下平正一の発言 (本会議)

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○下平正一君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、元本院議長前尾繁三郎先生は、去る七月二十三日、心筋梗塞のため、七十五歳の生涯を閉じられました。
 私は、ここに、各位の御同意をいただき、議員一同を代表して、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 さきの通常国会でも、しばしばこの議場で、先生のお元気な姿に接した私は、今後も政界の長老として、長く御活躍を続けられるものとかたく信じておりました。しかるに突如前尾先生急逝のお知らせを受けた私は、大きな衝撃と深い悲しみに打たれたのであります。
 いま改めて、ありし日の先生の偉大な足跡と、重厚にして滋味あふるる人間性に思いをいたし、哀惜の情ひとしおなるものを覚えます。(拍手)
 前尾先生は、明治三十八年十二月、京都府与謝郡宮津町に生をうけられました。丹後の宮津は、日本三景の一つ天の橋立を擁し、古くから名勝の地として知られておりますが、素朴で頭脳明晰な前尾先生の資質は、この美しい自然環境のもとで形成されたものでありましょう。
 しかし、当時の町の環境や御家庭の事情から、先生は大阪に奉公に出される運命にありました。このような状況にありながら、先生が宮津中学に入られ、さらに第一高等学校から東京帝国大学法学部へと、最も恵まれたコースを歩むことができたのは、先生のお話によりますと、中学進学を勧めた恩師が、「もし学資ができないなら、自分の月給から出させてもらう」とまで言われ、両親を熱心に説得してくださったたまものであると感謝し、この御恩は、世のため、人のためにお返ししたいと語っておられます。
 先生は、大学在学中、高等文官試験に合格され、昭和四年、卒業と同時に大蔵省に入省、主として税務畑を歩まれました。戦後は池田勇人事務次官のもとで主税局長を務め、GHQとの折衝を重ねつつ税制の立て直しに尽瘁し、多くの辛酸をなめられました。
 その後、造幣局長として大阪に赴任された先生は、政界に入る決意を固め、昭和二十四年一月の総選挙に民主自由党公認として、京都府第二区から立候補、みごとに当選を果たし、政治家としてのスタートを切られたのであります。
 やがて、岸内閣の通商産業大臣として初入閣されましたが、時に戦後十二年、最大の悲願でありました貿易収支の赤字を一挙に黒字に転ずるという至難のわざをなし遂げ、次いで昭和三十六年には、池田総理からの再三にわたる懇請により自由民主党の幹事長に就任をされ、党の近代化に全力を傾注する一方、寛容と忍耐の精神を持って国会に臨まれ、池田総理の期待によくこたえて、その成果を上げられました。幹事長を三期務められた後、総務会長、佐藤内閣の北海道開発庁長官、法務大臣など、引き続いて党と内閣の枢要の地位を歴任され、自由民主党に欠くことのできない領袖として、ますます重きを加えられたのであります。
 昭和四十八年五月、先生は、本院議長に推挙され、議長の重責を担うこと三年八カ月の長きにわたりました。顧みれば、先生の議長在任中には、筑波大学法案、防衛二法案、靖国神社法案、酒税法改正案、たばこ定価法改正案など、与野党が鋭く対立した法案が相次ぎ、さらに昭和五十一年には、ロッキード問題が発生し、四十日間にわたって国会審議が空転するという異例の事態もあり、まことに多難をきわめた時期でありました。
 事態がどのように紛糾しようとも、先生が常に期待したものは、徹底した話し合いによる解決でありました。そして、その話し合いによって得られた議長の判断は最高のものであり、万一それが間違ったり、受け入れられなかった場合には、潔く職を賭すべきであるという気概を持って事に当たられました。ロッキード国会において、前尾議長は、河野参議院議長と相はかり、各党の党首を議長公邸に招いて両院議長裁定を提示し、この事態をみごとに収拾されたことは、私どもの記憶に新たなところでございます。(拍手)
 先生の著書「政の心」は、語源を通じて、政治の本質を説いたものでありまするが、「政」は、字源をたどれば正義と力の調和を意味し、換言すれば理想と現実の調和であると述べられております。先生の政治に対する基本理念は、まさにここに存すると思うのであります。
