額賀福志郎の発言 (本会議)
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○議長(額賀福志郎君) 本日表彰を受けられました他の議員諸君の挨拶につきましては、これを会議録に掲載することといたします。
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阿部 知子君の挨拶
二〇〇〇年六月の初当選から二十五年、この度、永年在職の表彰を頂きましたこと、厚くお礼申し上げます。
徳洲会の勤務医であった私に社会民主党から立候補のお誘いがあった時、その背を押して下さったのは、今は亡き徳田虎雄理事長でした。弱い立場の患者さんに接する医師には、身を低くして相手の思いを聞く選挙の経験は大事だから頑張りなさい、と忙しい臨床の場から送り出して下さいました。
地元の皆様の変わらぬご支援は勿論のこと、今日もこの本会議場で固唾を飲んで私を見守って下さっている後援会の皆様の温かな励ましや、事務局スタッフ、そして夫や家族の支えによって、以降連続九期にわたり国会に身を置くこととなりました。
最初の四期十二年は社会民主党の南関東比例区で議席を頂きました。そもそも同党とのご縁は一九七八年一月二十四日の深夜、都内七カ所の病院をたらい回しにされた末に亡くなった母のことがありました。当時、救急医療体制の不備は大きな社会問題にもなっており、日本社会党の山本政弘衆議院議員が母の事案を国会で取り上げ、搬送体制の改善が急がれるようになりました。母の命は帰らずとも、救急搬送で助かる人が少しでも増えればと、その時、改めて政治の意味を思いました。
さらに国会議員になる前々年に兄を医療事故で亡くしたこともあって、当選後は厚生労働委員会に所属し、ひたすら医療の充実を願って仕事をしてきました。
二〇一一年の東日本大震災に続く東京電力福島第一原発事故以降は、放射能から環境や住民を守る事にも力を注ぎ、事故収束に働く作業員の被曝や労災問題にも取り組み、再生エネルギーの主力化とエネルギー政策の転換を図っています。
近年少子化が著しいスピードで進み政治課題となる中、女性が子を産み育てやすく、子ども達が守られる社会となるよう、超党派の議員のお力をお借りして母子保健法を改正、産後ケアセンターが生まれた事は、小児科医として何よりの喜びです。
他方、世界各地の戦禍の拡大によって無抵抗の民間人、とりわけ女性や子どもの命が大量に奪われていることを傍観せず、平和人道外交を推し進めねばと思います。
戦争を経験しない世代が政治家の大半となり、人々の命や平和が軽んじられることを強く懸念しておられた野中広務さんや土井たか子さんから頂いたご指導、そして武力によらない紛争の解決を誓った平和憲法を胸に、これからも努力して参ります。皆様の一層のご指導をお願い申し上げます。
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梶山 弘志君の挨拶
この度、院議をもって永年在職表彰の栄誉を賜りましたこと心より厚く御礼を申し上げます。
初当選は二〇〇〇年の総選挙、爾来二十五年間私の活動を支えてくれた郷土茨城の後援会や支持者の皆様、歴代の事務所のスタッフに心より感謝申し上げます。
この間、国土交通大臣政務官、国土交通副大臣、国土交通委員長、災害対策特別委員長、地方創生担当大臣、経済産業大臣を経験させていただき、大きな変化と不確実な時代の多様な課題に、「最善の選択は何か」と考えながらそれぞれの職務に全力で取り組んできました。特に記憶に残るのは、野党時代に発生した東日本大震災、そして経済産業大臣時代のコロナ感染症のパンデミックです。いずれも多くの尊い命が失われ、人流、物流が止まりました。「危機管理のあり方」「災害への備え」というものを強く意識させられ、防災・減災への国土強靭化、サプライチェーンの多重化、日本を支える中小企業、地域経済への迅速な支援等にこれからも取り組んで参ります。
私の政治信条は「愛郷無限」。故郷を想う心なくして国を愛することはできない、国の発展なくして故郷が豊かになるはずもない。この志を持ち続け自らの役割を果たして参ります。
最後に、大病を患い、手術を経て療養をしながら私の活動を身近で支えてくれた妻由可子と家族には言葉に尽くせぬ感謝の気持ちでいっぱいです。
改めて多くの皆様のこれまでのご支援に深く感謝申し上げ、今後とも変わらぬご指導とご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げます。ありがとうございました。
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松原 仁君の挨拶
日本国の衆議院議員として二十五年間、活動を続けてこられましたことに、国民の皆様に深く感謝いたします。
