加藤万吉の発言 (本会議)
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○加藤万吉君 「青葉になりゆくまで よろずに ただ 心をのみぞ悩ます。」兼好法師は徒然草の中で春のうら悲しさをこう述懐しています。春は、人の心を痛めさせながら、通り過ぎていく季節だといいますが、ことしの春は、とりわけその思いを深くした悲しい春でした。
ただいま議長から御報告のありましたとおり、去る四月十二日山村新治郎先生は、自由民主党の北朝鮮訪問団の団長として平壌に赴く前日、逝去されました。
その計報は、一陣の春のあらしのように吹き過ぎ、私たちは偶然と立ち尽くして、しばし言葉すら失ったのですが、時を経て今、ただただ深く悲しみに胸が熱くなるばかりであります。まことに哀悼痛惜の念にたえません。
私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと思います。(拍手)
顧みますと、私と山村さんとの出会いは、昭和四十二年にさかのぼります。その年、第五十六回臨時国会では、健康保険特例法をめぐって与野党が熾烈な激突をしておりました。
与野党の意見が対立した同法案の取り扱いは、八月一日に至り、社会労働委員会を舞台に騒然となったのでありますが、その中にあってひときわさっそうたる活躍ぶりを示したのが山村さん、あなたでした。持ち前の気力と気迫をみなぎらせ、先頭に立って奮闘されていた山村さんの姿が鮮やかに思い出されます。私もまた情熱をたぎらせ、負けじと山村さんの前に立ちふさがったのであります。
互いにその立場こそ違え、信ずる道をひたむきに進むべく相譲ることのなかった私たち二人の間には、それから深い友情が生まれました。そして今日まで幾年月、その友情がはぐくまれ、政治的立場を超えての得がたい友でもありました。
あなたは昭和八年四月、水郷の里、千葉県佐原市で江戸時代からの米穀商を営む由緒ある名家に生まれ、九代目新治郎氏のころから深く政界にかかわり合いを持たれ、続く御尊父の十代目新治郎氏は、衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、池田内閣において行政管理庁長官を務められ、政界に重きをなした方であります。
「青は藍より出でて藍より青し」といいますが、あなたはこうしたすばらしい家庭にはぐくまれ、成長されました。長じて佐原高等学校から学習院大学政治経済学部に進まれましたが、学業半ばにして、生きた政治の世界を学ぶべく、御尊父新治郎氏の秘書として政界への第一歩を踏み出されたのでありました。
昭和三十九年十月、父新治郎氏が病に倒れ急逝されるや、亡き御尊父の御遺志を継ぎ、第十一代目新治郎を襲名、同年十一月に行われた衆議院議員補欠選挙に立候補し、弱冠主十一歳の若さで堂々の栄冠をから得、国政壇上に立たれたのであります。(拍手)
あなたは、小柄ではありましたが県高校ボクシング大会に優勝されたという鍛え抜かれた身体に不携不屈の精神を秘め、一朝事に臨んでの果敢な実行力は衆目の見るところであり、運輸委員会、議院運営委員会及び予算委員会の理事として極めて広い分野で縦横無尽の活躍をされたのであります。
あなたをしのぶときだれでも思い起こすのは、あの昭和四十五年三月の日航機ハイジャック事件の活躍ぶりでありましょう。
当時、第三次佐藤内閣の運輸政務次官の職員にあったあなたは、我が国最初のハイジャック、「よど号」事件の報を受けるや、直ちに「よど号」を追って大韓民国に赴き、管制塔に登って乗っ取り犯との交渉に当たるという機敏かつ果断な行動力の後、みずからの身命を賭して乗客、乗員の身がわりを買って出るに及んだことは、全国民の感嘆と畏敬の注目を浴びたものでした。(拍手)
粘り強い交渉の末、乗客、乗員百三名の無事釈放に成功したときは、かたずをのんで見守っていた全国民からあらしのような拍手が起きたのも、至極当然と言えるでしょう。(拍手)
タラップをおりて大地を踏んだ喜びの乗客、乗員を背に、一人の男がタラップを上っていくその
姿は、まことに崇高と感動で見詰められ、永久に語り継がれ、消え去ることはないでしょう。(拍手)あなたの郷土が誇る義民、佐倉惣五郎の人間愛に満ちた快挙と並んで、不滅であることを信じてやみません。
昭和五十年、商工委員長に選ばれたあなたは、難問、独占禁止法改正案を衆議院で通過をさせ、昭和五十七年十一月には、議会運営の手腕を高く買われ、議院運営委員長に推されました。親子二代がその要職につかれたのは、憲政史上たぐいまれに見る快挙と言えるでしょう。亡き御尊父にささげる孝行として、これ以上のことはまずありますまい。
折しも昭和五十八年の第百回臨時国会におきましては、いわゆるロッキード判決が出て以来国会が紛糾し、一カ月以上の空転が続き、あなたは国会の正常化を取り戻すべく奔走され、当時の福田議長を補佐して与野党間の意見の相違を取りまとめ、両院議長見解による国会解散への感得を引き出す一方、政治倫理協議会を設置することの合意を取りまとめ、今日の政治倫理審査会の礎を築かれたのであります。
さて、私的な角度であなたをしのびますと、あなたは大層な食通でした。フランス料理ならトゥール・ダルジャン、マキシムがよいとか、親子丼なら人形町の玉ひでがうまいとか、まことにほのぼのとした人柄がしのばれ、一献の酒に舌鼓を打つ楽しさを知る人でもありました。
そのあなたが平成三年十一月、予算委員長に就任されるや、一滴の酒も口にせず、百二十六日間その重責に専念されたというエピソードには、私など襟を正さずにはいられなかったのであります。(拍手)
