中山正暉の発言 (国際連合平和協力に関する特別委員会)

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○中山(正)委員 私は、若いときから大変親しくさせていただいております海部総理、最初に選挙しましたときの推薦状に一文を寄せていただいた
その若いときから、若き指導者としての期待をかけておりました海部総理がここに座っておられて、ここから御質問申し上げるというのは感慨無量でございます。時間がたったなという気もいたしますが、それだけに日本の情勢も大変変わったな、世界の情勢も変わったな、そんな気持ちでここへ立っております。
 それから、私事にわたりまして恐縮でございますが、兄貴の中山太郎が隣に座らせていただいておりまして、親戚筋からこんなことを言うのはおかしゅうございますが、かなりしっかりやっておるような感じもいたします。ことしはちょうど私どものおやじの十三回忌に当たります。いい供養になっているなという感じがいたしますが、きょうは、そういう私どものおやじも、これはまた恐縮なんでございますが、かつて戦前、ちょうど兄貴が生まれましたときに最初に立候補して落選をいたしました。フルネームを書かないと当選にならなかったころでございますけれども、中山福藏、福藏という名前が難しい、それで落選したのだと思って、兄貴には太郎という簡単な名前をつけたわけでございます。私は、ちょうど昭和七年、おやじが当選をした年に生まれましたので、私は兄弟余り似通ってない。四郎とかそんなことはついておりません。おやじは、ちょうど昭和十五年の東條陸軍大臣に兵庫県の齋藤隆夫代議士が反軍演説をしましたことを、ちょうど進行係を四年間やっておりまして、弁護士でございましたから、国会で除名を齋藤隆夫が受けるというときに、除名をしてはいかぬ、特に、すぐ判決がおりてもすぐに刑を執行するというようなことはいかぬと言って反対をしたものですから、おやじはついに、永井柳太郎先生にしきりに誘われましたが、大政翼賛会には参加しませんでした。そのために、昭和十六年の選挙が十七年に戦時体制で延びましたときに、非推薦で落選をいたしました。大都市で影響があったのだろうと思います。海部総理の師匠であられた三木武夫先生は、そのときに四国から当選をなさいました。若き二十九歳の代議士として国会に出てこられたそのちょうど同じ年月になっております。前は、この席で私が日中条約のときに質問いたしましたその日におやじは亡くなりました。何となく因縁を感じながら、ひとつ日本のために外務大臣も頑張ってほしい、心から、親しき仲にも礼儀あり、敬意を表し、これから総理大臣、各大臣に御質問申し上げたいと思います。
 実は、皮肉なことを言うようでございますが、私は、私がもしこういう事態に至っておったら、いろいろな要請に対応するのにもう少し暇をかけたのじゃないかなと思うのでございます。なぜかと申しますと、先般、党内の、私は外交調査会副会長をさせていただいておりますから、その席で、国連平和協力といいながらおかしいではないか、協力をするにしても国連の憲章の五十三条と百七条には敵国条項というのがある、それがあるのに平和協力法案という名前は一体どうしてつくのだろうかという一つの疑念がございます。その話をして、国連に演説に行った外務大臣が国連での演説で、その敵国条項を何とか見直してほしいという演説の中に入ったようでございますが、まずその国連憲章の中の敵国条項に対しまして、これから日本はどんな手を打ってこれの改定に努められるのか、その辺からひとつ御答弁をいただきたいと思います。

発言情報

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発言者: 中山正暉

speaker_id: 32328

日付: 1990-10-30

院: 衆議院

会議名: 国際連合平和協力に関する特別委員会