小渕優子の発言 (本会議)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○小渕優子君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員竹下亘先生は、去る九月十七日、七十四年の生涯を閉じられました。
 その日は、くしくも自民党の総裁選が告示をされた日でした。来る衆議院選挙を間近に控え、派閥の行く末や総裁選についても様々な御指導や御心配をいただいていたばかりであり、にわかにその訃報を信じることができませんでした。
 先生は、平成三十年暮れに体調を崩され、入院して治療に専念された後、一時は御快癒に向かわれ、政治活動を再開されました。しかし、本年五月頃より再び体調を崩されたとの由、皆で先生の回復をお祈りしておりましたが、その願いもむなしく、今、この議場に先生のお姿を拝見することはできません。
 思えば、先生と初めてゆっくりお話をしたのは、平成十二年、西暦二〇〇〇年のミレニアムの年に実施された衆議院選挙の後でした。共に初当選をした新人議員同士でしたが、特別な親近感と安心感を覚えたことを記憶しています。
 先生の兄、竹下登元内閣総理大臣と私の父、小渕恵三は、揺るがぬ信頼で結ばれた師弟関係にありました。その父、恵三が内閣総理大臣在任中に病に倒れ、帰らぬ人となりました。二〇〇〇年五月十四日のことでした。それから一月余りしかたっていない六月十九日、今度は、父の後を追うように竹下元総理も旅立たれました。
 衆議院選挙は六月十三日に既に公示されており、先生も私も、人生で最も悲しい別れの真っただ中で選挙に立ち向かいました。幸い、地元の皆様の熱い御支持をいただき、先生と私は同時に政治の道を歩むことになりました。
 私と先生は二十七歳の年の差があり、社会経験も人生経験も、比べるのも恥ずかしいほどの落差がありました。あれから二十一年、いつも私の前に竹下先生がいました。先生は、兄であり、父であり、政治の師でありました。そして、振り返れば、何よりも、同じ理想を追い求める同志として、晴れの日も雨の日も共に励まし合いながら歩んでいたことに気づきました。今、この本会議場で先生にお別れを告げることになろうとは、誠に哀悼痛惜の念に堪えません。
 竹下亘先生は、昭和二十一年十一月三日、中国山地の懐に抱かれた島根県飯石郡掛合村、現在の雲南市掛合町で生をうけられました。生家は江戸時代から続く造り酒屋で、父、勇造様と母、恕子様との間に誕生された次男でした。勇造様は、掛合村長、島根県議会議員を務められました。兄は、後の内閣総理大臣竹下登先生です。兄とはいっても、二十三歳違いで、親のように亘先生を導かれたとお聞きしています。
 亘先生は、幼少期から学業、スポーツ共に万能で、故郷を離れて慶応義塾高校に入学され、その後、進学した慶応義塾大学では経済学部で学ばれました。
 御卒業後は、ジャーナリストを目指してNHKに入局されました。赴任地の札幌では事件記者として取材に飛び回り、東京の報道局経済部に配属されると、才能を開花されました。大蔵省、日銀など日本経済の最前線で取材、報道に当たり、NHKでは初めての経済ニュースキャスターに抜てきされました。名実共にNHKのエースとして、将来を嘱望されておられました。
 そんな亘先生に転機が訪れました。亘先生がジャーナリストとして着々と実績を積み重ねられるのと時期を同じくして、登先生が、中曽根内閣の大蔵大臣として、次の総理大臣に最も近い政治家の一人になられたのです。そこで母上にこう言われたそうです。
 「家族から総理大臣が出るかもしれんのに、うちは誰も踏み台になっていない。あなたが草履取りをやりなさい。」
 昭和六十年七月、亘先生はNHKを辞め、秘書として、裏方として、登先生を十四年間にわたって支え続けることになりました。登先生は、この間に、大蔵大臣から自由民主党の幹事長、そして昭和六十二年十一月に第七十四代内閣総理大臣に就任されました。竹下総理の行った、消費税導入を始め、地方に光を当てるふるさと創生の提唱は、今なお政治の重要課題であり続けています。
 その竹下政治を最も近い立ち位置で見詰め、相談相手となり、時として助言をされてこられたのが亘先生でした。
 平成十二年、先生に再び人生の転機が訪れました。かねてより病気入院中であった登先生が、次期衆議院選挙に立候補しないことを表明し、政界からの引退を宣言されました。先生は、急遽、その後継者として名のりを上げ、同年六月に実施された第四十二回衆議院議員選挙で、生まれ育った島根県第二区から立候補することを決意されたのです。
 「日本で一番重いバトンを渡された。ふるさとの皆さんと徹底的に議論し、行動することで、このバトンを引き継ぎたい。」
 選挙期間中、登先生が静かに御逝去される中、先生は見事に圧倒的大差でトップ当選され、政治の道を歩み始めたのであります。
