滝上宗次郎の発言 (国民生活に関する調査会)
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○参考人(滝上宗次郎君) ありがとうございました。御紹介いただきました滝上宗次郎でございます。
略歴を申し上げますと、大学では国際経済学を学びまして、昭和五十二年、三菱銀行に入社いたしました。銀行では調査部におりまして、よく世間では会社の寿命は三十年と言われますけれども、特に繊維産業、それから化学工業の中にありますさまざまな業種の栄枯盛衰を調査いたしました。それぞれの業種の将来性あるいはそれぞれの企業の将来性を展望いたしまして、三菱銀行の融資戦略、すなわちどういう産業どういう企業にお金を積極的に重点的に貸せばいいのかとか、あるいは逆にどういう産業や企業に対しては慎重でなければいけないのかという戦略づくりを長いことしてまいりました。
そういった銀行員という職種から、資本主義経済のど真ん中から、今から七年前に父親の後を継ぎまして福祉の民営化というものを代表する有料老人ホームの一経営者となったという経歴でございます。
なぜ私の父親が有料老人ホームを経営していたかと申しますと、地主として自分の土地を貸していた相手が有料老人ホームの経営を始めました。そこが日本で最初に倒産した有料老人ホームだったからであります。倒産して驚いたことは、有料老人ホームという建物は、その構造が他の商売や事業には何の役にも立たないということでした。マンションにもなりませんでしたし、ホテルにもなりませんでした。要するに、この事業というものは始めたらやめられないという強い特殊性を持っており、お年寄りの入居者を守る上でも、また経営者にとりましても法律による強い規制が必要であったということが言えます。結局は、私の父親がその建物を買い取って、十一年前に有料老人ホームを始めたというわけです。
有料老人ホームを経営するには、広い土地と多くの人手を必要とします。御承知のとおり、日本は土地の値段と人件費は世界一高いものですから、毎月お客様から十数万円の管理費、食費をもらっていましても、入居してもらうときに数千万円の入居一時金を支払ってもらいます。広い土地と多くの人手を必要としますから、これは農業と同じようなものです。日本のお米が大変高いのと同じなんです。
しかし、補助金とか食管制度とかいったものを私どもの業界は持っておりません。そのために極めて高い値段の商品でございますから、本当ならばお客様はほとんどいないはずなんです。しかしながら、偶然にも厚生省が昭和六十年十一月にシルバーサービス振興指導室を設置しまして、翌年の六月に政府が、時の内閣が福祉の民間活力を一つの柱とする長寿社会対策大綱を閣議決定したときから、何と神風が吹きました。その神風は何かと申しますと、バブル経済の始まりだったんです。
といいますのも、昭和六十年九月にプラザ合意がなされまして、日本の円は一年間で一ドル二百四十円から百五十円に切り上がりました。当時、円高不況がございまして、その不況対策として日銀は過剰な低金利政策をとりまして、円高を抑えるために巨額のドルを買って円売りを続けました。そのために、円高によりまして消費者物価は安定しておりましたが、株式と土地は高騰いたしました。ダウが四万円までいったということです。そのおかげで首都圏を中心に、広さが三十坪ぐらいの自宅を売れば高齢者は一億円近いお金を簡単に手に入れることができるようになりました。そうした方々が私どもの有料老人ホームのお客様になってくれたのです。
このように、バブル経済のおかげによって成立しているだけの有料老人ホーム事業に対し、国そして経済界は強い期待を持ちました。当時はバブルが永遠に続くと思っていたからでございましょう。実際、昭和六十二年三月に民間事業者百五十社が集まりまして、厚生省の指導のもとに社団法人シルバーサービス振興会を発足させております。そして、同じ十二月には厚生省の審議会から、「今後のシルバーサービスの在り方について」という意見具申がなされ、消費者保護といったものを棚上げにしたままで民間福祉が推進されました。有料老人ホームの建物が強力に後押しされたのです。同じ昭和六十二年版の厚生白書は、最初のページから福祉民営化の正当性をるる説明したものでございました。
