新藤義孝の発言 (本会議)
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○新藤義孝君 新藤義孝であります。
この度、院議をもって衆議院議員在職二十五年の表彰を賜りました。身に余る光栄であり、私を育て支えていただいた郷土埼玉、川口で行動を共にしてくれた同志、後援会や事務局、支援者の皆様、そして、常に献身的に尽くしてくれている事務所スタッフのおかげさまです。本当にありがとうございました。(拍手)
私は、平成八年、三十八歳で、小選挙区制となった総選挙に立候補し、地元川口市から二十九年ぶりの衆議院議員となりました。
外交・安全保障、領土・主権、経済成長、地域活性化など、国民生活の安定と繁栄、国際社会からの信頼と貢献を追求し、国家の基本問題に携わってまいりました。
議員として初の出張は、北方領土、択捉島です。竹島問題では、韓国から入国拒否者第一号となり、金浦空港にはデモ隊が千人集まり、私の顔写真が無残にも焼き払われるということもございました。尖閣諸島には、国会議員として戦後二番目となる接近を果たしております。「顔の見える国際貢献」や北朝鮮に対する「対話と圧力」のワーディング、我が国の国際支援物資に貼る「From the People of Japan」のステッカーを発案いたしました。
外務政務官時代には、ウラジオストクに浮かぶ旧ソ連の退役原子力潜水艦の非核化事業を実施したり、私が提案した我が国初となる領土問題担当大臣の創設と領土・主権展示館の開設は、大きな喜びとするところであります。
また、硫黄島の日米合同慰霊祭を毎年開催し、戦没者の追悼と御遺骨の収容帰還事業をライフワークにさせていただいております。
国会活動の苦い思い出は、三回目の選挙で苦杯をなめたことです。手のひら返しも体験いたしましたが、「こんなことになるなら」と多くの人が集まっていただきました。
一から選挙態勢を立て直し、幸運にも、一年七か月後の解散・総選挙で、小選挙区で勝利し、国会に戻ることができたわけでございます。(拍手)
その次の、自民党が大敗し政権交代となる選挙で何とか議席を維持できたのは、あのときの苦しい経験があったからだ、このように感謝をしております。
二〇一二年十二月、我々は総選挙に勝利をし、私は、第二次安倍内閣で、総務大臣、地方分権改革、地域活性化、道州制、郵政民営化の各担当大臣を拝命し、翌年には、初代の国家戦略特区担当大臣に就任しました。二〇一四年九月に退任するまで、「日本を取り戻す」、この言葉を胸に全精力を傾注し、国務に邁進をいたしました。
組閣前夜、クリスマスの夜の一本の電話から、生涯忘れることのない言葉をいただいております。
「安倍晋三です。新藤さん、総務大臣をお願いします。一緒に日本の歴史を創ろう!」
熱い言葉に体がしびれました。
凶弾に倒れた安倍晋三元総理をしのぶとともに、その遺志を引き継いでいくことを心に誓っています。
閣僚退任後は、政調会長代理、代行として八年、領土特別委員長、安全保障と土地特命委員長、G空間社会実装委員長、宇宙・海洋開発特別委員長、デジタル田園都市国家構想推進委員長など、日々、様々な政策の取りまとめに当たらせていただいております。
国会では、三年前より裁判官訴追委員長となり、戦後初となる、SNS投稿を続ける現職裁判官を訴追し、現在、弾劾裁判中でございます。
そして、五年前よりは衆議院の憲法審査会与党筆頭幹事として、毎週、厳しい野党協議を行いながら、議論を積み重ねています。
あわせて、党の憲法改正実現本部事務総長として、国民対話集会を推進し、憲法改正実現に向けた取組を加速させています。
最後に、私がここにいられるのは、今は亡き両親を始め御先祖のおかげさまであり、厳しい政治の世界にあって、へこたれず、生きる力を与えてくれているのは、愛する妻、千亜紀、息子の孝彰、悠生、安捺、かけがえのない大切な家族がいてくれるからです。いつもそばにいてくれて、本当にありがとう。(拍手)
今、世界は大きな分岐点に立っています。
日本は困難を乗り越えて、明るい未来に向けた「新しい国づくり」を思い切って進めていかなくてはなりません。
「保守したくば、革新せよ」
これからも自らに与えられた役割を全うすべく、精魂を込め、務めを果たしてまいる所存であります。
本日は誠にありがとうございました。(拍手)
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情報公開・個人情報保護審査会委員任命につき同意を求めるの件