 本院に議席を得られた先生は、以来、当選すること七回、在籍二十一年四か月の長きにわたり、財務金融委員会、環境委員会、議院運営委員会を中心に多くの委員会で理事、委員を歴任され、卓越した識見と行動力を発揮されました。平成二十八年一月には予算委員長に就任され、公正かつ円満な運営に努められ、その職責を全うされたのであります。
 内閣にあっては、平成十七年九月に第三次小泉内閣の環境大臣政務官に就任され、同年二月に発効された京都議定書を受けた脱温暖化社会や循環型社会の構築に向け、尽力されました。
 平成二十年八月からは、福田改造内閣及び麻生内閣の財務副大臣を務められました。平成二十年九月のリーマン・ショックの際には、国際金融の枠組みづくりが重要であるとの観点から、各国との対話に積極的に取り組まれました。
 そして、先生は、平成二十六年九月、第二次安倍改造内閣において、復興大臣として初入閣を果たされます。東日本大震災の爪痕がまだ生々しく残る被災地、被災者にかける思いの深さは、亘先生の実像そのままでした。
 「被災地の復興なくして日本の復興はない。皆さんとともに懸命に汗をかいていく。」
 在任期間中に、亘先生は、岩手、宮城、福島など、被災地域に四十二回にわたって足を運ばれました。被災地を昔に戻すのではなく、未来に向かって明るさを伴って元気にすることが私の責任だ。先生が取り組まれた復興政策は、「第二期復興・創生期間」に受け継がれ、魅力的でにぎわいのある「新しい東北」の実現に向けて、更なる取組が続けられています。
 党にあっては、組織運動本部長、国会対策委員長、総務会長を歴任されました。御縁という言葉をよく用いられた先生は、温和な人柄で与野党議員を問わず人脈を築かれ、信頼される存在でありました。
 先生は類いまれな聞き上手でした。大好きなたばこを片手に、誰に対しても嫌な顔一つせず耳を傾け、的確な方向性、答えを示してくださいました。そのお姿、その笑顔を、ここにいる多くの方々が、今、それぞれの心に思い浮かべることができるのではないでしょうか。温かなそのお人柄に、議員仲間はもちろん、役所の皆さん、党本部職員、若い記者さんに至るまで、自然と多くの人たちが集まりました。先生が自民党にとってもかけがえのない存在になるまでに時間はかかりませんでした。
 先生の信用、人脈は、国境を越えて広がりました。隣国の中国、韓国には、先生を慕う多くの友人、知人があらゆる分野にいました。とりわけ困難な状況にある近隣外交の中にあって、最も重要な政治家を失ってしまいました。
 先生は十五歳で故郷の島根を離れ、人生の大半を東京中心に生活をされてきましたが、先生はどこまでも島根を愛し、島根とともに歩んだ政治家でした。
 先生は、本年七月、政界引退を表明されましたが、今年の初めには、実は、来るべき選挙に向けてリーフレットを準備されていました。そのリーフレットには、先生の笑顔とともに、「八風吹不動」という言葉が記されています。
 今、コロナ禍という大きな試練と直面する時代に、私たち政治家は新たな覚悟と決断が求められています。「八風吹不動」、これは、先生御自身が自らに向けられた言葉であったかと思いますが、今となっては、この時代を生き抜く我々政治家に向けられた竹下先生からの叱咤激励の言葉に思えてなりません。
 先生のように圧倒的な経験を積み、将来を見据え、優しさと信念を持って進む政治家がこの世を去られたことに、言葉では言い尽くせない深い悲しみと無念さを覚えます。
 御多忙の先生の趣味は読書でありました。政治に関するものから歴史物まで多岐にわたり、御自宅近くの本屋さんで一度に四十冊、五十冊とまとめて買い求められては読みふけっておられたそうです。
 しかし、私の印象では、空いている時間があれば、仲間や後輩に声をかけ、おそばを食べに行ったり、お酒に誘ってくださったり、お休みの日には、落選した同志の選挙区を訪ねたり、家族を失った仲間のところへ足を運んでくださったりと、御自身のことはさておき、人のために歩かれた政治家人生だったように思います。
 それでも、優秀な二人の息子さんのことは誇りにされていて、特に、お医者様を務める御長男さんが、入院中に病室に立ち寄ってくれることを頼もしく思い、うれしそうに話をされておられました。
 また、お孫さんたちの成長を心から喜ばれ、この上ない笑顔で話されるときだけは、政治家からおじいちゃんへと戻れる、数少ないほっとする時間だったのかもしれません。
 短くとも全力で生き抜かれた先生、そしてその先生をお支えになってこられた奥様始め御家族の皆様に、お悔やみと同時に感謝を申し上げたいと思います。
 二十一年前、地元の島根県掛合町で竹下元総理の御葬儀が営まれました。その場で青木幹雄先生が涙ながらに弔辞で読まれた言葉が改めて私の胸によみがえります。
 「島根に生まれ、島根に育ち、やがて島根の土となる。」
 心より御冥福をお祈りし、追悼の言葉といたします。
     ――――◇―――――

発言情報

speech_id: 120705254X00320211209_018

発言者: 小渕優子

speaker_id: 34054

日付: 2021-12-09

院: 衆議院

会議名: 本会議