私の国政における活動の原点は、日本を再び自己主張できる主権国家として確立するということでありました。それは先達が継承してきた歴史や伝統、文化に誇りを持つ国家を取り戻し、自信みなぎる国民としての日本人の復活です。日本国が経済、安全保障、文化面において世界で主要な役割を果たすためには、国民の誇りや自信、活力が欠かせません。
近年行われた若者に対する世論調査(第六十二回「国や社会に対する意識(六カ国調査)」、日本財団、二〇二四)の結果に、私は愕然としました。同調査では、日本人は他の国民に比べて「人に誇れる個性がある」「自分は他人から必要とされている」という自信や自己肯定感につながる回答が極めて少なく、また、「自国の将来」について「良くなる」という回答においては一五%しかないという結果が出ています。
政治の大きな目的は、主権者たる国民に自信を持たせ、永続的に共に歩む社会をつくるということだと思っています。誇り高き国家が自信ある国民を産み、自国に誇りを持つ国民が自信のある国家をつくる。現在の日本国を自信ある国家と見なす人はどれほどおられるでしょうか。
戦後八十年を数えるにもかかわらず、いまだに自国の国益を傍らに置き、他国の顔色や意見を尊重しながら生きていく国家。こうした日本政治の振る舞いに強い義憤を覚えるとともに、大きな問題意識を持ちながら活動してまいりました。
北朝鮮による日本人拉致問題という残酷な現実は、私の国家観、安全保障観、倫理観に大きな衝撃を与えました。憲法九条により武力の行使と戦力の保持を否定する我が国は、自国民を取り戻すという正当な目的のために、どのように「力」を行使できるかという、高い壁に直面していました。
上陸しての奪還作戦など武力行使が許されない中、被害者奪還交渉の裏付けとして、ほぼ唯一の手段は経済制裁による圧力でした。しかし、従来、我が国ではG7主導の有志国もしくは国連安全保障理事会で決定された経済制裁以外は行えないという、主体性のない戦後の日本外交を漫然と継承し、主権にかかわる問題に対する危機感が極めて浅薄な状況でした。
そもそも、拉致問題は我が国と北朝鮮間の問題であり、主権国家として主体性を持って取り組まなければならない問題です。与野党の多くの議員に説明、説得を尽くし、また大きなご協力を賜り、日本政府が単独で経済制裁を行使することが可能になったということは、戦後の日本外交における画期的な一里塚となったと自負しております。
拉致問題担当の国務大臣としての取り組みは、公に語れることは多くはありません。ご家族やご関係者からの信頼を得ながら、なお未だ多数の日本人拉致被害者の帰国を実現できていない現状に、国民を守るべき政治家として、誰よりも責任を感じております。
政府の役職として初めて拝命した国土交通副大臣の任に当たり、壁は極めて高いといわれた首都高地下化の実現に向けて、三宅久之氏、岩見隆夫氏らの協力を取り付け、「首都高速の再生に関する有識者会議」を立ち上げ、日本国のシンボルでもある「日本橋」復活に、実質的な目途をつけたことは大きな成果であったと誇りに思います。未来の東京において、青空を仰ぎながら日本橋を渡る老若男女の姿を思い浮かべ、我が国の復活、国民の精神的高揚の一助になればと心から願うばかりです。
また、それまで存在感が薄いとされてきた消費者担当大臣に就任した際には、消費者庁一丸となって、目に見える成果を出すことを大きな目標としました。社会問題となったオンラインゲームのコンプガチャへの過剰な課金問題の解決のために、何より職員の皆さんのご尽力により、「『懸賞による景品類の提供に関する事項の制限』の運用基準」の改正を実現することができました。
さらに、過度な国民負担の上昇について、常に国民生活に寄り添う立場でその改善に取り組み、未曽有の大災害であった平成二十三年東日本大震災時の原発事故、それに伴う電気料金の値上げ問題にあたっては、結果として、料金の値上げ幅を、当初案から三〇%縮小しました。電力会社、経済産業省との困難でお互い一歩も引かぬ交渉の末、社会保険料負担割合の変更など、関係者には痛みの伴う改革を受け入れていただきました。
国家公安委員長の職を務めるにあたり、多くの警察職員の皆様に献身的にお支え頂いたことに感謝は尽きません。自動車運転免許証における準中型区分の新設は、人材不足に苦しむ流通業界の苦境を打破する大きな一手を打つことができました。また東日本大震災の被災地視察において、厳しい環境に派遣された警察官の皆様の、献身的に職務に励む崇高な姿に心を打たれ、「東北は、そして日本は必ず復活できる」と確信したことを今でもよく覚えています。
在職二十五年を務めさせていただきましたが、日本の復活再生はまだ道半ばです。昭和二十年に一敗地に塗れたわが国ではありますが、祖国のために命を捧げた多くのご英霊に思いをいたす時、愛する日本国のために、私に何ができるのかを改めて沈思黙考する日々でもあります。これからの活動は政治家として集大成となることを肝に銘じ、主体性のある国家と自信と誇りに満ちた国民を取り戻し、日本の更なる飛躍のために身を粉にして取り組むことを、今、ここに誓います。