そのあなたの態度は、予算委員会で共和問題をめぐり証人、参考人の招致で審議が暗礁に乗り上げることもしばしばでしたが、常に公正な立場を堅持し、各党の意見に耳を傾け、持ち前の誠実さと精力的な調整の結果、難航した平成四年度予算は、三月十三日衆議院を通過、四月九日成立を見たのであります。
大任を果たし、「きょうの美酒のため酒を断つ」としたその美酒を口元に含み、心地よく酔う姿が今もほうふつとして目に浮かぶのであります。
また、あなたの大きな足跡として、農業行政における功績を忘れることはできません。
昭和五十八年十二月、中曽根内閣において農林水産大臣として初の入閣を果たされたあなたは、牛肉・オレンジを初めとする農産物の市場開放という、国際的な厳しい問題にも真っ向から取り組まれました。
難航に難航を重ね続けていた日米農産物交渉の決着を図るため、翌年二月渡米。交渉技術のベテラン、ブロック通商代表と一歩も退かず渡り合い、外交交渉としては考えられない、私邸を訪ねるという熱意と誠意によって見事交渉をまとめられました。一大危機を体当たりで救ったこの活躍は、我が国の農政史上に刻まれた金字塔とも言えるでしょう。(拍手)
かくして、閣僚としての力量、手腕を高く評価されたあなたは、宇野内閣の運輸大臣として再び入閣。その内閣成立の目から天安門事件に遭遇、在留邦人の救出が急務と判断し、わずか三回という短時日に三千人余の救援輸送を円滑に終了されるという離れわざをやってのけられたのであります。
振り返りますと、なぜかあなたの前には常に立ちはだかる試練がありました。しかし、あなたはその一つ一つを、「山新魂」とでもいうのでしょうか、くじけることなく立派に乗り越えられたのであります。
自由民主党内にあっても、国会対策筆頭副委員長、副幹事長、全国組織委員長、そして成田空港建設促進特別委員会副委員長等々の要職を歴任し、華々しく活躍されておられました姿が、今も目に浮かんでまいります。
さて、目を転じますと、あなたは父祖代々の地「ふるさと千葉」をこよなく愛しておられました。そして、その千葉県の発展にも深い思いと心血を注いでおられました。特に、日本の表玄関たる新東京国際空港の建設には、一方ならぬ情熱を傾けられました。
御尊父新治郎氏とともに諸外国の施設を視察、御尊父亡き後は、その御遺志を受けて献身的な努力を続けられました。地元の方々の声に耳を傾け、強硬な反対運動の中に、何とか合意のもとでの開港をと、だれよりも願い、だれよりも心を痛めておられたのはあなただったと、私は今も胸が熱くなってまいります。
ごらんください。今日、成田空港は貨物輸送で世界第一位、乗降客数で第七位という輸送力を誇るようになりました。
そして、あなたのふるさと佐原は、首都東京と快速によって結ばれ、首都圏としての発展を日々に続けつつあります。
あなたが千葉に残された輝かしい功績は、このほかにも語り尽くせないほどあります。
母なる川、利根川の治水問題、銚子港の三角波による水難事故防止と掘り込み漁港改良工事の完成もまた、あなたの郷土愛が生んだものと言えるでしょう。長年、板子一枚に命を託してきた地元漁民の方々にとって、それはどんなに光差す喜びであったか、はかり知れないところであります。
あなたの政治信条は、簡潔明快「実行と和」でありました。このわずか四文字の信条には、余すところなくあなたが、そしてあなたの人生が凝縮されております。まさにさっそうとして「男・山新」の面目が躍動している言葉だと私は幾たびも胸の内に繰り返しながら、今、あなたをしのんでいます。
かくして本院議員として当選九回、在職二十四年十カ月、激動の四半世紀を活躍してこられたあなたの歩みは、いつまで語っても語り尽くせません。本院は四月二十四日、院議をもって永年在職議員としてその功を表彰したのであります。
終わりに臨み、長いその来し方の道連れとして、あなたを支え、苦楽をともにしてこられた奥様の御胸中を拝察し、衷心からお悔みを申し上げる次第であります。
山村さん、あれは半年ほど前、去年の暮れのことでした。あなたから私は一鉢のシクラメンを贈られました。それはみずみずしい白と薄紅の、優しい花の一鉢でした。
私は早速、私の部監の朝の光の差し込む場所に飾りましたが、北風の吹く寒い日々、あのシクラメンがどんなに私の心の内を温かく、ほのぼのとさせてくれたことかわかりません。そして、男の中の男と言えるあなたの一面に、花をめでる優しさと、人に対する和やかな心配りをしみじみと感じたものでした。(拍手)
冬が通り過ぎ、春が訪れ、その春が去っていくころ、あのシクラメンも、終わりの花をこぼしました。それは、なぜかあなたとの別れを私にそっと告げるかのような風情であったと、今も思い出されるのであります。
享年五十八歳、政治家としていよいよ円熟を増し、幅広い活躍、なかんずく朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化へ向けて、貴重なかけ橋として大きな期待が寄せられていただけに、政治家山村新治郎先生を失ったことは、ひとり自由民主党のみならず、我が国にとりましても大きな損失と申さなければなりません。
ここに、謹んで山村新治郎先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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議員請暇の件