稲葉三千男の発言 (文教委員会)
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○稲葉参考人 東京大学の稲葉でございます。
私は、今回の育英会法の改正、特に有利子制の導入ということに対しまして反対の立場から少し意見を述べさせていただきます。
私自身は、戦後に旧制の高等学校から大学そして大学院と、約十一年間でございますが、奨学金を受けて学生生活を送った者でございます。そして大学院の五年間につきましては、卒業後すぐに現在の新聞研究所に就職いたしましたものですから返還免除の特典にあずかった者でございます。高等学校及び大学で貸与を受けた奨学金につきましては二十五年の年賦ということで、たしか昨年完済をいたしました。自分が今こうして大学に職を奉じているという、こういう立場に立てるということについても、奨学金の恩恵を非常に受けているということを体験して痛感しているものであります。
まず、私の教育についての考えというのを少し述べさせていただきますが、私は、教育というのは、理念として言えば、人類が人類を生みまた育てていく、そういう活動だというふうに思っております。人類以外の生物の場合ですと、せいぜい環境に適応して進化をするというわけでありますが、人類の場合は、みずからの意思と努力によって進歩するあるいは発展する、そういう進歩発展の中に教育という極めて基本的な活動が位置づけられているというふうに思っております。歴史の中で見ますと、こういう教育という営み、人類が人類を生み育てるという活動が、最初は十数人あるいは数十人というような規模で始まるでしょうし、やがてそれは数百人あるいは数千人というような拡大をしていくわけですが、近代の市民社会が成立しまして近代国家になりますと、国家あるいは国民が国民を生み育てていく、そういう活動になってまいります。そこに近代社会における基本的人権として教育を受ける権利が確認をされ、また、それを無償の教育という形で遂行するということが世界的に広がってきているわけであります。
そういう歴史の流れを踏まえますと、現在二つの課題が浮かび上がってまいります。
一つは、教育の国際化の問題であります。この面につきましては、我が国においてもその必要性が近年ますます痛感をされ、いろいろの施策が図られているように承知をいたしております。
と同時に、もう一つは、教育という活動の全体を無償化していく、教育の機会均等という理念にのっとって無償化していくことが必要でありまして、この点につきましてはしばしば指摘をされますように、国際人権規約の第十三条が「種々の形態の中等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。」さらに「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。」こういうふうに、いわゆる基礎的な教育だけではなくて中等教育から高等教育に至るまで、さらにそれを発展させるならば、成人教育あるいは生涯教育というような問題も含めてすべてを無償化をしていき、教育を受ける権利をすべての人間に対して保障していくことが必要だと思っております。
そういう観点で教育の現状を見ましたときに、一つ出てまいっております問題点は、教育における資本の論理の浸透という問題、裏返して申しますと、教育の論理あるいは文化の論理ということがややもすると軽視をされていく傾きがある。これは具体的な問題としては教育産業、例えば塾というようなことが一つの問題点として指摘をされるかと思います。たしか昨日も、NHKの総合テレビが朝の「おかあさんの勉強室」の時間で、月四万円かかる幼稚園の話をいたしておりました。もちろん父母側の選択あるいは子供本人の選択でそういうお金のかかる教育ということもあってよろしいと思いますけれども、特に公教育あるいは公教育に準ずるような、例えば現在の私立のいろいろな教育機関も含めてでございますが、できるだけそこでは教育の論理あるいは文化の論理で活動が続けられることが望ましい。言いかえれば、資本の論理をできるだけ排除していくことが望ましい。
しばしば教育を語るときに、それは国家百年の大計であると言われ、また一つの歴史的な事実として、長岡藩におけるいわゆる米百俵の例が出されるわけですけれども、そのときの小林虎三郎の論理というのは、まさに今ここにおける利益を追求するのではなくて、どう文化の論理あるいは教育の論理に立って人間を育てていくか、あるいは社会を築いていくか、こういう理念の表明であったと思います。それが米百俵の話を私たちに非常に感銘深いものにしていると思うわけであります。
それが、現実の社会を見ますと、いろいろな形で教育にも資本の論理が浸透しようとしている。そこに財政危機、国家財政の危機ということが言われるわけでありますが、私自身、先ほど申しましたように、戦後間もない時期に旧制高校で学びまして、たしか月六百円の奨学金を受けたと思います。そのころ、私も寮生活を送っておりましたが、よく芋が一切れぐらい乗っかって夕食である、あるいはすいとんを食べてそれで一念終わりというような生活をしていたときでも、奨学金に利子をつけようというような発想は恐らく出ていなかったのではなかろうか、あるいは奨学金をやめようというようなことも恐らくなかったのじゃなかろうか。その辺は詳しくは存じませんけれども、そういう時代に無利子制の奨学金を受けてきた一人として、これからのまさに二十一世紀を担っていくと言われる子供たち、青年たちに対して、今の時代は苦しいのだから本当は無利子がいいのだが有利子も我慢してくれと言うようなことは、親の世代の一つの発言としてとてもできるものではないというのが私の実感であります。どんなに苦しくても無利子制を守っていく、あるいはさらにはそれを改善していくということであれば給付制にしていく、授業料については無償制にしていく、こういう方向こそが歴史の流れを踏まえたものであって、そこへ有利子制を導入し、それによって奨学金を受ける人数をふやすというようなことは、確かに人数はふえているとは思いますけれども、これはまさに資本の論理に教育の論理あるいは文化の論理が屈服していくことであって、今あらわれているところだけを見ればせいぜい二万人が有利子貸与になるということだけのように見えますけれども、教育全体の質の問題として、これは極めてシンボリックな事件あるいは導入でありまして、こういうところから教育の全体がまた変質していくことが予想されるわけであります。
今盛んに教育改革が議論されておりますが、私はここで一つの理念として、資本の論理に抗した、そして本当に人間を進歩させ発展させていく教育の実現ということを国民全体の願いとして受けとめていくならば、教育全体がそういう方向に改革されなければいけないだろうし、そういう改革の一環として奨学金制度も、英才に対して利子を取ってでも与えるということではなくて、すべての人間に給付をしていく、少なくとも現行の無利子貸与ということぐらいは守らなければ子孫に対して顔向けができないのじゃないかというふうに考えている次第であります。
以上で最初の陳述を終わります。