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大島 敦君の挨拶
二十五年もの長きにわたって衆議院議員として活動できたこと、そして、連続して当選できたことは、私の実力ではなく、応援して下さっている方々の信用や信頼で、ご支援の輪が広がったからなのです。
平成十一年、通勤する電車の中で、「民主党が候補者募集を始めた」との記事を読んで、応募したことが選挙に挑戦するきっかけでした。当時、四十二歳、衆議院議員を目指すというよりも、「自分が何者かを試したい」という思いから応募しました。候補者への選考過程で、地元の市議会議員、町議会議員の方々全員が賛同してくださり、平成十二年一月二十九日に公認となりました。当選が見えない私を市議会議員、町議会議員の方々は、二月の寒い朝、駅でのレポート配布から始まり、全力でお支え頂きました。事務所にもずっと詰めて下さいました。そのお力と地元で暮らす皆さまのご賛同で初当選できたのでした。選挙の最終日、午後八時の選挙戦が終わろうとする時に、「地元で生まれ、地元に骨を埋める」と叫んでいました。その思いは今も変わりません。
当時、県連幹事長だった山根隆治先生からは、公認候補者になった際には、「ほんの少しでも応援してもらえたら、心の底からありがたいと思いなさい」、選挙直前には、「公党の公認は天命と思いなさい」と、お言葉をいただきました。公の仕事に臨む心構えは、そうした皆さまとの出会いから培われたのです。雇用対策を訴えましたので、最初の委員会は「労働委員会」に所属しました。国の「求職者支援制度」は、その時の公約なのです。山根先生は、その後、参議院議員に当選され、私は、先生の選対本部長を務めさせていただきました。
私の地元活動は、地元に日本のすべてがあるという考えのもと、暮らす方々を体現し、政策課題を見つけ出し、国会で提言し、政府を動かし、解決することに尽きます。新型感染症が流行した期間は、暮らす皆さまの「生活の安定」と「事業の継続」を念頭に、一人ひとりに連絡するとともに、事業を営まれている方へも徹底的にサポートさせていただきました。国会議員として、誰よりも取り組んだ一人だと思います。
二十五年間、九回の選挙で、どのような時でもご支援くださった皆さまに、あらためて心より感謝申し上げます。私が国会に臨んで、目立つことなく信頼を積み重ねることができたことは、敦友会をはじめ後援会や団体の皆さま、陰ながらお支えくださった多くの方々の賜物なのです。
最後に、政治とは土着であり、我が郷土、我が国を愛する議員として、国会に臨んでまいります。
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平井 卓也君の挨拶
このような栄誉ある表彰をいただき、心より感謝申し上げます。この場を借りて、私を支えてくださった方々に、深い感謝の意を表したいと思います。
まず、私を信頼し、選び続けてくださった有権者の皆様に、心から感謝申し上げます。皆様のご支援があってこそ、私はこの責任ある職務を全うすることができました。皆様の日々のご意見やご要望を大切に受け止め、それを政策に反映させることが私の使命でした。皆様の声が私の原動力であり、励みでした。これからも皆様の期待に応えるべく、誠心誠意努力を続けてまいります。
次に、私の活動を日々支えてくれた家族やスタッフに、深い感謝の意を表します。長い間、私の公務に対する理解と協力を惜しまず、支えてくれました。特に、家族の存在は私にとって心の支えであり、どんな困難な状況でも前に進む勇気を与えてくれました。
また、同僚や官僚の皆様にも、心から感謝いたします。これまでの二十五年間、多くの挑戦と成果がありました。政策立案や法案作成、議員外交から地域振興に至るまで、様々な分野で活動させていただきました。その中でも特に私が注力してきたのは、デジタル化推進に関する取り組みです。サイバーセキュリティ基本法を始め、デジタル関連の議員立法は私が誇れる成果です。また、デジタル庁の創設という大きな仕事を成し遂げることができたのも、皆様の理解と協力、そして熱意があったからこそです。菅義偉総理のバックアップと官僚や同僚議員とのチームワークなしでは実現しませんでした。
日本は二〇〇〇年以降経済成長が停滞し、GDPもドイツに抜かれ四位となり、一人当たりのGDPは二十二位、労働生産性も三十位以下に低迷しています。これらの最大の原因は、デジタル化と構造改革が他国に比べ進まなかったことです。今年は昭和一〇〇年という節目の年です。昭和ノスタルジーから脱却し、新しい国家像を目指さなければなりません。社会課題を新しいテクノロジーやデジタルの力で乗り越え、活力ある誰一人取り残されないデジタル化社会の実現に向けて、これからも全力を尽くします。
