長浜博行の発言 (本会議)

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○長浜博行君 ただいま、院議をもちまして栄えある永年在職表彰を賜りましたことに感激いたしますとともに、山東議長を始め全ての同僚議員の皆様に心より感謝を申し上げます。
 また、日頃より御指導をいただいている関口昌一議員より過分な御祝辞を頂戴をし、恐悦至極に存じます。
 私は、「三丁目の夕日」にも描かれた昭和三十三年、東京の下町で生まれました。東京タワーと同い年です。幼い頃は母や祖母に手を引かれ、吾妻橋を渡り、浅草寺の境内でハトに豆をやることが楽しみでした。学生時代はノンポリで応援部に在籍し、卒業後、松下幸之助翁の面接を経て、その薫陶を受けることとなりました。
 その後、千葉県浦安市で家業の鉄工所で働き、穏やかな新婚生活を営んでおりましたが、一九九二年五月、人生の転機が突然訪れました。細川護煕、後の日本新党代表との邂逅です。当時私は、中小企業の跡取り息子として業務に従事する傍ら、変革の能動者たらんとする青年として青年会議所運動、この議場にも関係者がおられると思いますが、いわゆるJC活動に積極的に取り組んでいました。地元の浦安JCのみならず、オールジャパンの日本青年会議所にも出向しておりました。
 この時代はメディアを通して全国津々浦々で政治改革が叫ばれており、その中での新党結成。同年の参議院選挙、翌年の東京都議会議員選挙で、日本新党は議席を獲得することができました。気が付くと私は政党職員から細川参議院議員の公設秘書になっていました。この間、一九九三年七月の第四十回総選挙に突入するまでの一年余りは、嵐のような激動の日々であり、恥を承知で申し上げれば、生まれたばかりの娘が、知らぬ間に一歳になっていました。
 宮澤内閣不信任決議案可決及びその後のてん末については、時間の関係でここでは言及しませんが、中選挙区制での最後の総選挙は、結果として究極の政権選択選挙となり、三十八年間続いた永田町の五五年体制が終えんを迎え、政権交代が実現しました。その首班は何と第五党の党首、細川護煕内閣総理大臣の誕生でした。
 細川内閣は八党派による連立内閣で、八頭立ての馬車に例えられましたが、その手綱さばきは至難の業だったと思います。
 私自身のことを申し上げれば、当時の千葉四区で初陣を飾ることができました。三十四歳でした。中選挙区は今の小選挙区四つを合わせた規模であったため、組織的支援基盤のないぽっと出の若者にとって、選挙実務をこなすことは困難の連続でした。
 選挙初日の法定掲示板へのポスター貼りは、ナビもない時代、多くのJCの仲間や友人が住宅地図を片手に、手弁当で車を走らせてくれました。二歳と一歳の子供を両親に預けた妻がウグイスやビラ配りをやっていたことも、懐かしい思い出であると同時に、今も頭が上がらない理由です。
 細川内閣で衆議院の選挙制度が小選挙区比例代表並立制となりました。一九九六年十月二十日、新制度で行われた初めての選挙で、私は小選挙区のみに立候補し落選、誕生日当日でした。苦節四年の浪人生活でしたが、二十世紀末、二〇〇〇年に小選挙区で当選し、国政復帰ができました。
 その後、二〇〇七年参議院選挙に挑戦し、衆議院を自動失職しました。二年後の二〇〇九年、千葉県連代表のときに、十三選挙区全てに代議士を輩出することができ、そして再び政権交代が実現したことは大きな喜びでした。
 今後とも、持続可能性のある政治改革を目指して精進してまいります。
 最後になりますが、良識の府と言われる参議院に在籍できますこと、御支援いただいている千葉県民の皆様に厚く御礼申し上げます。後援会の方々、秘書、スタッフの面々には心配ばかりお掛けし、申し訳ありません。また、私事で恐縮ですが、去る二月に他界した大恩ある父、そして母、妻康代と三人の子供たちに心からの愛と感謝をささげ、御礼の御挨拶とさせていただきます。
 終日本会議でお疲れのところ、御清聴いただきありがとうございました。(拍手)
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発言情報

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発言者: 長浜博行

speaker_id: 32088

日付: 2021-12-10

院: 参議院

会議名: 本会議