中山正暉の発言 (予算委員会)

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○中山(正)委員 ありがとうございました。
 確かに、今繁栄をいたしております日本でございます。平和は情熱を殺し、不安は情熱を生むということわざもありまして、平和がかえって緊張感を欠く。この繁栄、経済繁栄の日本、今副総理がおっしゃったように、こういうときこそ私はよほど心を引き締めて世界のために対応する日本でなければならないと思いますし、ヘーゲルという人の言葉に、神は世界を統治する、その統治の内容、その計画の遂行、それが世界史であるという言葉があります。長い間、一九一七年に革命が起こりまして、神様は死んだと言われておりました、世界の大きな部分を占めます、日本の六十六倍もありますソビエト、ロシアに神様がよみがえったわけでございます。
 これからが大変日本はその対応が大きな責務を要求されると思うのでございますが、総理大臣がお座りになっているそのお席は、一人で何代もおやりになった総理の代を数えませんで数えますと、二十八人目でいらっしゃいます。昭和十一年の十一月七日、ちょうどその年には二・二六事件が起こりまして、この国会がまだ開設されておりませんときに、軍隊がこの中を通り過ぎていった。その後、天皇は近衛文麿に大命を降下なされますが、近衛文麿はこれを断ります。そして、これまた宮澤喜一総理とは大変御縁の深い吉田茂、広田弘毅さんと大変仲のよかった方でございますけれども、この方と近衛さんが、広田弘毅にぜひ引き受けてくれということをおっしゃるわけでございます。吉田茂さんはどう言ったかといいますと、軍服を着た者は困る、背広の似合う人がいい、こうおっしゃって、三月の七日に御要請を受けられて総理大臣に御就任なすったのが広田弘毅さん、そして初めてこの国会ができてお座りになったのがその席でございます。しかし、残念なことに、ついにA級戦犯で六人の将軍と一緒にたった一人の政治家として絞首刑になられました。
 昭和十一年あたり、特に二・二六事件というのは、自由主義政治家がみんな殺されたんです。高橋是清というような財政通の政治家がいました。この人は日露戦争のときにも、ロシア皇帝がユダヤ人をいじめるならば、日本がそれに対して戦ってくれるならば金を貸そうといって、クーンロエブとかシフとかいうような大財閥が協力しました。日露戦争の戦費は十八億円でございます。外債が六億円、国内債わずか四億でございます。そうして、世界的なお顔のあった高橋是清のような人が気の毒に昭和十一年の二月の二十六日に亡くなっていかれました。
 それから昭和十六年の十二月八日に至るわけでございますが、ちょっと外務省にお願いをして、今アメリカで出ている、これが全部は通るわけじゃございませんが、大体二十三本ぐらい日本関係の法案が出ております。その中に、ハワイ真珠湾での式典を盛大にやろうというパールハーバー追憶の日と定めるものというのが大変たくさん出ております。ハスタード決議案、これはハスタード下院議員、アメリカのイリノイ州、十二月七日をパールハーバーの追憶日と定めるもの、これが下院の郵政委員会、これは郵政委員会というのは切手を出すためで、記念切手が出る。まあ残念なことでございます。記念切手が出る。それから公務員委員会、五月の二十九日に下院を通過いたしまして、六月の二十六日上院を通過して、七月の九日に成立をいたしておりますが、まことに十二月七日、ハワイでの集会が気になります。ブッシュ大統領が日本にお越しいただいて、私は、多分日本で、きのうも大変いい演説をしてくださっています、日本にお越しになって、もうそういう日米の問題を改めてお互いが傷つけ合うようなことはやめたいというようないい御演説をなすっていただいて、それを日本でやられて、それからハワイヘ行かれて真珠湾で演説をされて、世界に日米の関係を強調していただくのだと私は思っておりましたが、お越しにならないことになってしまいました。
 私は、この日米開戦というのは、オタワ協定といいますか、四十五カ国で障壁をつくって日本を入れないということにしたために、第二次世界大戦の遠因はそこにあったと思います。ブロック化して経済をやると、それが日本が東南アジアの石油を押さえに行こうとか、有本も急速な経済発展をしているときでございましたからどうしてもエネルギーが要る。そこへ手を出したということが私は大変まずかったと思うのですが。
 しかし真珠湾、これは国会図書館で借りてまいりましたのですが、「滞日十年」というアメリカのグルー大使の回顧録の中に、何と一九四一年一月の二十七日「東京では日本が米国と断交する場合、大挙して真珠湾を奇襲攻撃する計画を立てているという意味のうわさが盛んに行われている。私が、これを米国政府に報告したことはもちろんである。」何と十二月八日の開戦を既に一月の二十七日、グルー大使の日記帳にもう書いてあるのです。
