岸本重陳の発言 (予算委員会公聴会)
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○岸本公述人 何せけさ三時過ぎまでテレビを見ておりまして、テレビを見ながら気になったことをちょっと中東関係の専門書を引っ張り出して読みふけっておりましたら朝の五時半になって、ちょっと起きるのがつらかった次第でございます。先生方も皆さんそうじゃございませんか。
きょう私は、経済学者として予算案についての意見を述べたいと存じます。
御承知のとおり、予算案を発表されますと、大蔵原案の段階ですが、大蔵省が苦心のごろ合わせを発表いたしますね。ことしのはもう実に苦心の跡がしのばれるものでございまして、なぜかというと百万円単位まで読み込んでありますものね。七十兆三千四百七十四億千九百万円、これを「なるさ世の中良い暮らし」、大分字を補わないとこのごろ合わせが頭に入らない。その意味では、ごろ合わせとしてはいささかうまいとは言いかねる。しかし、七十兆三千四百七十四億千九百万円、九百万円台まで読み込んだごろ合わせというのは前代未聞、御苦心に対して敬意を表さなければいかぬと思います。
しかし、私は大蔵省のごろ合わせが発表されると、いつも対抗的に自分のごろ合わせを発表しまして、そして原稿を頼まれたりしたらそれに書くことにいたしております。ことしのは単純明快、そんな百万円台のところまで覚えるというのは皆さんに難しいから、一般の人が来年度の予算規模を頭に入れるのには、なるべくわかりいい数字、億円のところまでぐらいでいい、そう思っています。そうすると、七十兆三千四百七十四億円、七〇三四七四、これ簡単に言っちゃえば、七〇の零をローマ字読みでオーと読みまして、私が当てているごろ合わせは「なお民用なし」。民用というのは変な言葉ですが、要するにまあ民需用といいましょうか国民生活用というか、それがなお足りない。「なお民用なし」。三四のところをもし素直にサンヨと読みますと、参与、参加しあずかる、「なお参与なし」と言ってもよろしい。
予算編成過程というものが御承知のように概算要求の段階から始まる。私も国立大学の現場におりますので、平成四年度概算要求の大学現場からの取りまとめの現場責任者として、もう去年の秋以降苦労いたしております。この四月ごろに大学で取りまとめる、そして出す、それをもう随分前からやっているわけですね。そういう意味で、公務員としてはまさに職を通じて、自分の職責を通じて予算編成に現場のメンバーとして関与はいたしております。しかし、国民全体あるいは市民レベルで見て、予算編成というものに市民参加というのがあるかどうかというと、怪しいですね。もちろん予算編成のプロセスで、いろいろな圧力団体が皆さんのところにいらしていろいろな要望をなさる、皆さんそれをお受けになって頑張る、それは一つの参加のプロセスです。しかし、それだけのことであったらやはりそれは不透明で、自分の属している団体の枠で、何というのでしょうか予算編成への参加のルートは開かれているけれども、それを自分の、その枠を離れて考えてみて意見を述べるといったチャンネルが非常に小さいと私は思います。
そして、ことしの場合、非常に奇異な感じがいたしますのは、大蔵原案、政府原案の取りまとめの責任を持たれた大臣が、予算案編成と同時にみなかわってしまう。予算案の編成についての所管大臣としての抱負経綸、信念、そういうものがおありだったはず、またそういう所管大臣の政治信念や政策や、そういうものを反映するものとして予算案というのが編成されていいんだと私は思う。ところが、案が編成されたと思ったら大体はかわっちゃった、こういうのは甚だしくその予算編成というものの意義を軽んじることになりはしますまいかと苦言を呈したいところであります。
さて、限られた時間に膨大な予算書のあれやこれやまで申し上げるわけにはまいりませんので、歳入面と歳出面についてそれぞれ若干のことを申し上げて、責めをふさぎたいと存じます。
この九一年度予算案、平成三年度予算案というのは、日本経済が、あるいは世界経済が九〇年代に入ってこの二十世紀末最後の十年間というものを乗り切っていく、あるいはこの最後の十年間に、先ほどお触れになった地球環境問題を初めとするさまざまな人類史的課題にチャレンジする、その中でも日本はまた格別の責任を持っている、義務も持っている、可能性も持っている、それにこたえるべき九〇年代財政のいわばスタートだと言ってようございます。
日本の場合、その九〇年代財政の課題としてやはり明記すべきは、何といっても財政再建であります。特例公債の発行をしなくても予算が組めるようになった、これは財政再建の第一歩ではあります。皆さんの御努力の成果と言うべきでありましょう。しかし、特例公債の新規発行をしなくなっても、過去の累積国債の利払いというのはまだ続くわけでありまして、一般会計歳出の三割を超えるぐらいの部分が利払いに取られている。したがって、一般会計の歳出規模を大きくしましても、それの実質的な政策的運用といいましょうか施策の実行という点では、なお片手ぐらいは背中に縛られたまま行動しなきゃいかぬ、そういった状況にある。そういうことが指摘できるかと思います。
