておりましたので、ついついお子様の話になりました。廊下で擦れ違ったとき、奥様が、わざわざ、あなたたちがお世話になった方でしょうと声を掛けてくださったと娘が感激をしていたこともありました。先生も奥様もひたすらに謙虚な方で、育ちがいいというのはこのような方を言うのだろうと思っておりました。総理大臣をなさった御尊父の血を引き継がれたのでありましょう。
もう一つ昔話をさせてください。この国会議事堂の中で最も格式の高い部屋は、正面の三階の部屋です。天井も特別に高くしてあります。与党の参議院議員会長の居室として使われるのが常であります。私も使わせてもらったことがあります。
ちょうどそのときに、野に下る事態となったのです。当然、第一党になった、時の民主党羽田国対委員長から部屋明渡しの催促がありました。党の大事な書類が置いてある、少し時間を貸してほしいと言うだけは言ってみました。本音では、甘えは許されない世界ですから、すぐに追い出される覚悟はしていたのであります。
ところが、羽田国対委員長は、しようがありませんねと言ってくださったのであります。羽田先生の温厚なお人柄に触れた瞬間でありました。人の話をよく聞いてくださる方で、誰からも慕われるお人柄でありました。
最後に、どうしても申し上げておきたいことがあります。先生とは、靖国神社の春と秋のお祭りには、御一緒にお参りをいたしておりました。世界の平和を祈り、戦争を風化させてはいけないと努力なさる先生のお姿に、私は頭を下げておりました。今は、先生の真意が皆さんに伝わっていたことを心から願うものであります。
最後の最後に言わせてください。先生は、ただただ平和を願っておられました。
今日、私がここに立たせていただきましたのは、御尊父の代から御指導をいただき、お世話になりながら、何の御恩返しもできませんでしたので、せめて先生の御意志をつないでまいりますとお約束をしたかったからであります。
先生は、超党派のコロナと闘う病院を支援する議員連盟の共同代表として、医療崩壊を防ぐための活動の先頭に立ってこられました。その先生が、御自身の車で病院に向かわれ、途中で容体が急変して救急車をお呼びになったときは、時既に遅かったとお聞きをしました。御自身の体調について、なぜ早くお伝えにならなかったのですか。そもそも、御自身のことは二の次の方でしたが、それにしてもであります。我が身は顧みないことを宿命とされたのでしょうか。そんな覚悟のある大きな人間をエリートと言うのだと聞いてはいますが、何でもいいから生きていてほしかったです。
一番御無念なのは先生御自身でしょうから、これ以上愚痴はこぼしません。
もう一度申し上げます。世界の平和を守るという先生の御意志は必ず受け継いでまいります。
与野党が厳しく対立する場面でも、先生がおられると場の雰囲気が自然と柔らかくなりました。
これからは、場面が緊迫したら、先生のことを思い出すことにいたします。何回も思い出すことになるでしょう。そして、そのたびに、かけがえのない方を失ったと思うのでありましょう。
何回も思い出す方にさようならとは言いません。
またお会いしましょう。
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