 先生の遺稿となった「政治家の方丈記」の一節を私なりに要約させていただきますと、「最終的には、多数決によって物事を決しなければならないにしても、国会はあくまでも話し合いの場である。十分論議を尽くして与野党とも熟慮反省の機会を持ち、互いの長所を吸収し合って、よりよい案をつくり、また常に世論に耳を傾け、これを政治に反映するように努めなければならない。」こういうことになろうかと存じます。これは先生の政治観であると同時に、国会運営に対する指針でありまして、私どもは議会人として、党派を超えて、この言葉を深く銘記しなければならないものと存じます。(拍手)
 かくして、前尾先生は、本院議員に当選すること十二回、在職三十二年に達せられ、さきに永年在職の表彰を受けられた経験豊かな政治家でありましたが、その識見といい、風格といい、議会人としての存在は、まさに完成された名器をほうふつさせるものがありました。(拍手)そして、そこに先生の誠実さと人間愛を基調とする深い人間性を見ることができるのであります。
 先生は、また、著書の中で、「性来の愚鈍さのために、人さまには如何にも呑気そうに見えたかも知れないが、私は、私なりに悩みもし、苦しみもして来た。ことに私は政治家となる前に先ず人間でなければならないと信じている。従って人間として人格の完成に精進したいと努めては来たが、生れつきの性癖や欠点はなかなかなおらない。」とも述べられておりますが、この謙虚な言葉の中に、最期までみずからの人格の陶冶を怠ることのなかった、人間前尾繁三郎先生の限りない誠実な姿が如実に示されているように思います。(拍手)
 また、先生は、人との触れ合い、心の触れ合いを大事にされる方でありました。人を楽しませ、皆と一緒になってみずからも楽しむことを無上の喜びとされました。自在につづる酒脱な文章をもって人間の機微に触れる随筆を物し、酒を愛し、玄人はだしといわれた三味線の弾き語りで、小うたを歌い、興に入れば演歌も歌うという、いかにも人間らしい一面ものぞかせました。先生の豊かな感性とともに、人間の尊厳さを守るという理性が渾然一体となって、先生の深い深い人間愛が形成されたものでありましょう。
 政治家にとって一番必要なものは健康だとも言われております。前尾先生が必ずしも健康に恵まれなかったということは、私もある程度は承知はいたしておりました。しかし、御逝去の後に、側近の方々から承ったところによりますと、先生は幹事長時代の重度の糖尿病を初め、幾つかの重い病を患っておられ、ことに晩年は病のために、議員生活の三分の一は病院から国会に通うという、そういう実情であったとのことでございます。先生が政治家なるがゆえに人知れず病と闘い、言うに言われぬ苦悩を背負いながら、党務に、国務に、そして議長として、その職責を全うされたことを思い起こし、胸に痛みを感ずるのであります。(拍手)
 また、政局が混迷するごとに、前尾政権が取りざたされましたが、先生がこれを固辞したのは、病人が政権の座につくことは国民に迷惑をかけることになるという信念に発したものであり、決して世に言う権力からの逃避ではなかったことを知ったとき、私は、改めて先生の崇高な使命感に深い感動を覚えたのであります。(拍手)
 先生は、あすの日本を案じ、次代を担う青年に大きな期待をかけておられました。
 去る七月十八日から四日間、前尾先生主催による恒例の青年研修会がことしも比叡山で開かれました。全国から思想や職業を超えて集まった青年たちを前に、前尾先生みずから講師となり、現下の政治課題と文化国家の建設について長時間講演をされ、若人と寝食をともにしながら、ひざを交えて討論に加わり、日ごろ寡黙と言われた先生が、このときばかりは時のたつのも忘れて語り合われたとのことであります。先生の御逝去は、それからわずか二日後のことでありました。
 先生は、愛する青年たちに別れを告げるかのように、御自身の信念と抱負のすべてを吐露し、静かにこの世を去っていかれました。前尾先生らしい大往生であったと思うと同時に、痛恨やる方ないものを覚えるのであります。(拍手)しかし、先生の精神は、必ずやこの青年たちの心に深く刻み込まれ、あすの日本の進展と世界平和の実現のための大きな原動力となることを信じて疑いません。(拍手)
 ここに、謹んで先生の生前の御功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 109505254X00719811015_004

発言者: 下平正一

speaker_id: 32280

日付: 1981-10-15

院: 衆議院

会議名: 本会議