大橋敏雄の発言 (日本国有鉄道改革に関する特別委員会)
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○大橋委員 今の御答弁では、昭和二十二年度末が六十一万人であった、それが現在二十七万七千からまだ減っておるんだろうということで、約三十八年間はかかっているわけでございますが、半分以下に減っているわけですね。いわばまさに人減らし、合理化の歴史であったと言っても過言ではないと私は思うのであります。今も総裁の方からお話がありましたように、私も国鉄の資料を見てまいりましたら、昭和十二年度から十九年度までの採用員数は五十八万人になっております。それから昭和二十年、戦後ですね、二十年から二十三年、三年間で二十五万九千人、何はともあれ戦中、戦後の大量雇用、解雇が原因となってさまざまな問題が惹起され、そうしながら現在に至ったと言っても過言ではないと私は思うのであります。
そこで、最終的な国鉄問題でございますので、歴史を振り返るのも意味があろうかと思って見てみたわけでございますが、戦後の歴史の中で最も深刻な事件が起こったのは第三次吉田内閣の時代でございまして、昭和二十四年五月三十日、十万人以上の人員整理、これも若年層を中心に人員整理をするという法律が成立をいたしまして、二カ月の短期間の間に事件が続発しております。そういう記録が残っておりますが、その二十四年のころは国鉄がストを決行をして拡大しつつあったわけでございますけれども、六月の十日に東神奈川で人民電車事件が発生しております。翌日、マッカーサー総司令部からストの中止勧告が行われております。六月の三十日は、福島県の平警察署が占拠されておる、いわゆる平事件が発生いたしております。七月一日、問題の第一次人員整理基準、九万五千人が発表されたわけです。その四日後の七月五日に、初代国鉄総裁下山事件が発生いたしております。その死因の真相はいまだになぞだと言われておりますけれども、それから七月の十二日に第二次人員整理六万二千人が発表され、その三日後には、七月の十五日、三鷹で無人電車が暴走しております。いわゆる三鷹事件発生で、死傷二十人という記録があります。
このように不祥な事件が続々と発生しているわけでございますが、当時は戦後の混乱期、あるいは思想的にも右と左とに真っ二つに対立して激突している時代ではございましたけれども、時代は、歴史は繰り返されるということわざもあります。既に過激派による鉄道妨害の同時多発事件も起こっておりますし、二、三日前にも変な事件が起こっております。また、きょうの新聞報道等にも「中核派の地雷工場摘発」というような記事まで出ておりますが、最後の国鉄総裁という立場での杉浦国鉄総裁と総理にいかなる心境、心構えで対処なさろうとしているかを最初にお伺いしておきたいと思います。