そして、皆様御承知のとおり、わずか三年後にはバブルが崩壊してしまいました。現在、三十坪ほどの土地を売りましても四千万、五千万しか手に入りませんから、この業界にお客様はほとんど来ないわけでございます。そのような意味で、有料老人ホーム事業の栄枯盛衰はわずか五年ほどでございました。今では価格破壊という言葉さえ社会に定着しております。
しかし、それにもかかわりませず、そうした民間福祉への反省とか抜本的解決策が何も検討されていませんのに、この三月には厚生省から、公的福祉と民間福祉の組み合わせによって今後の福祉社会を目指すことができるという内容の二十一世紀福祉ビジョンというものが発表されました。私は、極めてその内容に疑問を持っております。
有料老人ホームは今や構造不況のていをなしておりますが、抜本的な解決策としては、消費者被害を防ぐための介護サービスなどについての表示の徹底がまず挙げられます。そして、現在、介護保険制度がにぎわっておりますけれども、ドイツのように有料老人ホームヘの金融支援と有料老人ホームヘの公的介護保険制度の導入といったものが解決策の一つとして挙げられています。もっと基本に戻って考えてみれば、民営化を推進した臨調路線はそれ自身正しかったのでございますけれども、その臨調路線を社会保障の分野にまで安易に適用したことが誤りであったと思います。
さて、それでは本日のテーマであります福祉社会への七つの提言を申し上げたいと存じます。
まず第一は、二十一世紀への長期的な視点を持つことです。
それには、参議院のこの調査会の機能を十二分に御活用願いたく存じます。この調査会は、衆議院と異なり解散がなく任期六年という参議院議員の特性を生かし、大局的な見地から国政の基本的事項に関して長期的かつ総合的な調査を行うために設けられているものと広く認識されているところです。ぜひともその本領を発揮していただきまして、日本の本格的な高齢化社会の対策を立てていただきたいと存じます。
私ども国民は、一選挙民として選挙に参加することができます。しかし、選挙制度は議会制民主主義のジレンマでもあります。時に公約が破られることがあります。それは、当選するためには将来のことよりも、どうしてもその場限りの短期の人気取りの問題が出てくるからです。しかし、一方で高齢化対策は二十一世紀へ向けての長期の国家政策であらねばなりません。したがいまして、長期の高齢化対策を打ち出すことは一般的には構造的に難しい面があります。
また、行政府の方を見ましても、例えば行政改革に反対している各省庁の官僚を見ていますと、日本の将来の利益よりも、日本の二十一世紀よりも、どうも現在の規制による既得権を維持することの方にたくさんのエネルギーが費やされているように国民には見えます。昭和三十年代や四十年代のように、日本が欧米諸国をお手本にしていた時代は官僚組織は将来に向かって健全に働いていたと思います。しかし、現状はいかがでございましょうか。今では前例や慣例に縛られているようです。
国民がお役所に書類を持っていきますと、書類の不備ばかりをつつかれます。私自身の経験もそうなんでございますが、しっかり書類をつくって持っていったはずなんでございますけれども、私の押したゴム印が枠からはみ出ていた、それだけで突っ返されてしまいました。このように前例を重んじる方々に日本の将来のビジョンをつくることが果たしてできるのかどうか。官僚は優秀とは言われておりますけれども、甚だ私は疑問に思っております。
日本の高齢化というものは大変なものがあります。日本の将来を切り開いていくために多くの民間や大学のシンクタンクの参加が必要です。医療経済学とか福祉経済学がこの国では大変レベルが低いのです。一番の原因は何かと申しますと、厚生省が情報を公開してくれないからです。ですから学問が発展していきません。御用学者と言っては言い過ぎかもしれませんけれども、そうした方々にしか厚生省は資料を見せてくれない。また、審議会委員の選び方を見ましても何か役所の都合が先行しているように見えます。
そのような意味で、本日、参議院のこの調査会にお招きをいただきましたことは、私、心から感謝申し上げます。
さて、第二番目は高齢者の視点、現場の視点についてお話を申し上げます。
あるべき福祉社会とは何かを考えますときに、福祉サービスを受ける側の高齢者や障害者の視点を持つことが大切だと思います。
お配りしておりますレジュメの三ページ目をお開きいただけますでしょうか。有料老人ホームの写真と記事が載っております。これは週刊朝日のものでございます。念のため申しますと、これは六年ぐらい前の古いものでございます。マスコミの中で最も高齢者問題に熱心なのは朝日新聞並びに週刊朝日だと思っております。