最後に、これまでの道のりを支えてくださった全ての方々に、改めて感謝申し上げます。皆様の支えがあってこそ、私はこの二十五年間、衆議院議員としての職務を全うすることができました。これからも皆様のご期待に応えるべく、誠心誠意努力を続けてまいります。今後ともよろしくお願い申し上げます。
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松本 剛明君の挨拶
この度、院議をもって永年在職議員表彰の栄誉を賜りましたこと、誠に身に余る光栄で、深甚なる感謝の意を表します。
平成十二年の第四十二回総選挙で、初当選させていただいて以来、連続九期、二十五年にわたって衆議院議員を務めることができました。偏に兵庫十一区、姫路市の有権者をはじめとして、ご支援、ご協力くださってきた皆様のおかげです。加えて、多くの諸先輩方、同僚議員の皆様方からも温かくご指導いただきました。心から厚く御礼申し上げます。
またここまで、政治政策面でも地元活動でも事務所運営でも助けてくれた妻をはじめ家族・亡き両親、事務所スタッフに、日々大きな力をもらってきました。このような支えなくして今の自分はありません。誠にありがとうございます。
私の政治への志は、国政に参画していた父の求めで大臣秘書官を務めることとなったことから始まりました。時代は、我が国に人口構造の変化により経済社会の大きな転機がきており、世界も冷戦が終わって激動の時代を迎えており、そのことを直視すると、政治の使命はたいへん重大であると感じました。伊藤博文公は「我々の歴史は、今ここからはじまる」との気概を持って明治の国創りを進めてこられました。国政に縁がある者として、一生をかけて全力で取り組むやりがいを感じ、国政への挑戦を決意しました。
この間、限りなく多くの出会いを頂戴しました。街頭でお会いした方々から、政治への課題と期待の声に、応援の力もいただきました。また、学びを重ねる中で、すばらしい方々と語り合う機会を得られました。ほんとうに出会いはありがたいです。歴史を学び、根幹を見据え、未来を洞察して、具体的に仕事していこうと思い、政党において、国の根幹である、経済・財政、外交・安全保障、未来のための子ども子育て・教育の分野をはじめ、広く政策形成・実現に携わってきました。衆議院においては、議院運営委員長、外務委員長も務めました。政府においては、外務大臣、総務大臣二回など、いろいろ役職を拝命いたしました。
然るべき職務にあっては、立場を超えた徹底的な議論を仲間に求めた上で、責任は自らとる覚悟で、決めて実行するとの姿勢で臨みました。総務大臣在任中は、人々の、日本の、世界のために、AIのルール形成を我が国が主導すべきと考えてG7やOECDの国際的な枠組を活かし、広島AIプロセスを立ち上げて世界に拡げることができました。他にも、重職にあって、多くの力を賜り、幾つも明日への道を拓くことができました。在職中の出会いと学びを通して、日本の国がすばらしく、世界に認められていることを実感してきました。日本人が、誇りをもって強く豊かに幸せに明日へ進めるようさらに力を尽くす決意を新たにするとともに、これまで得られたものを次の世代に受け継いでいくように、前へ進んでまいります。
重ねて、これまでご縁を賜った方々に心からの謝意を表します。誠にありがとうございます。
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長妻 昭君の挨拶
本日、衆議院議員在職二十五年を迎え、永年在職表彰をいただきました。すべての皆さまに感謝申し上げます。
当選までは、山あり谷ありでした。
足元が一気に崩れ落ちた。こんな気持ちでした。一九九六年、初の小選挙区制の下、民主党公認で挑戦したものの惨敗した後、公認争いが起こり、私の公認が外されたのです。目の前が真っ暗になりました。その後、胃が痛むほどのつらい紆余曲折があり、選挙直前にお国替え、つまり選挙区を変更し、二〇〇〇年六月に初当選しました。以来、今日に至っています。
何よりも、応援いただいた支援者の皆さまに心より感謝申し上げます。しがらみを振り切って応援をいただいた方、党が逆風のなか怒鳴られてもビラ配りを続けてくれた方、少ない年金の中から献金をしていただいた方。数えきれない涙が出るありがたいご支援は決して忘れません。
落選中は収入がほぼゼロとなり、幼い息子三人を抱え、妻には大変つらい思いをさせてしまいました。また、無理難題をお願いしても応えてくれた秘書・事務所スタッフにも支えられました。議員や党スタッフにも大いに助けられました。
昭和三十五年六月十四日、私は祖父、父とも警察官の家に生まれました。当時、父は国会の廊下に寝泊まりしながら、安保闘争の警備に当たっており、私が生まれた日も国会にいたそうです。
母は高田馬場の鮮魚店の娘で、ぜいたくを極度に嫌い、質素と謙虚こそが最も大切と教えてくれました。