 これは、私が調べましたら、昭和十六年の一月の九日、新しく連合艦隊司令長官になりました山本五十六さんが、豊後水道にとまっていた戦艦長門が連合艦隊の旗艦でございましたが、その旗艦の艦長室で及川海軍大臣に対するハワイ真珠湾攻撃の上申書を書かれたようでございます。それはもうアメリカの諜報部は一月の二十日に入手していたそうです。真珠湾攻撃って本当に奇襲攻撃だったんだろうか。特に昭和七年にアメリカ大海軍がハワイの攻撃を想定した大演習をやっておりますが、若き山本五十六はそれを海軍武官として実地に視察しています。その計画のとおり真珠湾攻撃をやっています。一体どういうことだったんだろうか。実に残念でございますが。
 もう一つは、リヒャルト・ゾルゲ、これはドイツのフランクフルター・ツァイツングという新聞社の新聞記者で、それがドイツのナチス党の党員で右翼だと思われてました。ところが、それが上海時代に、尾崎秀実という総理大臣のかばんを持っていた人とスパイ行為をしたわけでございます。今のちょうど国会図書館のありますあたりがドイツ大使館でございました。オットー大使はそのリヒャルト・ゾルゲに満幅の信頼感を置きまして、秘密書類を広げたまま外へ出る。ゾルゲは、この間NHKがそれを二日間にわたって放映をいたしましたが、リヒャルト・ゾルゲが全部スターリンに知らしていた。戦後スターリンは、ソビエト革命以来最大の英雄であるというので、ゾルゲ通りという通りを、ゾルゲ通りへ行きますと、レーンコートの襟を立てていかにもスパイらしい銅像が立っております。さすがお墓へ行っても彫像だらけのソ連らしい、大変思い出のある銅像だと思って感慨深く眺めてまいりましたけれども、そのゾルゲもアメリカに全部通報をしておりました。
 また情けないことに、ドイツは六月二十二日にスターリンを、モスクワを攻撃を始めました。その後七月の六日に、日本の東条英機その他将軍連中はドイツ大使館に呼ばれまして、日独秘密協定があるので、ドイツがソ連を攻めたら日本はシベリアを攻撃してくれ、こういう約束になっているから攻撃してほしい、こう言ったのに対して、将軍連中はそっぽを向きました。それは、昭和十四年の五月の十二日、ノモンハン事件でございますが、このノモンハン事件の陸軍参謀本部の攻撃計画から目的、全部これは総理大臣のかばんの中からソ連に行っていたわけでございます。二万五千が二万人全滅いたしました。それに懲りていた将軍運中はそっぽを向きました。
 そのそっぽを向いたのを隅っこで見ていたリヒャルト・ゾルゲが、九月の十二日でしたか、ソ連に対して、日本軍シベリアを攻撃せずと、その通信を受けたスターリンは、ザバイカルの軍団、戦車師団三個師団と二個師団の狙撃師団が全部レニングラード攻防戦に移りました。そのためにドイツは、十二月六日に冬将軍に襲われてUターンを始めました。そのUターンを始めた二日後、それはドイツにいた大島大使、この人が、日本の大使なのにナチスの党員になっていたわけでございます。これが日本に、ドイツが負けているということを通報しなかった。ドイツが負け始めて、特にゾルゲと組んでいた尾崎秀実というのは、日本がシベリアを攻撃しなくてもドイツが勝ったらぬれ手でアワでシベリアが手に入るということを言って、内閣の閣員を説得したようでございます。その十二月六日にUターンを始めた二日後に真珠湾を攻撃しているのです。
 歴史というのは、後から悔いてもこれはどうしようもないものでございますが、非常に残念な歴史といいますか、日本の失敗の歴史、私がここで申し上げるのは、もう私でも六十でございます。私が小学校三年生のときに戦争が始まりまして、私が中学一年生のときに戦争が終わりました。爆撃の中を学校へ、飛行機が飛んでいったら空襲警報が出るというような私どもの子供の時代でございました。あっ、アメリカの飛行機飛んでいるからきょう学校休みだと言うと、その後ふうど空襲警報が出る、そこまでいっていました。
 そんなことでございますから、私は、お若い代議士さんもたくさんふえていらっしゃいますので、そういう日本の歴史も反省、歴史は、昔は吾妻鏡、増鏡、大鏡なんていって、鏡というのは机の下からときどき出して自分の顔を映してみるというので、歴史は繰り返すと言われますから、古きをたずね新しきを知る、これのために、せっかくこんな機会をお与えいただきましたので言っているわけでございます。
