中山正暉の発言 (予算委員会)

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○中山(正)委員 この間、五月の三日の日にソビエトへ渡辺代表のお供をしましてモイセーエフ参謀総長とお目にかかったときに、モイセーエフ参謀総長という人はクーデターで失脚してしまいましたが、話の途中で、我々軍隊から見ると北方領土は軍事的に返せないというお話をなさいましたので、私は、外務大臣も御承知のように、それはおかしいのではないですか、真珠湾攻撃をして四年戦ったアメリカが二十年前に沖縄を返してくれた、それも一万八千人、沖縄戦闘ではアメリカ人が戦死して、バックナーという司令官も日本の狙撃兵に撃たれて殺されている。それなのに島民を全部住まわしたまま占領したが、あなた方は戦争が済んでから三日たって攻めてきて四十六年間そのままいる、それは大きな軍事力を置いているからではないだろうか、こう言いましたら、いや第十八機関銃砲兵大隊しか置いていないとおっしゃるので、私は、いやそれは私の聞いているのでは第三自動車化狙撃師団一個師団一万五千と、それから第百十四国境警備隊三千五百、そしてミグ戦闘機四十八機、こう言いましたら、あなたの情報は、それはアメリカの情報だとおっしゃったから、そうです、私のはアメリカの情報、あなたのはソ連の情報、日本の国会議員は何も知りません。ですから、どうでしょうか、私は衆議院の安全保障特別委員会の委員長をその時点でやっていましたので、野党と御相談して、これは上田哲先生が理事でございますので相談をして、北方領土を、ちょうどゴルバチョフが来てビザなしで行けるというので視察をさせていただけませんかとお願いをしました。その後帰ってきて野党の皆さんとも御相談して手紙を出しましたら、断ってきました。
 ところが、今度は新しいソ連の国防次官がまたきのう同じことを言っております。
  「四島」返還は核戦力に打撃 ソ連国防省が
  文書
  十二日の情報紙インタファクスによると、ソ
 連国防省は、日本に南クリル(千島)諸島を逐
 還した場合、ソ連の核戦力が打撃を受けると警
 苦した文書を、このほどロシア共和国議会に提
 出した。
  八月のクーデター事件後、ソ連国防省では保
 守派に代わってシャポシニコフ現国防相ら改革
 派の主導で軍改革が進められているが、北方領
 土の軍事的側面に関しては、冷戦思考的な見
 方がなお省内に根強いことを改めて示した形
 だ。
  文書はもし国後、択捉両島を日本に返還すれ
 ば、両島間にあるエカテリーナ海峡は完全に日
 本の管理下に入り、米国と日本の潜水艦のオ
 ホーツク海への通過が障害なく実現されると指
 摘。その場合、「ソ連戦略核戦力の堅固さを著
 じく低下させることになる」と文書は結論づけ
 ている。
  このほか、ソ連軍が最近二年間で極東の兵力
 を十二万人削減したのに対し、「日本の側から
 対応する動きがない」としている。と、同じことを言っているわけですね。
 私は、外務省がソ連との交渉でどんなふうに交渉しておられるのか。一九五六年、二島返還という話がしきりに出ておりますけれども、ソ連の国会でゴルバチョフが報告した文書によると、一九五六年、平和条約を結んだら二島を返すという条件が外れている。四島を返すという話を進めていく話に変わり、条件が外れています。日本では平和条約で二島と最初言っておったのが、今度は四島へ広がったんだから、平和条約を結んだら四島が返ってくるのだと錯覚を起こしているようですが、全然印象が違うわけでございますね。
 私は、ソ連とは理詰めで話を進めていかなきゃいけないんじゃないか。例えばあの終戦の年の二月の二十二日にもう佐藤尚武大使はモロトフさんを訪問して、何とか仲よくしたい、四月二十五日にも中立条約存続を希望しています。それから三月二十二日、三月二十四日と、もう終戦の話を一生懸命にされておられますが、全く話に乗ってこられておらない。
