中山正暉の発言 (国際連合平和協力に関する特別委員会)
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○中山(正)委員 先ほどドイツの話をいたしましたが、ドイツの基本法の中にはこれだけの有事立法がちゃんと書いてあります。有事立法、特に百十五条なんか「戦争・非常状態」。日本の憲法の中にはそういう非常体制がありませんし、世界で珍しい憲法、戒厳令規定がないという不思議な憲法が日本の憲法でございます。いざというときに、もし総理大臣が山の中へ連れていかれて誘拐をされたら総理大臣のない日数が続く、これどうしようもないという、そういうときにどうするかというのは一切書いてないのが日本の憲法でございます。
それはマッカーサーがいて、吉田茂とマッカーサーという人は七十六回会っております。その会ったときにはいつも、自分がやめて帰るときには必ず日本の安全と平和のことをちゃんと考えて帰ると言っておったのですが、御承知の昭和二十五年の六月の二十五日に朝鮮動乱が起こりました。そのときマッカーサーは、中共軍、中国の戦闘参加によって、満州に二十六カ所に原爆を落とすということを言ったわけでございます。これがそのころ、もうちゃんとアメリカのアチソン秘密文書という秘密文書がありまして、中国の抱き込みを考えておったのが朝鮮動乱の一年前でございます。びっくり仰天したトルーマンは、マッカーサーの首を突然切りました。私は学生でございましたが、突然帰るマッカーサーに同情をしてアメリカ大使館の前まで、あのすばらしいトレンチコート、我々から見たら格好がいいなと思いましたが、それから、マッカーサーがかぶっていた帽子というのは、あれはフィリピンの元帥の帽子でございました。あれはアメリカの将軍の帽子ではございません。一生着ておりましたのは、フィリピン国の元帥帽をかぶっておりましたが、あのフィリピンの元帥帽をかぶったマッカーサー、私は大使館の前へ学生服を着て見送りに行ったものでございます。
しかし、今から考えると、アメリカの中国を抱き込もう、そのためには中国と戦争をしながらそういうことを考えておったという、時代をしみじみと感じるわけでございますが、特に吉田茂が、今海部総理がおっしゃったようなことをうまいこと言っています。
鈴木内閣と幣原内閣の外務大臣であったので、吉田茂はアメリカ製憲法の成立事情には一番詳しく知っている日本人の一人だ。彼の著書『回想十年』を見ても「第九条の軍備廃止、戦争放棄を発案したのは幣原さんではない。たしかにマッカーサーだ」と明記している。英語の憲法草案をホイットニーやケイジスから
このホイットニーという人は、これはフィリピンで弁護士をしておりまして、このフィリピンで弁護士を開業をしていた人を彼は突然軍籍に、陸軍に引きずり込んで、ずっとこれがいわゆる政治局を担当した人でございます。ホイットニー、それからケイジス。ケイジスというのは、この人は共産主義者だと言われて、マッカーシー旋風で突然日本からこの人もアメリカへ連れ帰られました。だから、このケイジスという人を私はテレビで見ましたが、日本の政治家の中でだれを一番尊敬するか、野坂參三と言っておりました。その人が憲法をくれたのですから、ありがたい話だという感じがするのでございますが、その
押しつけられた情景についても詳しく書き残しているが、同じ本の中に”にもかかわらず、この憲法を改めるなどということは特に考えずに、とにかくこのまま手を触れずに維持していたほうがよかろう”と書いてある。これが問題だ。
なぜ吉田茂は、占領終了後の回想でこのようなことをいったのか。アメリカ製憲法草案を受入れるときには、とにかく占領さえ終れば自主的に改めることができると吉田茂は考えていた。サンフランシスコ講和条約のときにも、とにかく相手の言うがままの講和条約と安保条約を受け入れて、一刻も早く日本を独立させたい、独立さえすればどうにでも改正できるという、吉田独特の楽観主義があった。米国製憲法受け入れの時にも同様に軽く考えていたらしい。
占領憲法が発布されると間もなく朝鮮戦争が勃発したために、アメリカは日本弱体化から再武装に方針を変え、ダレスを派遣して再軍備を促してきた。吉田は、ダレスの申し出を断わるための方便として憲法を持ち出し、「これはアメリカが作った憲法だ。しかも日本の国会で承認されて発布したもので、この憲法によって軍備はできないのだ」と憲法を盾にして再三のダレスの申し出を逃げ切った。軍備と日本防衛をアメリカに押しつけたという点では、このアメリカ製憲法は大いに役立ったわけだ。