それで、その財政再建のためにどのような手だてを尽くすのかということが、どうもまだはっきりしないのじゃないでしょうか。景気がよければ自然増収が期待できていろいろやれるとか、それから税制改革の面ではそれは工夫がありました、利子課税についておやりになった、二〇%源泉徴収するぞということになった。国債の利払いを、国債を買った人がその利払いを受けると二割税金に持って行かれる。みんな返してくれると思ったら、二割も国庫に吸い上げられちゃう。これは財政再建の上では、国債償還の上では実に巧妙なシステムだと評価すべきものでありますね、国の立場からすれば。しかし、全体としての財政再建の方途というのは、目に見えていないと私は思います。
なぜならば、税制改革というものが、やはり全体像が見えてない。例えば消費税をおやりになった。私は欠陥消費税だと思います。益税という変な言葉があります。利益の益と税金の税。これが物すごい額に上っている。大蔵省は数字をつかんでいるだろうと思いますが、ともかく当初予想、消費税導入時の大蔵省の当初予想だって、物すごい規模の消費税差益といいましょうか、滞留する部分がある。買い手からは消費税として取っておきながら、国庫には納入されない部分、それが業者の手元にとどまっている部分、これがすごい規模である、こう言われているわけですね。そういった欠陥を最初からはらんでいることを承知の上で導入なさった以上、これは税の、徴税の公平という観点からいったって早急にこの改善がなされるべきであることは、言うまでもありません。
しかし、それについて今回手もつかないということになりますと、消費税問題一つとったって、税制改革は緒についてない。しかも、消費税というのは税制改革全般の中の一つとして位置づけられたはずでありまして、そうすると、そこにさえ見直しの手がつかないということになりますと、財政再建の前提となるべきあるいは手段となるべき税制改革の全体像が見えていない、こういうふうに厳しく言わざるを得ません。
いわゆる地価税あるいは新土地保有税についても同様でございます。固定資産税との整合性いかん、税概念として、税理念として、税理論として、その整合性いかん、あるいは実際上の徴税、課税の技術面から見ても整合性いかん、こういうことは十分に問題になりますし、また〇・三%、初年度〇・二というような税率で所期の目的を達成できるのか、土地保有税に託された目的を。それも大いに疑問でありますし、そもそも土地保有税というものを考えるならば、それは土地価格全体をどういう方向に持っていくか、こういうことの位置づけの中で正確な、精密な議論の上に持ち出されるべきものでありますが、例えば四百三十兆円の公共投資をこれから十年かけてやる。そのときに土地の価格がネックになりはしないかというような問題を抱えている中で、それとの関係もなしに〇・三だ、〇・二だ、初年度はあめ玉で〇・二だというようなことで所期の目的が達成できるのか。目的達成できるかどうかよりも、新たな不合理を生みはしないかという大きな懸念を持たずにはいられません。
歳入面に関してはもう一つだけ簡単に触れます。
それは、いろいろな政策課題がある。その中で九〇年代の本格的なスタートでもあるということで、公共投資のSIIで要求されていることも盛り込みたいということで大変苦心の予算編成になっていることは認めますが、そのいろいろな新規事業をやろうということと、それから赤字国債を出さないようにしようというような財政再建上の要請、それと何とかつじつまを合わせようというその努力はどこで達成されているかというと、結局地方財政へのしわ寄せという形で数字がつじつまが合った、こういう格好になっていると思われます。しかし、今触れた公共投資の実現、これは主たる主役は何といったって自治体でありますから、地方財政にしわ寄せを負わす格好での中央政府予算の編成だけでは、中央政府ではバランスがついていても国全体で果たして望ましいバランスの姿になっているかどうか、これはやはり深刻に検討すべき問題ではないでしょうか。
歳出面について簡単に触れるしか時間を残さなくなってしまいましたが、私、九〇年代十年間で一番大事な問題は二つあると思いますね、日本経済の課題として。それは、何といったって生活基盤というものをできるだけ他の先進国の水準に近づけていく。十年しかありませんから、十年で他の先進国の水準に追いつき追い越すというのはやはり無理だろうと思いますよ。だけれども、できるだけ近づけていくということは、これは可能だと思う。
そのときにやはり一番問題になるのは土地価格でしょう。一九五五年、昭和三十年、日本の土地の値段と賃金との比率がほぼ戦前の賃金対土地の値段の比率になった。だから、そこで賃金対土地の値段を今一対一になったというふうに考えましょう。そうすると、一九八九年、三十五年間のうちに土地の方は百八十倍、賃金二十倍。一対一からスタートしたものが一対九になって、かつてなら十年勤労所得をためたら土地が手に入ったかもしれないけれども、それが一対九にまで伸びてしまったら九十年働いて九十年ためてと、いかに長寿社会になったとはいえ、これはもう期待する方が無理、こういう事態に今なっちゃっているわけです。したがいまして、公共投資を生活基盤中心で拡大していくということを、水準アップしていくということを実現するためには土地の価格をどうするかということ、これは大変問題です。
