降矢敬義の発言 (本会議)

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○降矢敬義君 議員村田秀三君は、去る一月五日、郷里の福島県白河市において、心筋梗塞のため、忽然として逝去されました。同僚議員として、まことに痛惜にたえません。皆様のお許しを得て、ここに同君の御生前をしのび、謹んで哀悼の辞をささげたいと存じます。
 村田君は、大正十年五月、白河市にお生まれになり、昭和十四年、仙台の逓信講習所を御卒業の後、白河郵便局に就職されました。戦争中は召集を受け、南方戦線で多くの戦友を失い、その悲惨な体験から平和を守る決意を固め、これが戦後に労働運動に入られた動機の一つになったと伺っております。昭和三十一年以降九期にわたり全逓福島地区本部委員長に推挙され、この間、福島県労働組合協議会議長に七期選任され、また福島県の各種審議会委員等を歴任されました。
 村田君は、昭和四十年に参議院通常選挙に福島県から出馬、見事に当選の栄をかち取られ、その後連続四回の当選を果たし、約二十年の長きにわたって活躍されました。
 参議院では、農林水産、建設、商工を初め、数多くの委員会の委員として、広い分野にわたる国政審議に参画されました。国会における村田君の論議は、いつも弱者に対する温かい思いやりにあふれるものであり、マスコミ等で派手に喧伝されている問題よりも、むしろ地域住民の福祉向上につながる地道な問題を丹念に取り上げておられたことが強く印象に残っております。特に社会労働委員長在任中の昭和五十年には、原爆二法の審議に際し、広島、長崎の両県へ国会として初めての現地調査を実施するなど、充実した審議を行い、また災害対策特別委員長在任中の昭和五十二年から五十三年は、有珠山、桜島の噴火、宮城沖地震など大きな災害の頻発した時期でありましたが、前後七回にわたって精力的に災害地を視察し、大規模地震対策法等を成立させ、活動火山対策について委員会決議を行うなどの意欲的な活動を通じて、国民の生活を守るため情熱を傾けられました。
 参議院社会党にあっては、議員総会座長、国会対策委員会副委員長等の要職を歴任し、また日本社会党福島県本部にあっては、昨年まで十一期にわたって県本部委員長の重責を担い、困難な時代を切り抜けてこられました。
 村田君は、広く人を入れる雅量に富み、相手の立場にも深い理解を示される円満、温容の人柄でありました。頼まれると、自分のことは顧みず人のために奔走する責任感の強い人でありました。平素は人の話にじっくり耳を傾ける寡黙の人でありましたが、酒が入れば談論風発し、興至れば独特の佐渡おけさや白虎隊を踊ってみせるという一面もあり、その素朴で庶民的な人柄は、だれからも親しまれ、敬愛されたのであります。
 村田君のまとめ役としてのすぐれた力量は、既に福島県労議長の時代から定評がありました。口八丁、手八丁の闘士たちの中で、誠実そのままに、とつとつと真情を披瀝するはったりのなさが人々の心を打ち、その卓越した調整能力は御人徳によるところも少なくなかったのではないかと思うのであります。
 村田君は、また大変な勉強家でもあり、委員会の質疑に当たっては常に内外の資料を丹念に収集し、問題を自分のものとして吸収し尽くすまで研さんを重ねられ、その政策論議は理路整然として核心をつくものでありました。今次国会では、去る十二月七日の電電改革法案の連合審査会において、商工委員の立場から、アメリカの通信機器市場開放要求と電電公社民営化後の資材調達問題について時宜を得た質疑を展開しておられました。これが村田君の国会における最後の質疑となりましたが、つい最近までの元気なお姿からだれがこのたびの突然の悲報を想像し得たでありましょうか。
 私は、村田君とは党派は異にしているものの、お互いに心の通える同僚議員として深く尊敬してまいりましたが、これはひとり私ばかりではないと存じます。
 ここに重ねて村田秀三君の誠実温厚な人柄と業績をしのび、院を代表して謹んで哀悼の意を表し、御冥福を心からお祈りいたします。
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発言情報

speech_id: 110215254X00519850129_003

発言者: 降矢敬義

speaker_id: 29870

日付: 1985-01-29

院: 参議院

会議名: 本会議