「お父さんは警察官なのだから、昭が少しでも悪いことをするとお父さんは警察に居られなくなるの」と子どもの時から厳しく言われました。
もともと政治家になるつもりはなく、大学卒業後、NECを経て日経ビジネス誌の記者となりました。
「金利をゼロにしてミニバブルを作る。そうすれば不良債権はすぐに片付く。マスコミは騒ぐな」。バブル崩壊を取材するなかで、官僚はこう言い放ちました。がくぜんとしました。この衝撃が政治家になるきっかけです。この失政こそが、その後の失われた三十年と続くのです。
さらに、取材をした衆議院議員の菅直人さんからの「ジバン、カンバン、カバンがないほうがいい政治家になる」という言葉も親が政治家ではない私の背中を押しました。
初当選直後は安全保障委員会に所属し、日本の守りを固めるための自衛隊法改正等に取り組みました。その後は、銀行の不良債権問題や政府の税金の無駄使い体質を追及。結果として天下りあっせん禁止や道路・ダムなどの特別会計廃止を実現しました。
その後、年金保険料の無駄使いの温床であるグリーンピアを廃止。年金記録が消えた問題、「消えた年金」についても初めて実態を明らかにして追及。毎年誕生月に年金記録と年金見込み額を全国民にお知らせする年金定期便を開始させました。
厚生労働大臣に就任してからは、消えた年金対策に徹底的に取り組み、今では一千六百万人の年金記録が回復、生涯年金額約二・九兆円を取り戻すことができました。同時に低年金の方への上乗せ年金制度「年金生活者支援給付金」を創設しました。
さらに日本初の中学生までの「子ども手当」も創設、相対的貧困率を初めて公表させ子どもの貧困の実態を明らかにしました。また、求職者支援制度の創設、医療レセプトの患者への交付を初めてスタートさせるなど、厚生労働大臣として懸命に取り組みました。
戦後処理については、長年の懸案だったシベリア抑留者への補償法案を成立させ、国の責任を認めたうえで、六万人以上の元抑留者の皆様に特別給付金をお支払いしました。
これまで特に、国家の礎である二つの保障、「社会保障」と「安全保障」に取り組んできたつもりです。
議会では、衆議院厚生労働委員長を務め、国会提出した議員立法は六十二本。本会議や委員会での質問は三百回を越え、厚生労働大臣として答弁した本会議や委員会は約百二十にのぼりました。予算、厚生労働、国土交通、平和安全法制特の各衆議院委員会でそれぞれ筆頭理事を務めました。
党務では最近のものだけでも、立憲民主党代表代行、政調会長、選対委員長など務め、全力を尽くしました。多くのスタッフに恵まれ感謝しかありません。
生かされているこの命。誰でも初めは、自分の持ち味を活かしたい、人の役に立ちたいと思うのではないでしょうか。しかし、多くの壁に阻まれ、そのやる気が失せてしまう。こんな社会は発展しません。
政治の力で壁をできるだけ取り払って、どんな環境にあっても一人一人の持ち味が活きる社会を作りたい。私が目指す社会は、すべての人に「居場所」と「出番」のある社会です。国のために一人一人がいるのではなく、一人一人のために国はあるのです。
人権、格差、多様性を軽んじる政治を反転させれば日本はもっと良くなります。これからも、これまで同様、できる限りの力を尽くし精進してまいります。
本当に、ありがとうございました。
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金子 恭之君の挨拶
この度、院議をもって永年在職議員の表彰を賜りました。身に余る光栄であり、心より御礼申し上げます。
私は、熊本県の人口二千人の旧・深田村(現・あさぎり町)で生まれ育ちました。政治家を志して以来、「地域の繁栄なくして、国の繁栄なし」という信条のもと、徹底した現場主義を貫いて参りました。地域の皆様の生の声、本音の声を国政に届け、課題解決につなげる事が私の最大の使命であるという思いは、平成十二年の初当選から今日に至るまで変わりません。
四半世紀にわたる議員生活で多くの課題に取り組んで参りましたが、まず思い起こされるのは災害対策です。我が国は自然災害と常に隣り合わせで、地元熊本でも熊本地震、令和二年七月豪雨災害など多くの災害に見舞われて参りました。被災地の復旧・復興と被災者支援に全力で取り組んで参りましたが、令和二年九月に就任した災害対策特別委員長として与野党委員の皆様の審議を経て、支援金の支給対象世帯を拡大する「被災者生活再建支援法」を全会一致で改正する事が出来ました。豪雨災害で多くの方々が困難な生活を強いられましたが、改正が被災者の方々の生活再建の一助となった事で、政治の果たすべき役割を改めて実感いたしました。
