森井忠良の発言 (本会議)

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○森井忠良君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員岸田文武君は、去る八月四日、都内の病院で逝去されました。
 君が昨年六月入院し、手術をされたことを承り、心配しておりましたところ、昨年秋に行われた自由民主党総裁選の際には、宮澤総裁選出のため奔走しておられると伺い、御回復されたものと安堵いたしておりました。
 しかるに、人一倍責任感旺盛であった君は、病魔と闘い、治療を受けながら、一身を顧みず、無理に無理を重ね、ついに政治に命のともしびを燃やし尽くされたのであります。自分の身をすり減らし、国家国民のために働くのが政治家の務めであるとは申せ、同じ道を歩む者として、哀惜の念ひとしお深いものを覚えるのであります。
 私は、ここに、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 岸田君は、大正十五年広島市に生まれ、戦時中の厳しい環境の中で、昭和二十年三月、旧制東京高等学校を御卒業、東京大学へ進学されました。
 しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年七月には、学徒動員で旭川の師団に入隊されました。
 そして、その一カ月後には、郷里広島に原爆が投下され、広島市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くされたのであります。
 八月十五日、終戦と同時に、東京にあった家も進駐軍の接収に遭い、また、外地において大きく事業を営んでいた御一家の財産も、すべて失ってしまったのであります。
 君は、この逆境にもめげず、除隊後は直ちに東京大学に復学し、戦時中の空白を取り戻すべく勉学に励まれたのであります。
 当時は、本を買うのもお米と交換しなければならないなど、厳しい社会情勢の中で勉強を続け、法学部の学生として、最初に旧帝国憲法が教材に、そして途中から新憲法にかわりました。民法も旧民法から新民法に、刑法も旧刑法から新刑法を学習するという、大変な過渡期でありました。
 君は、持ち前の勤勉さで、在学中に高等文官試験に合格し、昭和二十三年には、東京大学を優秀な成績で卒業されたのであります。
 当時の東京は見渡す限り焼け野が原で、やみ市全盛の混乱と窮乏生活のるつぼにありました。
 君は、この混乱した日本を立て直すには、産業を復興し、経済の再出発を図り、国民生活を安定させることだと考え、迷うことなく当時の商工省へ就職し、日夜その若いエネルギーを燃やし続け、世界有数といわれる今日の日本経済のもとを築かれたのであります。(拍手)
 特に一九六三年(昭和三十八年)には、君は選ばれて日本貿易振興会ニューヨーク軽機械センターの初代所長として赴任され、海外においてもその能力を遺憾なく発揮され、ニューヨーク世界博覧会への参加を通じ、我が国産業の国際化に大きく貢献されたのであります。
 昭和四十三年には大阪府商工部長として赴任、二年後に開催された大阪万国博覧会を成功に導き、大阪を世界にアピールするとともに、関西経済の振興に大きく寄与されたのであります。
 その後、昭和四十八年、日本経済がオイルショックという戦後最大の経済危機に見舞われたとき、資源エネルギー庁の公益事業部長として、電力、ガスの供給確保などのために昼夜を問わずその才腕を振るわれました。
 オイルショック後の不況の長期化により、中小企業の企業体質は著しく弱体化を招いたのでありますが、当時、中小企業庁長官であった君は、事業転換対策、大企業との分野調整、倒産防止共済などの画期的な中小企業対策を創設され、今日の中小企業の発展の道を開いたのであります。(拍手)
 昭和五十三年、地元広島県選出の衆議院議員萩原幸雄先生の御病気による引退という事情があ
り、また、熱烈なる支持者の声にこたえ、みずから直接国民のお役に立ちたいという情熱により、迷うことなく、将来を嘱望されていた中小企業庁長官の要職を辞し、かねてからの御尊父の遺志を継ぐべく政界への道を選んだのであります。
 思い起こせば、君の御尊父岸田正記先生は、戦前戦後を通じて衆議院議員を七期、二十年余り勤め、戦前は立憲政友会、戦後は自由党の要職を歴任された我が郷土の先達であり、君の政治家への転身をだれよりも喜んでおられたことでありましょう。
 かくして昭和五十四年、第三十五回衆議院議員総選挙に自由民主党公認候補者として勇躍立候補された君は、有権者の方々の絶大なる支持と信頼を得て、見事初当選の栄冠をかち取られたのであります。(拍手)
