高良鉄美の発言 (憲法審査会)
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○高良鉄美君 沖縄の風の高良鉄美です。
五月二十一日です。沖縄の首里城が、沖縄戦において司令部のあったところですけれども、陥落をしました。その時期には、世界中で地上戦が行われていたのは沖縄だけです。そして、ヨーロッパの戦争はもうとっくに二週間前に終わっています。そういう状況の中で、瓦れきの山の中で過ごしてきたということです、それ以降。
しかし、日本のこの国会は、実は爆撃はそのまま直撃せず、外は瓦れきの山でした。そして、憲法を作るときに何と言ったかというと、窓を開けて外を見てくださいと、瓦れきの山の中で暮らしている人たちがいると。そこにいるのは、女性の嘆き、子供の嘆き、そして大けがをしている人たち。だから、どんな憲法を作るんだ、それはもう決まっているだろうということです。
これから、憲法と現実のかい離というテーマですけれども、議論というとかなり広範になりそうなテーマなんですけれども、各党各会派の思惑によっては、憲法九条が現実と乖離しているという主張を展開して改憲を訴える場としたいという面も見え隠れしています。
しかし、法の支配の原理、中心である憲法の最高法規性からすれば、違憲状態の氾濫している現在の社会状況、政治状況を取り上げて、憲法と乖離している現実を問題にする場として議論をしていくのが、憲法四十一条で言う国の唯一の立法機関としての国会の役割と言うべきです。
国会が意図的に憲法違反の立法をするわけがないという合憲性推定原理により、国会で作った法律には、まずは合憲だという前提で向き合うことになります。この合憲性推定があるから国会の立法は遵守しなければならないということになるわけです。
ところが、憲法の最高法規性、権力によって侵されない個人の人権、適正手続、権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割の尊重といった法の支配を口にする割には、その本質、内容をまず念頭に入れているのか疑問符の付くほど、平気で改憲、改憲を叫んでいる国会議員がいかに多く存在していることか。合憲性推定を託されている国会議員にもかかわらずです。これも憲法理念と現実の乖離の一つと言ってよいでしょう。果ては、憲法改正をするのが国会議員の義務であるとまで言い放ち、憲法に書かれていない義務を独善的につくり出す始末にまでなっています。
国会が憲法違反の立法をするはずがないとはいっても、多数を握る政党が中心となって、人の支配により、あるいは党利党略によって、何らかの利益誘導で違憲の立法をしたり違憲状態を追認したりすることが歴史的には散見されます。
米軍や安保条約の違憲性が問われた砂川事件も、憲法と現実との乖離の典型例です。
第一審の伊達判決は、駐留米軍及び安保条約は憲法違反と明言しました。しかし、最高裁は、駐日米大使と事前に面談をし、跳躍上告を行うことや判決に関わる内容に言及していました。それだけではなく、統治行為論的理論によって憲法判断を回避しました。内容的には合憲判断と見まがうほどで、米国の考え方に沿うものでした。安保条約や米軍が憲法と現実の乖離を生んだ要因の一つと言ってよいでしょう。
また、憲法と現実の乖離の問題において分かりやすいのは、不平等、不公平、不公正です。このような憲法違反の法律は、是正するか、廃止するか、あるいは憲法に沿った立法を行うということになります。これが法の支配のしっかりとした実現です。
確かに、法律を作る際に立法府の裁量ということはあると思います。しかし、例として挙げますが、障害福祉年金を受給していた全盲の母が、離婚して、子供を育てるため児童扶養手当の受給を申請したところ、併給禁止規定があってその手当は認められず、児童扶養手当法の規定が憲法十四条や憲法二十五条違反として訴えた、いわゆる堀木訴訟というのがありました。
一九七二年、神戸地裁で憲法十四条違反とする判決が下された後に、児童扶養手当法は国会で改正され、併給可能となりました。しかし、問題は、国会が、一九八二年のこの訴訟の最高裁判決で合憲と判断されたことを受けて、何と再改正して併給禁止規定を復活させたのです。果たして、憲法によって唯一の立法機関とされた国会が、憲法二十五条の最低限度の生活を営むために必要だと判断して一度併給可能と改正した規定をわざわざ廃止する立法行為に出たことは、立法権の主体としての地位にふさわしい対応であったかは大いに疑問が湧きます。
最高裁判決において、立法政策上の裁量事項であり、当然に憲法二十五条違反に結び付くわけではないと判断したからといって、国会が、制度を後退させ、明白な不利益的変更を加えて、憲法により適合的な規定に改正したものを廃止する必要があったのか、立法権に対する主権者からの信頼が崩れかねない問題とも言えます。
国会が立法すべき事項を立法しない場合、あるいは改正すべき事項を改正しない場合など、司法の場で立法不作為として問題となり得るわけです。選択的夫婦別姓や同性婚の民法改正問題、谷間世代の司法修習生の給付金不支給問題などは、憲法十四条の法の下の平等に関わる同一線上にあると思います。
安保条約第三条には、「憲法上の規定に従うことを条件として、」と文言がありますが、真に法の支配を生かさなければ、人の支配に陥るだけです。憲法を現実に合わせるように、憲法を政策的に変えていく、あるいはゆがめていくことと、現実を憲法に適合するように政策を策定し実施していくこととでは、どちらが法の支配なのかといえば紛れもなく後者であることを申し上げて、意見とします。