また、私はハンセン病問題の解決にも長年尽力しており、現在は超党派のハンセン病対策議員懇談会の会長を務めております。特に忘れ難いのは、平成二十年、同懇談会の事務局長として、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」の制定に取り組んだ事です。法律で基本理念を定め、国の責務を明確にする事で、その後の諸施策の実施につなげることが出来ました。これからも、元患者の方々やその御家族の声に耳を傾け、ハンセン病問題の最終的な解決に向け努力を重ねていく所存です。
政府においては農林水産大臣政務官、国土交通副大臣を務め、令和三年から四年にかけては、岸田内閣において総務大臣を拝命いたしました。大変な重責でありましたが、地方、そして被災地の出身である私がなすべき事は何かを常に自問し、一日一日、懸命に職務に励んで参りました。与野党を超えた多くの先生方からの御指導、御示唆もいただきながら、「地域の繁栄なくして、国の繁栄なし」中央と地方の格差を解消し、まだ道半ばでありますが地方創生の実現に取り組むなど、職責を全うする事が出来ました。
今日の私があるのも、多くの人々に支え、育てていただいたからにほかなりません。愛する郷土・熊本の皆様、同僚議員の皆様、役所や党の職員の皆様、事務所スタッフの皆んなに心より感謝申し上げます。そして、どんな時も苦楽を共にしてくれた妻・由紀子と子どもたち、家族、親族にもこの場を借りて感謝の気持ちを伝えたいと思います。
結びに、これからも、地域と国の繁栄を礎に、誰もが安心して暮らせる社会の構築と次世代への継承に全身全霊で取り組む事をお誓い申し上げ、私の御礼の言葉といたします。
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塩川 鉄也君の挨拶
このたび、在職二十五年の表彰をいただいたことに、謝意を申し述べます。二〇〇〇年以来、日本共産党を応援いただいた全国、そして群馬・栃木・茨城・埼玉の北関東の皆さんに厚くお礼申し上げます。また、いつも励ましの言葉をかけてくれた妻と家族にも感謝します。
私の政治活動の原点は、日本と世界から戦争と貧困をなくすことであり、日本共産党と出会ったことが転機となりました。学生時代、米軍が日本に核兵器を持ち込もうとしたことが大問題となったとき、強い憤りを覚えました。なぜ被爆国の日本に核兵器が持ち込まれようとしているのか知りたいと思うとともに、自分ひとり声を上げても政治は変わらないという気持ちもありました。その時に、安保条約の下で米国言いなりの仕組みがつくられていることが大本にあり、対等平等の日米関係を実現する展望を示してくれたのが日本共産党の先輩でした。そして、みんなと一緒に政治を変えようと、一歩足を踏み出す勇気を与えてくれました。
今や国際社会では、核兵器禁止条約が実現し、日本被爆者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したように、被爆者を先頭にした日本と世界の世論と運動が大きな力を発揮しています。「核抑止」の呪縛を解き放ち、「核兵器のない世界」の実現のために力を尽くすものです。
この間国会では、カネで動く政治を終わらせようと、企業・団体献金禁止の取り組みに全力を挙げてきました。政府が、物価高騰対策として最も効果のある消費税減税に踏み出そうとしないのは、財界・大企業が消費税増税、社会保障抑制、法人税減税を要求し、そのために多額の企業・団体献金を政権党に行ってきたからです。
以前は企業・団体献金禁止と言えば、日本共産党だけの訴えだったものが、今では他の野党からも禁止法案が提出されるようになり、大きな変化が生まれています。国民生活を守り、支えるためにも、賄賂であり国民の参政権を侵害する企業・団体献金の禁止をぜひとも実現したいと決意しています。
長らく国会の運営全般に関わる議院運営委員会の一員として活動してきました。憲法に基づく国民主権の議会制民主主義において、政府行政を監視監督する国会の責務は重大です。平和・くらし・人権のあらゆる分野で、憲法が生きる政治の実現のために全力を尽くすことを申し述べ、謝辞といたします。ありがとうございました。
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山井 和則君の挨拶
この度、衆議院議員在職二十五年の表彰を賜りました。私が衆議院議員に初当選させて頂いたのは二〇〇〇年六月二十五日です。
何よりも、九期二十五年間、落選中も含め三十年間、ご指導頂き、支えて頂いた、京都六区、京都南部の地元の方々に心より御礼申し上げます。特に、私の活動を支えて下さっている支持者、ボランティアやスタッフの方々の並々ならぬご尽力と、私を応援して頂き、ご指導頂いている方々に、重ねて、厚く御礼申し上げます。
私の座右の銘は、「社会のぞうきんになれ!社会のぞうきんになって、社会をきれいにしなさい!」という仏教精神の洛南高校で、三浦俊良学校長や担任の虎頭祐正先生から頂いた言葉です。この言葉を肝に銘じ、「福祉の山井」として、福祉を中心に国会で取り組んできました。