この記事を見ていただきたいと思います。「有料老人ホームを訪ねて 「安心できる老後」を手にした余裕派たち」という見出しがございます。そして、左側には写真がございまして、夫婦そろって午後の散歩に出ている写真が載っています。ちょっと写真が見にくいのですけれども、奥様の方はカメラに向かってほほ笑んでいるようです。皆様、こういった写真を見てどう思われるでしょうか。たくさんのお金のあるお年寄りは幸せだなと先生方は思われるでしょうか。お金がありますと、このように優雅な老後を送ることができるのです。
しかしながら、この写真はおかしなところがあります。よく見てください。このような老夫婦がつえをついてこんな長い坂をよく上ってこられるものだと思いませんでしょうか。多分、この老夫婦は半年後や一年後にはこの坂は自分の力では上れないんではないかと思います。
私の後に大熊先生がいらっしゃるので、まことに申しわけないんでございますけれども、日本で一番高齢化問題に理解を持っていただいている週刊朝日でさえ、このように高齢者とは何かということがわからないといういい例かと思います。このように私どもには高齢者や障害者の立場に立っということがいかに難しいかということがわかります。また、日本では半身不随と言います。半身不随と言ってしまいますと、もうだめな人、寝たきり人と考えてしまいます。そうではなくて、そんな言葉を使わずに、半身が動く人と言いかえますと違ってまいります。自然と、どんな援助をすれば、どんな介護機器があればこの人は普通の生活に戻れるのかなと考えます。今後の福祉のあり方として、作業療法士や理学療法士が重要な立場を占めるようにならなければ本物の福祉とは言えないのではないかと思っております。
豊かな社会とは何かと申し上げますと、障害者や高齢者の立場になって考えている社会です。こうした価値観は福祉の進んだスウェーデンやデンマークといった北欧諸国にはあるけれども、日本にはないんだと言われることがあります。私はそうは思いません。といいますのも、社会的地位の高い人でも、国民のだれでも、日本の学校や職場で教わっていることがあります。あるいは体験しています。それは何かといいますと、自分が苦しかったとき、自分がつらかったときに助けてくれた人のことを私たちは恩人として忘れてはいけないということです。恩を忘れないということが日本人の美徳であります。そうであるならば、私たちは社会的弱者に対してどのような支援を行うべきかわかります。国家予算を重点的に福祉に充当すべきであることは当然なのです。
先ごろ、年金改正の法案が成立いたしました。日本は高齢化、少子化が急速に進んでいるために行われた年金制度の改正です。その議論の中で、将来は一人のお年寄りを二人の勤労者が支えるので負担が重過ぎる、負担が重いと勤労者の働く意欲が失われる、そういったロジックというか考え方が繰り返し繰り返し国民に流されました。年金を受け取る側に反論の余地を与えない一方的な言い方でした。
私はこれを聞いていまして、この議論は半分正しいけれども、半分正しくないと思っております。といいますのも、仕事にやりがいがあるか否か、あるいは職場が充実しているか否かというのはもらう手取りの給料に一〇〇%比例しているとは思われないからです。何よりもこの議論が極めて作為的であるということは、負担が重いと勤労意欲が失われるという見解を発表する同じ人が高齢化社会を救うためにボランティアを強力に進めているということです。十分な報酬がなければ人は動かないんだと断定する人々がボランティアというカムフラージュをして無報酬の労働を要請しているのですから理解に苦しみます。
医療や福祉の現場の視点も大切です。私たちは、そこで働いている人の苦しみというものはわかっておりません。
例えば、前の国会で付き添いの廃止が決まりました。最も説得性のあった廃止の理由は、ああいうひどい仕事をさせていていいのかとか、他の病院職員から一段低く見られていていいのかとか、他の職員から低く見られる人にとって病院は楽しくやりがいのある職場と言えるのか、こういった人間性や良心や情に強く訴える発言でした。だから、厚生省は不退転の決意で付き添いは廃止するのだと言いました。これだけを聞いていればまことにもっともな意見だと思います。