 かくして本院議員として当選すること連続五回、在職十三年、その間、地方行政委員会、農林水産委員会、科学技術委員会、商工委員会、文教委員会、物価問題等に関する特別委員会等の委員あるいは理事として、豊富な経験と卓越した識見をもって、「信頼される政治」をモットーに広い範囲で御活躍されました。平成二年三月には内閣委員長という要職に就任され、お人柄そのままの誠実さで公正な立場を堅持し、すぐれた調整力で公平、円滑な委員会運営に当たられる姿は、与野党の別なく、同僚議員からひとしく敬服されていたところであります。
 また、政府にあっては、第二次中曽根内閣においては総務政務次官、第三次中曽根内閣では文部政務次官として、大臣を補佐しながら、国民のため、諸施策の実現に真摯な努力を重ねられたのであります。
 この間、特に教育改革の積極的推進に努められ、一九八六年(昭和六十一年)十二月、ジュネーブで開催された第四十回国際教育会議では、我が国の首席代表として、各国代表の前で堂々の演説を行い、我が国の教育改革への取り組みを紹介するとともに、教育の国際協力の重要性を強調され、各国代表に深い感銘を与えるなど、国際舞台でも大きな活躍をされてきたのであります。
 また、自由民主党にあっては、都市局長、資源・エネルギー対策調査会副会長、中小企業調査会副会長、調査局次長、行財政調査会副会長などを務め、昭和六十三年十二月からは党経理局長として、竹下、宇野、海部、宮澤の四代の総裁のもとで、幹事長を補佐し、自由民主党の台所を賄ってこられたのであります。
 岸田君、第十二回アジア競技大会はあと二年後に迫ってまいりました。今広島では、メーンスタジアムが完成したほか、この大会に向けて数々の社会資本の整備のための建設が行われております。君は、平成六年アジア競技大会準備促進国会議員団の世話人代表として、首都圏以外では初めてという広島での大会の成功のため、心血を注がれました。君はそれを見ることなく去られたのであります。
 これは一例を挙げたにすぎません。郷土の発展に残された足跡の大きさを思うとき、改めて広島にとっての大きな損失を感ずるのであります。
 君は、自他ともに認める読書家であり、秘書が「先生の姿が見つからないときは、本屋へ行け」と言われるほどでありました。政治、経済、歴史、科学あるいは文学等と分野にこだわらず幅広く読まれ、広く国の未来を見据えるために、多くの知識、情報を取り入れ、それを政策として反映させる姿は、まさに政策通岸田文武先生の面目躍如たるものがあったと言えるでありましょう。(拍手)
 先生の著書である「エネルギーと技術の旅」の中には、脱石油エネルギー、すなわち、外国に依存しない夢のエネルギーにささげられた熱い情熱が深く刻み込まれ、読む人に強い感銘を与えております。
 君は、親しかった人々に揮毫を頼まれると、気軽に「春風接人」と書きました。「春風」とは春の風、「接人」とは人に接すると書くのでありますが、春の風はまことに暖かく、まろやかで、希望に満ち、ほのぼのとしたものを感じますが、そのお気持ちで多くの友人を持たれたに違いありません。
 仕事熱心で、いつもにこやかな君は、人の心を引きつける力と、同時に、人を説得する力を持っていました。ある委員会で理事の一人が、「いつの間にか岸田君の意見にまとまってしまうんだよなあ」と言っていたのを耳にしたことがありました。
 岸田君、君は宮澤弘参議院議員を義兄弟に、また、宮澤総理大臣を姻戚に持つという政治家ファミリーの一員でもありました。
 宏池会では、宮澤政権構想の担当スタッフとして、生活大国をキャッチフレーズに、豊かな生活、豊かな心をつくることに力点を置いた「二十一世紀国家の建設」を起草し、今日の宮澤内閣の政策の礎を築かれたのであります。
 次は大臣、次は大臣と目されながら、享年六十五歳、政治家としてますますその力量を発揮していただかなければならないこのときに、人の世の定めとは申せ、君を失ったことは、惜しみても余りあるものがあります。
 今日、我が国をめぐる内外の諸情勢は極めて厳
しく、構造的な不況が世界に広がりつつあり、とりわけバブル経済崩壊後の日本経済の低迷する中、物価問題に明るく、中小企業対策のエキスパートである有為の政治家岸田文武先生を失ったことは、自由民主党のみならず、本院はもちろん、国家国民にとって大きな損失であると言わなければなりません。(拍手)
 ここに、謹んで諸君とともに岸田君のみたま安らかならんことを願い、生前の御功績をたたえ、御遺徳をしのび、謹んで御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 112505254X00419921110_007

発言者: 森井忠良

speaker_id: 6858

日付: 1992-11-10

院: 衆議院

会議名: 本会議