 そのアメリカとの関係というのは、日本にアメリカは憲法を押しつけました。それからソ連との関係でも、ヤルタの秘密協定というのがあります。それからもう一つは、今私どもがサンフランシスコ平和条約、宮澤喜一総理も随員として行かれましたサンフランシスコ平和条約のときの国連は五十一カ国、国連諸国五十一カ国でございましたが、それが今は百六十六にふえております。五十三条と百七条に敵国条項というのがまだ残っています。ですから、私はこの間アマコスト大使にお願いをして、この三つを何とか、これは十二月七日五十周年を記念して大統領に、何とかこの三つの問題をアメリカから物をおっしゃっていただけないだろうかと、日米議員の会合があったときに申し上げたのでございます。これは私は、憲法を今何とかしろということを言おうと思っているんじゃございませんが、一九一〇年にハーグ条約というのがありまして、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約というのがあって、相手の国の陸上戦闘をやって占領をしても、その国に法律を押しつけちゃいかぬ。これは前の平和維持協力法案が昨年出ましたときにも、フランス憲法の話をいたしました。八十九条には、外国の軍隊が国土の一部または全部を占領している間に改正した法律は無効である。フランス憲法は、そのハーグ条約を全部憲法の中に入れています。
 そんな意味で私は、これはハーグ条約に違反をしたんだということを日本もちょっと、アメリカで五十周年で、日本がだまし討ちをしただまし討ちをしたと言われるときに、やはり日本もちゃんと主張すべきは主張するのが必要ではないか。ノーと言える日本なんていう言葉がありますが、ノーと言い続けている日本なんて、米の問題で言われています。全く逆の評価になっているわけでございますね。ですから私は、その三つの問題に総理大臣がどうお考えであろうか、それから外務大臣、どうお考えであろうか。
 それから私は、十二月八日に、社会党の田邊委員長からは国会決議をしようというお話があったのでございます、この間本会議で。ところが、国会が戦争したわけじゃありません、政府が戦争したのですから。ですから私は、国会で決議するというのは一体どういうことかなと実は思っております。
 実は国会は大政翼賛会というようなものになって、まあ恐縮でございますが、私のおやじはちょうど進行係をそのときいたしておりました。斎藤隆夫さんが東条英機に対する反軍演説をして、斎藤さんが除名になるというときに私のおやじは反対をしました。弁護士でございましたから、その死刑の判決がおりても執行までには間があるはずだ、それをすぐやめさせるというのは間違いだと言ったために、私のおやじも国会の廊下で東条英機に腕をつかまれたそうでございまして、ついに非推薦、昭和十七年の選挙で。十六年の選挙が十七年に戦時体制で延びて、その選挙で惨たんたるありさまで、大都会でございましたから、落選をいたしました。ですが、国会にはそういう議員もたくさんいたのでございます。
 ですから私は、国会が決議して謝るということは、戦争に反対した人たちに対して失礼であろうと思っております。ですから、今の人たちの感覚でその当時を、国会決議ということですべてを包含して、何か日本の国会が全部が一致してアメリカと戦争することに決めたみたいな決議案には私は反対でございます。――多数決とおっしゃる、いつも多数決の癖のついていない方が。日本の国会は政党多数決だと思っておる。私は、国会議員の多数で決めるならば、野党もちゃんと、数を国民からあずかっている自民党が主張したときにはちゃんとそれを解決してくださってこそ数じゃないですか、民主主義。今は政党の数で、政党多数決で、まあこれはNHKが放送しているのにNHKに言って悪いのですが、NHKの討論会を見ていると、私なんかもういらいらして切るときがあります。自民党が一人と政府から一人、あとは小さな政党、まあ小さな政党まで、だけれども院内では二十人以上ないと発言権がないということになっているのに、今まで自民党が配慮をして、十七人でも国会で演説をしてもらったりしてきました、長い間の歴史。だけれども、それは普通の政治問題では私は結構だろうと思っているのですが、戦争を五十年たって国会で決議するのは間違いで、私は、政府が声明を出していただけないだろうか、国会の意思も酌んで。
 ちょっと長くなってしまいましたが、さっきの三つの問題と、それから、総理がいろんな知恵を出して、私は、アメリカのハワイ真珠湾の日に日本の政府としておわびをすることはおわびをする、しかし、過去を振り返るのではなくて、新しい未来に向かって日米が歩こうというようなひとつ政府声明を出していただきたい、かように思っておるのでございますが、いかがお考えでございますか。

発言情報

speech_id: 112205261X00219911114_010

発言者: 中山正暉

speaker_id: 32328

日付: 1991-11-14

院: 衆議院

会議名: 予算委員会