しかし、この発言には人間性や良心や情といったものを私には少しも感じることができません。なぜかと申しますと、日本の医療における最も大きな根源的な問題には何も触れていないからです。日本の医療における看護婦の地位の低さあるいは正看と准看の問題、こういった問題には何も手をつけていないからです。それでいて付き添いばかりをやり玉に上げたわけです。
私は、このように理念を持たない人が都合のよいところだけに理念を持ち出してにしきの御旗とすることはおかしなやり方ではないかと思っております。すなわち、付き添いの廃止は医療費抑制策だけをねらったものだと考えます。付き添いを廃止した後の病院の職員の数は時間で換算して明らかに落ちましたし、一人で二人分の仕事をこなし、医師を除いて最も給与の高い付き添いの職場が失われだからです。さて、行政改革の重要性についてに移りたいと思います。
二十一世紀の日本を豊かな高齢社会にすることが私たちの務めだと思います。すなわち、巨額な年金財減や福祉財源を確保することです。それを支える日本経済を強力なものにつくり変えることがぜひとも必要です。したがいまして、行政改革並びに行政改革と表裏一体にある規制の緩和を行うことによって産業構造の高度化を進めることが不可欠です。
今日の日本では、内外価格差が目に余ります。多くの規制があるために日本の建築費はアメリカの二倍あると言われています。ワインやウイスキー、ビールといった現在の日本人が日常的に飲むお酒は海外の二倍から三倍の値段はします。コーラやジュースも同様です。とにもかくにも食料品はとても高いのです。食料品ばかりでなく、レストランや料亭で食事をすることも欧米に比べてとても高い。交通費も同じように高いのです。タクシーや飛行機に乗っても海外の二倍ぐらいの値段が取られます。一ドル九十六円とか九十七円という急激な円高で海外から安いものが大量に輸入されているはずですが、衣服とか家電製品を除けば私たち国民の手に届くときには安くなっていません。物価は大幅に下がっても何の不思議もないのに、物価は横ばいのままです。
これでは、私たち日本人は買物をするときに、三〇%とか五〇%といった高い消費税を既に払っているのと何ら変わりません。福祉の進んだ北欧諸国以上の消費税を実質的には払っているのに、私たちはこの国から高い福祉を受けていません。消費税を五%に上げるといった議論が行われる前に、日本の産業や経済のあり方にメスを入れなければとても二十一世紀の高齢社会を生きていくことはできません。それほど二十一世紀の高齢社会は劇的に変わっていくからです。
消費税率を引き上げるときに、食料品は逆進的だから非課税にすべきだという議論が行われています。しかし、私たち日本人は、食料品が五%の税率だとか非課税だとかいう前に、日本人は五〇%や一〇〇%の消費税を食料品に対して既に払っているということを理解していただきたいと思います。
もっと正しく言えば、二十一世紀の高齢社会に突入する前に規制の緩和を行うことで、日本の産業や経済のあり方にメスを入れることでより豊かな高齢社会を私たちは迎えることができるのです。そのような努力を何もせずに年金制度を改正してしまいました。そして、病院から付き添いを追い出してしまいました。高齢社会に適応できる新しい社会の枠組みに日本をつくり変える努力もせずに、社会的に最も弱い立場にある年金生活者や障害者やお年寄りの患者にツケを回したということです。
なぜ、日本の産業や経済のあり方を変えるための規制の緩和が一握りの官僚の反対によってできないのでしょうか。最も有力な理由は、規制があることで既に多くの人々が働いている、その人たちの雇用を奪ってもよいのかという議論があります。例えば、銀行は二重三重の規制によりましてたくさんの銀行が競争もせずに営業を行っています。横並びのプライムレートや預金金利の設定、そしてどこもここも午前九時に始まって午後三時には一斉に終わってしまいます。さらに、土曜、日曜日は一斉に休業しております。互いに他の銀行を出し抜かないようにと競争を回避するルールが公然と行われています。だれが見ても銀行の数は極めて多くあって、最も土地の値段の高い駅前にはさまざまな銀行の支店が軒を並べています。そして、銀行員の給料は世間に比べてとても高い。