私が政治を志した原点は、学生時代に児童福祉施設で六年間、ボランティアをし、また、私の祖母が長年の寝たきりの末に亡くなったことです。貧困や虐待に苦しむ子どもたち、また、寝たきりや認知症の高齢者、その介護者やご家族の方々の「声なき声」を、誰かが国会に届けないと、世の中は良くならない!と、政治を志しました。
民主党政権の時には、二〇〇九年、二〇一〇年、長妻昭厚生労働大臣のもと、厚生労働大臣政務官を務めさせて頂き、児童手当の中学三年までの延長や、「消えた年金」の被害者救済、障害者自立支援法の廃止と障害者総合支援法の成立などを実現できたことは、大きな思い出です。
また、議員立法による福祉の充実などに力を入れ、二十五年間に四百九十四回の国会質問などをすると共に、百四十五本の議員立法を作成して国会に提出し、介護職員・障がい福祉職員処遇改善法、子ども貧困対策法や過労死防止法などを成立させることができました。昨年は、児童手当の高校三年までの延長を実現させ、今年は、がん患者の方々などの高額療養費引上げの凍結を実現することができました。
特に、被害者やご遺族、ご病気の方々、障がいのある方々、介護を必要とする方々など、当事者や弱い立場の「声なき声」を、国会で代弁し、与野党協力し、法案を成立させたり、予算を獲得することに力を入れてきました。これらの実現は、私の力だけでは到底無理であり、超党派の素晴らしい同志の議員、党職員、法制局や調査局を始めとする衆議院事務局のスタッフの方々、各府省の官僚の方々のおかげです。
さらに、地元については、「お茶振興法」の成立や、宇治茶や京野菜の振興、新名神高速道路の推進など、京都南部の活性化に取り組んできました。
これからも、「福祉の山井」として、弱い立場の方々や京都南部の住民の代弁者、僕(しもべ)として、全力で働かせて頂きます。
以上、心からの御礼と決意とさせて頂きます。
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松野 博一君の挨拶
この度、院議をもって永年在職議員の表彰を受けましたことは、誠に光栄の至りであり、お世話になったすべての皆様に深甚なる謝意を申し上げます。
私の政治活動は、平成七年自由民主党千葉県支部連合会が実施をした候補者公募制度に応募し、始まりました。ゼロからの挑戦でありましたが、多くの皆様に支えられ当時千葉市若葉区、緑区、市原市の千葉県第三区にて政治活動を開始しました。街頭演説のためJR五井駅に初めて立った日の緊張感を今も忘れることはありません。
一年半後の平成八年に実施された第四十一回衆議院総選挙に初挑戦をいたしましたが私の力不足で敗退、浪人生活にはいりました。その間も変わらぬご支援をいただき、平成十二年の第四十二回衆議院総選挙にて初当選、議会活動をスタートしました。
教育分野と労働雇用分野を政策の二つの柱とし、教育分野においては、文部科学大臣在任時に「どんな家庭環境に生まれ育っても本人の意欲があれば学習の機会を与えられなければならない」という信念のもと、日本で初めての返還の必要がない給付型奨学金制度を実現することができました。労働雇用分野においては「働き方を考えることは生き方を考えること」を掲げ、自民党の雇用問題調査会長として政策提言を続けました。
加えて東日本大震災発災時、私は野党として国政に携わっておりましたが、被災地の復興を最大の政治課題の一つとして今も取り組んでおります。
当選七期目、岸田内閣において内閣官房長官に就任いたしました。官房長官として内閣の総合調整を進めると共に沖縄基地負担軽減担当大臣、拉致問題担当大臣、ワクチン接種担当大臣を兼職し、アイヌ問題、国民保護計画にも取り組みました。
本日、当選九回在職二十五年を迎えるにあたり、改めて日本国民の生命・財産を守り、国際平和のため、そして郷土千葉県の発展のために全力を尽くす決意であります。
最後に、長年にわたり私の活動を支えてきた家族、事務所職員の皆さんに感謝をするとともに、何よりも永年にわたる地元後援者の皆様のご指導、ご支援に御礼を申し上げ、永年勤続表彰にあたりご挨拶とさせていただきます。
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細野 豪志君の挨拶
この度、院議をもって永年勤続議員表彰を賜りました。厚く御礼申し上げます。
私の政治家としての原点は、学生時代の阪神淡路大震災のボランティア経験です。社会人になる前の二カ月、被災地である神戸で、厳しい環境にありながら秩序を失わない被災者の方々、懸命に使命を果たす自衛官や行政官の方々、共に汗を流すボランティアとの出会いを通じて、国民のために働く政治家になることを決意しました。