なかなか吉田茂のずるさがここに如実に出ております。
マッカーサーがまた後にジョージ・H・ブレクスリーという人に言っております。これは「極東委員会国際協力の研究」という、一九四五年から一九五二年にかけての、米国務省出版部、一九五三年、昭和二十八年でございますが、マッカーサーの談話が載っております。どんなによい憲法でも、日本人の胸元に銃剣を突きつけて受諾させた憲法は、銃剣がその場にある間だけしか保てないというのが自分の確信だとマッカーサーは語った。占領軍が撤退し、日本人の思いどおりになる状況が生まれた途端に、彼らは押しつけられた諸観念から独立し、自己を主張したいという目的だけのためにも、無理強いされた憲法を捨て去ろうとするだろう。これほど確かなことはないと彼は語った。
それから私が申し上げたいのは、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約という条約があります。これは明治四十年、ハーグで締結をされまして、明治四十五年に日本は批准をしております。この陸戦ノ法
規慣例ニ関スル条約の四十三条、ここには「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ。」つまり、相手の国に上陸作戦をやって、陸上戦闘をやって機関銃を撃ちまくっても、そこに自分の法律を押しつけちゃいかぬと書いてあるわけであります。私は、完全にアメリカはこの条約違反をやったと思います。
日本は、昭和二十年の四月の一日に米軍が沖縄に上陸しました。慶良間列島に上陸をしたのは三月二十六日でございますが、あそこで集団自決がありましたのは、太平洋の側から上陸するのかと思ったら、反対側に回って上陸したわけでございます。突然来た。島の人たちが手りゅう弾で穴の中で死んでいきました。私はそこへお参りもしてきました。六月の二十二日——大田少将は十六日に死んでおります。あの海軍ごうの中で自殺をしておられます。「大君の御旗のもとに死してこそ人と生まれしかいぞありける」という辞世の句であります。牛島中将は「秋待たで枯れゆく島の青草は御国の春によみがえらなむ」。長勇と一緒に腹かっ切って、沖に泊まっている千七百隻のアメリカの軍艦を見ながら、そこへ突っ込んでいく特攻隊を見ながら死んでいきました。バックナーという司令官も日本の狙撃兵に殺されています。アメリカ人が一万八千人、日本人が十八万人死にました。陸上戦闘だけ沖縄で起こったわけでございます。
日本はありがたいことに上陸作戦は、天皇陛下が、日露戦争はアメリカが間をとってくれたから——今度の日米戦争は、ロシアに間をとってもらう、まあ泥棒にかぎを預けに行ったわけでございます。残念なことをしました。そのときにソビエトにおられた佐藤尚武大使、どうしておられたのかなと私は「戦中戦後日ソ交渉史」というような本を読んでみると、しみじみと感じるんです。昭和十七年の四月の十八日に、私は小学校三年生でございました。私は防空ごうに初めて入りました。それは、ホーネットという空母から、真珠湾攻撃の逆に、B25を使って東京を奇襲攻撃したわけです。そのときソ連とちゃんと約束して、もうシベリアに着陸することに約束しておったわけでございます。佐藤尚武大使は乗員とそれから飛行機を渡せと言っているのに、スターリンはナシのつぶてでございます。このときに見抜いておかなければいけなかったのですね。
演説をしてしまうといけませんので、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約違反を条約局長、どう見ておられますか。それをアメリカに私は言うべきではないか。この間、オハイオ州の下院議員の奥さんが私に、CNNの放送に日本人の日の丸が見えないじゃないかと言われました。何も協力していない。とにかくCNNに出てこない。若いオハイオ州の下院議員の奥さんでございましたが。それを考えると、そういうときにアメリカに、いや、あなた方がくれた憲法で出られないんですよと、吉田茂のまねしたらいいんです、あなた方の先輩の。そのずるさをひとつ今の外務省、学んでいただきたい、こう思います。ひとつ御答弁をお願いします。