こうして見ますと、日本社会にとって銀行は必要ですが、その実態は、必要とする以上の多数の銀行が存在しているために、社会的には私たちは莫大なコストを払っているのです。大きな負担を日本社会に与えています。そのために、銀行預金の金利は銀行の非合理性によって低く抑えられています。預金者から見て大きな損失が生じていると言っていいでしょう。
同じことが、行政とのかかわり合いが強い産業では、要するに癒着の強い産業ではよく見られます。例えば医薬品産業です。医薬品メーカーや医薬品の卸業者には合計で営業マンが七万人もいます。これは何と欧米の三倍の比率です。これだけで四、五千億円は余計に使っているわけです。こうした営業マンの人件費もすべて医療費に含まれています。ですから、日本の薬の値段が高い。昨年度の医療機関が使った薬剤費は六兆四千億です。こういったところを直せば、薬の流通のトータルコストだけを直していっても新ゴールドプランの財源は楽に出せるのです。
さて、こうした多数の雇用の創出は、経済効果として見れば、実質的には失業対策と何ら変わることはないと言ってもいいでしょう。ヨーロッパ諸国では、国民負担率が五〇%を超えている国が実に多い。それは社会保障に多額のお金が必要だからです。ヨーロッパ諸国では失業率が一〇%前後ありますから、失業給付金という形で社会保障の費用がたくさんかかっているからです。日本では多くの規制があり、そのことで多数の人が雇用されて、その人々の給料を賄うために物価が極めて高くなっています。あるいは預金の金利が低いのです。いずれにせよ、消費者にとっては困ります。
消費者ばかりではありません。物価が高いと輸出産業にとっては大きな打撃です。国内の高い物価のために海外の企業との国際競争に敗れてしまいます。こうして自動車、家電、エレクトロニクスといった日本の二十一世紀を支えるはずであった最も生産性の高い技術力のある産業で次々と国内の工場が閉鎖され、海外に移転していってしまいます。これが産業の空洞化です。規制に守られた技術力の低い産業だけが国内に残るということです。
行政と癒着し、多くの規制に守られた産業が日本社会のコストを押し上げています。日本は資源の少ない貿易立国です。輸出産業が国際競争力を持つことで日本社会は成り立っており、さらに今後進む人口の高齢化を経済的に支えていかなければなりません。しかし、事態は逆の方向に進んでいると思います。私には日本経済の力は今がピークではないかと思っています。
私は、何があっても行政改革を強力に進めていかなければならないと考えています。そして、行政改革を進めることができるのは国会、すなわち政治の力が重要だと思います。
行政改革についてもう一言申し上げます。
実は、これは私の意見ではなくて私の妻の意見なんでございますが、国会でぜひとも発言してくれということです。
規制には経済的規制と社会的規制があって、社会的規制はいいけれども経済的規制は悪いということは常識的に国民はわかっています。しかし、両方とも同じく規制と言いますから、規制の緩和についての議論をしますと実にこんがらがります。規制の緩和に反対である人は、社会的規制の重要性を巧みに悪用して議論のすりかえを行います。この日曜日でございましたか、夜の九時から十一時まで二時間、NHKのテレビで規制緩和の討論会がありました。この討論会を見ておりましても、冒頭から社会的規制が随所に出てきて議論が混乱し、堂々めぐりとなりました。私の家ではまたかということで、テレビのスイッチをすぐ切ってしまいました。
私の妻の提言は何かと申しますと、今後は社会的規制という言葉は決して使わないでほしいということです。それを安全基準という言葉に変えていただきたいということです。そして、規制緩和の議論から外していただきたい。そして、安全基準につきましては別の土俵できちんと議論していただきたい。二十年も三十年も前につくられた安全基準は、現在、技術の進歩によってその多くは意味を失っているはずです。また一方では、消費者から見てさらに強化していかなければいけない安全基準がたくさんあるはずです。
次に、福祉の社会化とか介護保険について申し上げます。
日本では、福祉は余り重視されていません。重視されていないところか、邪魔者扱いさえされているようです。福祉に力を入れれば国が傾くとか、福祉に力を入れると経済の活力をそぐといった間違ったことを平気で言う人があります。こういう間違った考え方の代表は、将来にわたって国民負担率を五〇%以下に抑えなければいけないとする臨調の考え方です。これがすべての誤解のもとです。