 一九四五年二月の十五日にはもう宮川船夫さんというハルビン総領事をしておられた人がマリク駐日代理大使を訪問して調停を依頼してますし、日魯漁業の田中丸さんという人で、これは広田弘毅さんの側近でしたが、この人が交渉してますし、それから重光、東郷外務大臣がスウェーデンのバッケ公使に頼んでいます。これはもう早い段階、三月の段階で始まっています。
 それから、六月からは岡本清福陸軍武官が中心でスイスのバーゼルにおられた加瀬公使とか吉村為替部長さんとか、そんな方がもう打診をしている。五月の中旬になると東郷外務大臣が梅津参謀総長とか小沢軍令部長とか河辺参謀次長とか、それから六月三日には、そのところ空襲を避けて箱根に疎開をしておられたマリクのところへ広田弘毅、後の総理大臣が行っておられますし、四日には夕食を食べてマリクは広田を逆に招待され、六月十七日には広田の招待を今度は逆にマリクが拒否しております。六月二十四日には広田に対しマリクが態度を変えた。七月十三日は病気見舞いを拒絶されました。
 もう、その終戦に向かっていろいろソ連に対してお願いをしていたのですが、スターリンが演説をして日本が戦争に降伏をすることに決まったと言っているのは、何と九月の二日でございます。日本は八月の十五日に戦争に負けたということになっておりますが、アメリカの戦勝記念日は九月の二日、それからソ連の戦勝記念日は九月三日になっております。
 さっきヤルタの秘密協定の話をいたしましたのは、そのヤルタで米大統領ルーズベルトとソ連のスターリンとチャーチルとが相談をしたときに、日本との戦争に参加してくれたら、満州、樺太それから千島、そして三十八度線からの北、これは武装解除をどこの軍隊にするかという形で引き渡すということになっておったようでございます。それが八月十六日の占領行政命令第一号には千島列島が入ってなかったわけでございます。その千島列島が入ってなかったことを激怒したスターリンがトルーマンに手紙を出してやりとりをしていますが、らちが明かないものですから、八月の十八日の午前二時半に占守島に攻撃をかけてきました。
 私は、自民党の北方領土対策特別委員長というのをやらせていただいて、北方領土基金、国から八十億、それから北海道から二十億、今利息が六億七千万ぐらいになっていますが、北方領土返還運動の灯を消さないようにというのでやったものですから、いろいろその当時のことを勉強してみたのでございますが、ワシレフスキーという極東軍の司令官がカムチャツカ半島のペトロパブロフスクというところにいたグネチコ少将に緊急に命令を出して、日本の三宅坂にあった参謀本部は、十七日の午後四時半で戦闘を停止しろという命令を出しております。その後の攻撃で、択捉、国後には樺太から第三自動車化狙撃師団、今もいる軍隊ですが、それが急速に来て、択捉、国後を押さえてしまいました。米軍はいないかと機関銃を構えて、米軍がいないのを見透かして居座ってしまったという形でございますので、そういう終戦当時のやりとりとか中立条約を踏みにじったソ連の態度とか、そんなものに対して理詰めの交渉が行われていないんじゃないかな。何か一九五六年二島返還論から外務省は交渉しているように見えるのでございますが、その辺は単なる危惧でございますか。理詰めていけば、私はソ連がそのまま取っていること自体に対して理屈で合わなくなってくるんじゃないかと思っています。
 外務大臣、これからの交渉でございます、まだおなりになったところでございますから、この間ゴルバチョフ、エリツィンに会われたとき私も同席させていただいて、大変御立派な態度であったことを思っておりますので、これからの決意を聞かせていただきたいと思います。

発言情報

speech_id: 112205261X00219911114_034

発言者: 中山正暉

speaker_id: 32328

日付: 1991-11-14

院: 衆議院

会議名: 予算委員会