三十五年間で九対一まで差が開いちゃったやつを今、土地の値段を今の水準で固定して、凍結して後上がらないようにする、こうしたって、賃金を今後何年間かで九倍にしなければ一対一の比率は回復しない。十年で持てる、八年で持てるというふうな、そういう水準には回復しない。賃金を九倍に持っていくなんてことは今後何年かけてやるか、これを想定するにしても容易ならぬことであるのは明らかです。
土地の値段をできるだけ下げましょうというふうに言うのも、これも口で言うのは簡単だけれども、現在の日本経済の体質の中に、土地の値段がこれほど高いあるいは土地の値段というものは下がらないということを前提にした経済ビヘービアが至るところに組み込まれている以上、これが下がるということになれば日本経済のかなりの骨格に影響する、パフォーマンスにも影響する、そこをどう誘導しながらやっていくか、そういう角度から歳出の全体的な戦略が立てられるべきではないかというふうに思います。
もう一つの課題は、何といいましても高齢者の増大に対してどう対処するかということであります。
念のために申し上げておきますが、二十一世紀になったら高齢化社会が来る、そういう考え方はやめていただきたい。高齢化社会というのは、日本で化けるという字を使いますから、化け終わっちゃった後が高齢化社会。高齢化率が一四%なり一五%に達したら高齢化社会になって「そこまではまだ高齢化社会ではない、そこに近づいていくプロセスだ、こんな理解が広まっておるのですけれども、欧米の理解でいったら、例えば英語で言って高齢化社会とでなのはエージング・ソサエティーでありますから、社会の高齢化が進んでいるその一歩一歩が高齢化なんですね。
現在日本でなるほど高齢化率はまだ一一%台。しかし、お年寄りが住んでいる地域で見たら、私の田舎、兵庫五区でございますが、あそこなどはもう高齢化率は二〇%を超えているわけですね。日本の至るところ、地域で見たら、高齢化社会は来ているのです、十五%基準を当てはめたって。現にお年寄りは高齢化の中で生きているわけですね。そういう意味ではできるだけ年々、現に高齢化社会の中に生きている地域の老人のために万全の高齢化対策が上乗せされていくのでなければいけないと私は思います。まあ昨年度から「高齢者保健福祉推進十か年戦略」というのがスタートしているようでありますけれども、それの実際の充実のさせ方は余りにも遅々としているのではありますまいか。もっと重点的にやるべきものであろうと思います。本当はここをもう少し丁寧に申し上げたいのでございますが、与えられた時間がほとんど尽きかかっているようでございます。
さっき市川先生が同業の研究者の立場から、日本の国立大学や研究所の施設設備、予算状況はひどいよとおっしゃいました。私も現場におりまして全くそう思います。そして私、これは期待されている役目じゃないのですけれども、せっかくここにお呼びいただいたので、この際諸先生方のぜひともの御理解を得たい。まあ、どうなんでしょう、公述よりも陳情になっちゃうかもしれませんが、どうか文教政策、それも国立大学についての政策をしっかり考えていただきたいと思います。
例えば従来、学費が私立よりうんと安かった。貧乏秀才は国立大学へ来た。国立大学へしか行けないという人たちがたくさんいた。しかし今、私学と国立の学費格差はだんだん狭まってきて、何も大学レベルだけじゃないですね。公立なんというのは私学の滑りどめというふうなぐあいに至るところのレベルになっている。何のための公教育か、このことがもう一遍、原点から問われていいんじゃないでしょうか。
しかも、大学レベルで申しますと、大学の予算配分が特に人文・社会科学分野で申しますと旧帝国大学中心になっていて、横浜のような全国第二位の大都市、ここにある私どもの大学でさえ人文.社会科学分野には大学院ドクターコースはない。しかし、世界の各地から私どもの大学にやってくる連中はドクターコースに行きたいわけですね。だけれども、それを受け入れる我々の能力というのは、人文・社会科学分野は旧制大学院だけでいいんだというような政策の結果、対応がうんと狭められております。今市川先生おっしゃったように、地球環境問題一つとったって、それはもう単に自然科学の問題ではない、人文・社会科学との協力がなければ問題は解決しない。経済開発の問題、湾岸の後に日本が大きく負わなければいけない経済再建の問題、そういう開発、発展という問題をとってみたって、これは宗教の問題から文化の問題から、もちろん経済政策から財政、金融、資金のファイナンスの問題から全部動員しなければ総合的な政策というのは立たない。そういう意味では、全国津々浦々に社会科学、人文科学でしかるべきレベルの教育施設が展開されていること、これは二十一世紀をにらんで日本が世界の期待にこたえる上で非常に重要なことではなかろうか、かように申し上げたいと存じます。
不十分でした。終わります。(拍手)