先ほども申し上げましたとおり、日本ではいろいろな規制があって、物価が高過ぎます。すなわち、日本人はせっかく働いて得たお金の価値が諸外国に比べて極めて低いのです。日本で稼いたお金で海外で暮らせば、二倍も三倍もたくさん物が買えて、ずっと豊かな暮らしができます。したがって、現在の日本の国民負担率は四〇%弱ですけれども、国民の生活実感からすれば既に六〇%とか七〇%という高い国民負担率となっているはずです。豊かな高齢社会を築くには、まず産業や経済の構造を正しい方向に変えることが必要だと思います。
もう一つ、福祉を考えるときに国民負担率という間違った考え方があるために困った問題が生じています。国民負担率とは、御承知のとおり、私たち国民がお金という形で支払った税金と社会保障費の合計を、やはりお金を仲立ちにして右から左に動いた国民所得で割ったものです。すなわち、国民負担率とはお金でカウントできるものしか頭の中に入っていないのです。そのために、お金のかからないものならば国民負担率を押し上げることはありませんから、そこで、将来高齢化が進むにつれてボランティアとか家族による介護といった無償の行為が国や財界から奨励されるわけです。これはとんでもない間違いです。
ボランティアは確かにお金がかかりません。しかし、ボランティアの活動時間に対するオポチュニティーコスト、機会費用とも言いますが、これを全く無視しています。例えば、勤務中のサラリーマンがボランティアをすれば、その分自分の仕事ができなくなります。主婦がボランティアをすれば、その分外で働けなくなります。もっと簡単に話をいたしますと、国民全員が全労働時間をボランティアに充てるとしますと、日本のGNPはその場でゼロになります。すなわち、ボランティアが日本の活力ある産業社会を維持する上で最も経済的には害悪であるということです。
確かに、ボランティアをやればやるほど、国民負担率の上昇を抑えることができます。しかし、ボランティアをやればやるほど、同時に国家の経済の規模も縮小していくのです。ボランティアとは、そもそも人間性を高める精神的に崇高なものであるはずです。そうした崇高なボランティアを経済的に悪用すれば、私どもはしっぺ返しを食らうでしょう。したがって、ボランティアを奨励しようとしてボランティア切符を導入したり時間貯蓄という概念を導入したりすることは、私は経済的には余り意味がないと思います。今後、公的介護保険制度みたいなものができれば、ボランティア切符や時間貯蓄はどうなってしまうのでしょうか。最後には紙切れ同然になってしまうのでしょうか。戦争中の軍票のようになってしまうのでしょうか。それとも、ボランティア切符で介護保険料を納めてもいいよといった臨時的な措置がとられるのでしょうか。国民負担率を抑えようとして、介護を国に依頼せずに家族がすべきだというもう一つ間違った考え方があります。確かに、家族が介護すればお金はかかりませんから、国民負担率を抑えることはできます。しかし同時に、ボランティアと同じことで、GNPも縮小してしまいます。
その理由は次のように説明できます。
介護を必要とする者がいれば、そこには必ずだれかがお世話しているはずです。それが家族でありうと、市町村のホームヘルパーであろうと、営利の民間ヘルパーであろうと、お金の授受の有無にかかわらず、お世話することに何の違いもありません。お金をもらえるかどうかは別にして、だれかが必ずお世話という労働をしているのです。
日本は今や高齢社会です。世間に多数の要介護老人がいます。おかげで多くの働き手が仕事をやめて、あるいは長い間仕事を休んで家族の介護をしているわけです。すなわち、公費による福祉が日本のように低い水準であると、人々はきちんと働くことができません。したがって、公費による福祉が低いと、社会全体で考えてみますと大きな負担があります。経済規模は縮小していくのです。働いている人が家族の介護のために会社を長期間休むことのできる制度に介護休業制度というものがあります。これも普及してくれば、やはり日本経済にとって大きなマイナスです。
また、ボランティアでもなく、家族の介護でもなく、もう一つ国民負担率を上げない方法があります。それは、行政がサービスを行うのではなくて、民営化ということです。