五年間の三和総研の研究員を経て、政権交代可能な保守二大政党という理念に共鳴して、設立直後の民主党の門を叩きました。二〇〇〇年当時、政治経験はゼロ、選挙の条件と言われた「地盤・看板・カバン」も皆無な中での挑戦は無謀と言われましたが、幸運に恵まれて二十八歳で初当選しました。伊豆半島の皆さんによって私は政治家として生み出されました。区割りの変更後、浮き沈みの激しい政治活動を続けてきた私を静岡五区から一貫して国政に送り続けてくださった地元の皆さんに、厚く御礼申し上げます。
二〇一一年、総理補佐官として東日本大震災に向き合うことになりました。菅直人総理の指名を受け、政府の責任者として原発事故対応に当たりました。原発作業員や自衛官の命がけの作業がなければ、あの国家的危機は乗り越えることができませんでした。その後、原発事故担当相と環境相を兼務し、被災地のがれき処理や除染に取り組みました。除染土の再生利用など残された課題については、福島の復興のためにやり遂げなければなりません。
民主党で閣僚や役員を経験しながら、安全保障政策の違いから希望の党、無所属を経て自民党に入党を認めていただきました。このことで与野党を問わず多くの同僚議員の皆様に多大なるご迷惑をお掛けいたしました。ここに深くお詫び申し上げます。
私自身は、初当選から
1安全保障は現実主義
2内政は弱い立場の人のために
3地元の代表として「ことを為す」
この三つの政治理念を大切にしてきました。
2の中で、特に子供の貧困、教育格差、児童虐待などは与野党を超えて取り組むべき課題です。子供たちがどのような環境で育ったとしてもチャンスをつかむことができる、すなわち「ジャパニーズドリーム」を実現できる日本社会をつくるために、残された政治家人生で全力を尽くす決意です。
最後に、二十五年間支えてくれた妻と家族、事務所スタッフに感謝し、謝辞といたします。
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小渕 優子君の挨拶
本日院議を持って永年在職議員の表彰を賜り、額賀議長はじめ皆様に心より感謝申し上げます。
私が初めて議席を頂きましたのは、二〇〇〇年六月の第四十二回総選挙であります。同年四月、首相を務めていた先代の父、小渕恵三が病に倒れ緊急入院。留学先からリュック一つで帰国した私を待っていたのは、意識が戻らない父と、選挙を間近に控えての後継問題でした。
あの日から私の人生が一変しました。
五月十四日、父は帰らぬ人となり、その後は葬儀と選挙の目まぐるしい日々を越え、六月二十五日、弱冠二十六歳で初当選を果たしたその日は、奇しくも父の六十三回目の誕生日でした。
あれから二十五年。ただただ目の前のことに全力を尽くし、いただいたお役を誠意を持って務めていく、その繰り返しでした。振り返ってこのような栄誉を前に、私に何が成せたかと力不足を恥じるばかりです。
今の私があるのは、偏にふるさと群馬の皆様の献身的なご支援と、多くの方々のご指導のお陰です。雨の日も風の日も変わらず応援してくださった地元後援会はじめ、先輩各位、同志の皆様、そして事務所スタッフに改めて心から感謝申し上げます。
私自身、柱として取り組んできたのは、財政政策、アジア外交と人間の安全保障、そして沖縄振興です。かつて私が所属した政策集団は、たとえそれが耳の痛いことであっても、票につながらなくとも、将来の日本の責任と矜持を持って決断を下してきた先人達がいました。その背中から多くのことを学ばせていただく中、私に課せられた使命は、持続可能で平和な日本を次の世代に引き継いでいくことだと考えています。
政治活動と子育て、家庭の両立という綱渡りの日々も忘れられない事の一つです。当時は女性議員の出産は稀で、前例もない中、まさに手探りの連続でした。突然の深夜国会に、寝ている赤ん坊を抱きかかえながら駆けつけたこと、臨月になっての解散総選挙も今となっては良い思い出です。女性議員として、多くの先輩方に助けていただいたように、少しでも後輩たちに道を作っていけるようこれからも努めて参ります。
苦楽を共にしてきた同期の故竹下亘先生、本来であれば先生と共にこの日を迎えたかったです。今あなたのお姿がここにないことが残念でなりません。
結びに、歳をとりましたが今なお変わらず娘を心配してくれている母と、政治家、妻、母である私を受け入れ、支えてくれている夫と子どもたちに心から感謝し、御礼のご挨拶と致します。ありがとうございました。
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会計検査院情報公開・個人情報保護審査会委員任命につき同意を求めるの件
公益認定等委員会委員任命につき同意を求めるの件
公正取引委員会委員長任命につき同意を求めるの件
国家公安委員会委員任命につき同意を求めるの件
公認会計士・監査審査会会長及び同委員任命につき同意を求めるの件
行政不服審査会委員任命につき同意を求めるの件
情報公開・個人情報保護審査会委員任命につき同意を求めるの件
中央更生保護審査会委員任命につき同意を求めるの件
公害健康被害補償不服審査会委員任命につき同意を求めるの件