アメリカを見てください。日本のように公的な医療保険はなく、ほとんど民営化されています。医療というものは、患者にとりましてはだれでも健康が大切ですから、市場での力関係は医療機関の方が強く、民営化によって医療サービスの販売価格は上がるばかりです。医療費に一体どのくらいのお金がかかっているかといいますと日本の四倍ぐらい、ちょっと数字は押さえてまいりませんでしたけれども、百兆円近いお金が医療費に使われています。これを国家経済に対する比率で見ますと、日本の二倍に当たるGDPの一二%が医療費に使われているのです。それだけの多額のお金を使いながら、裕福ではないおよそ三千七百万人のアメリカ人がお金が払えないために医療の恩恵をほとんど受けていないのです。
ちょっと飛ばしまして、さて六番目に、付き添いの廃止についてお願いがあります。病院における付き添いが廃止されることになりましたので、そのことについて申し上げます。
私は、既に先ほど付き添いの廃止は医療費の抑制をねらったもので非人道的であると申しました。事実、付き添いが廃止になった病院では、介護に手間のかかる患者の入院が断られると聞きます。人の命がこうも軽く扱われることが、ほとんど議論もされずに国会で決められてしまうことに、とても残念な気持ちでいっぱいです。
近年、在宅医療が保険対象となったということを除けば、医療制度が次々と改正というより改悪されているわけですが、そこで一貫して言えることは、現場の無視と患者の不在ということです。この国の医療と福祉の現場では、働く側とサービスを受ける側の双方に深刻な問題がさまざまにあります。その原因の多くは人手の少なさにあることは論をまちません。
よく急性疾患の時代から慢性疾患の時代に入ったということを厚生省は何度も繰り返します。とりわけ、高齢者は慢性疾患にかかりやすいと繰り返します。いわゆる持病というものです。その結果は、老人病院の役割は慢性疾患の治療であるという発言となっております。私は、ほとんどの慢性疾患というものは、入院する必要はなくて通院で済むと思っています。事実、老人病院の役割は治療ではなくて介護をしっかりすることになってしまいました。これでは福祉施設と全く変わりありません。実際、日本では老人福祉と老人医療の混同が助長され、日本の社会保障は混乱していると言っていいと思います。
さて、厚生省が、急性疾患の時代から慢性疾患の時代に入った、慢性疾患が多いのが老人の特徴であると言い続けた結果、老人は、若者と同様に、いや若者以上に五倍も十倍も高齢者に急性疾患が存在しているという当たり前の事実を視野から外してしまいました。がんとか骨折とか肺炎とか脳卒中、脳梗塞、心臓発作、心筋梗塞、こういった急性疾患はお年寄りほど若い人の十倍も二十倍も多いのです。こういった急性疾患が視野から外れているのです。そして高齢者は慢性疾患しかないんだと。そういった結果、前の国会では付き添い廃止という大きな法案が通ってしまいました。
日本のように職員の少ない医療機関では、看護婦は欧米の二分の一から三分の一しかいません。こういった職員の少ない医療機関では、医療と介護の両方を病院は担えません。医療と介護の両方は捉えませんから、どちらか片方を捨ててもう片方に特化することになります。介護に特化すれば介護力強化型病院となります。介護力強化型病院の実態は福祉施設です。一方、医療に特化すれば、身の回りのことが患者自身でできる人だけを対象としたとしか考えられない基準看護の一般病院となります。日本の基準看護における看護婦の数は、一ベッド当たりで欧米の半分もいません。
こうした実情を見てみますと、欧米と比較して極端に少ない職員数において、基準看護の基準とは何を意味するのでありましょうか。少なくとも障害者や老人の入院を想定していないことは確かです。
では、その双方から、老人病院からも基準看護の一般病院からも見放されている障害のある人、その多くは高齢者ですが、障害のある急性疾患の患者はどうすればいいのでしょうか。この人たちは医療と介護を同時に受けなければならないのです。こういう患者は医療も介護も必要ですが、高齢者の場合、たとえ入院する時点において身の回りのことができても、ベッドに拘束されることで頭の中が混乱したり、また薬の副作用が強く出ますから、入院中は介護を要する状態に陥りやすいのです。
こうした障害者や高齢者の急性疾患を治療する場合、従来ならば患者が付き添いを雇い、身の回りのことを付き添いの人に依頼して一般病院に入院していたのです。都道府県によって異なりますけれども、患者が支払った付き添いを雇うお金の半分とか全部をこれまでは医療保険が還付してくれました。こうした付き添い制度のおかげで障害者や高齢者の急性疾患の治療が可能であったのです。
付き添いの廃止とは、従来あった患者が支払った付き添い費用についての医療保険からの還付が廃止されたということですから、多くの高齢者は今後医療を受けることができません。
理念上、病院はすべての国民に門戸を開いていることになっていますけれども、高齢者の場合は入院治療に付き添いによる看護を必要とすることが多いものですから、付き添いが廃止されれば、重度の障害で付き添いが必要な老人は入院を嫌がられてしまいます。物理的に入院する権利を失うことになります。人の命を左右する問題がこうも簡単に扱われて果たしていいのでしょうか。それが社会保障の正しい姿と言えるのでしょうか。
社会保障の正しい姿とは、急性疾患を扱う一般病院においては、すぐさま診療報酬の水準を大幅に上方修正して、一ベッド当たりの看護婦の人数を大幅にふやすべきです。それができず、次善の策ということとなりますと、前の国会で決まりました付き添い廃止の良心とも言うべき見直すこともあり得るという附帯条項を使ってください。それを利用して、急性疾患を扱う一般病院に限定して付き添い制度を復活してほしいのです。私たちは、良心や人間性に反することはやめるべきですし、必要な社会保障には財源を用意すべきだと思います。
ちょっとオーバーしておりますけれども、七番目の学問について申し上げます。
学問は、人間社会の幸福を追求するものです。その学問の自由が保障されることが重要です。しかし、だれが聞いても当たり前のことですけれども、そうではないのです。日本の高齢化は大変です。一厚生省の問題ではなくて、産業構造全体の、日本社会全体の問題です。高齢化が社会に与える影響や社会がどのように対応を迫られているのかを見きわめる必要があります。そのためには、国民全員の議論への参加が不可欠でしょう。
しかしながら、医療経済や福祉経済を見ても日本では極めて立ちおくれています。原因は明らかに単純なもので、厚生省が情報を一手に握って公開しないからです。また、意図的に情報を操作いたします。国民が重大な関心を持っている公的介護保険制度を例にしましても、既に一年間厚生省の中で大変な議論が行われているにもかかわらず、全くそれが外部に明らかにされていません。そのくせ、公的介護保険制度は再来年には国会に法案を提出すると厚生省の幹部は公言しています。いつものとおり、国民が自由に議論に参加する時間がないように直前まで内容は伏せられてしまうのでしょうか。
最近では、厚生省も医療経済の発展の必要性を認めるようになりました。しかし、みずから財団法人医療経済研究機構というものをつくり、そこに官僚が天下り、学問を統制下に置いています。これでは戦争中と全く同じことで、都合のよい研究テーマばかりが選ばれ、導き出される結論もおのずと決まってしまうことでしょう。
学問は自由であってこそ発展するものです。また、医療経済や福祉経済は国民にとって重要性を飛躍的に増しています。財団法人医療経済研究機構のようなものは決してつくらず、情報を公開して広く国民が議論に参加すべきでしょう。それこそが国民の納得できる正しい政策をつくり出す最良の手段と思います。
さて、最後に一言。さらに重要な問題は、官僚組織の中にはコスト意識がまるで感じられないことです。自分で苦労して働いて得たお金ではないからでしょう。毎年繰り返される国家予算の各省庁間の獲得合戦を見ましても、ふやすことばかりで、必要のなくなった部門を縮小していく気持ちはないようです。おかげさまで税金は上がるばかりです。消費税も引き上げられるようですが、現在、既に国民は多大なる税金と多くの規制によって目に見えない高率の消費税を支払っています。
政府部門は毎年肥大化していきます。しかしながら、迫りくる二十一世紀の超高齢社会を日本が豊かな社会として迎えるためには、公的福祉だけは拡大する必要があります。経済の効率を維持するためには、同時に、日本はなおも小さな政府を追求していかねばなりません。今日、行政改革の必要性は極めて高いのです。既に存在理由を失っている特殊法人の見直しの論議の際にも、関係省庁はヒアリングにさえ応じないとマスコミは報じています。
選挙によって選ばれた国益を代表する参議院の諸先生に対しまして、一層の御活躍を祈念して、私の意見を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。