中山正暉の発言 (安全保障委員会)

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○中山(正)委員 お許しを得まして、今回の阪神大災害に対します問題を中心に、これは国の安全保障に大いに関係があるわけでございます。
 私は、国家の四本の柱、特に国の専権事項というのは国防と治安と外交と教育の中身、何を国家として教えていくか、この四本が私は国政の柱だと思っております。災害というのは、これは治安、その後に乱れるという心配が往々にしてあるわけでございますが、まずこの日本が、地震国といいますか、太平洋プレート、それからフィリピンプレート、そして北米プレートという三つのプレートの上に、日本の下を潜ってマグマが入り込んでいくという地震多発地帯に国家が位置しているわけでございまして、たび重なる地震に犠牲者が出たわけでございます。今回も五千数百という亡くなられた方を出し、まずその皆様方に心から御冥福をお祈り申し上げたく、また私は、ちょうど小学校六年生のときに戦争が終わりましたが、三月十四日に大阪の大空襲がありまして、その大空襲のときの死亡が四千七十八名だったと覚えておりますが、大空襲よりも死亡者が多かったということに私は大変ショックを受けております。
 そういう意味でこの問題を私どもは大いに今後の戒めとして、初動にいろいろな問題があったということも聞いておりますが、特に戒めにしなきゃいけないのは、ちょうど一五九六年でございますが、これは伏見桃山城が崩落をするという、伏見大地震というのがありました。これは明治になりましてからも地震加藤と言われ、加藤清正が太閤さんからしかられて謹慎をしておりますさなかの伏見城の大崩落、このときは伏見城で五百七十人の犠牲が出ております。一五一九年にも地震があっておりますし、その一五九六年のときはちょうど太閤秀吉が亡くなる二年前で、徳川家康が朝鮮出兵をやめたらどうかということを諌止をしております。ちょうどそのときも地震が起こったように、私は、ある意味では天罰が当たったのではないかな。
 今また一年のうちに四人も総理大臣がかわるという政治的に大変不安定な時期を迎えておりまして、そのときにこういう災害が起きたというのは、その災害が起きた場所も神様の戸口、神様の戸、神戸と書いてございますが、これは私は、日本に反省を求めるための神の試練であった、犠牲になられた方々には本当にお気の毒な犠牲だと思いますが、これは後の日本人のために大いにこの災害を、災いを転じて福にする、そんな心づもりが我々政治をする者にとって必要なのではないかということを思わせていただくわけでございます。
 阪神、大阪の阪という字と神戸の神という字を書いて阪神と言っておりますが、私も日曜日の朝、大阪市内も大変でございますと言われるので、此花区の伝法というところへ行ってまいりました。スーパー堤防の方は大丈夫であったのですが、古い堤防の方が、まるでチョコレートの板を粗割りにしてそれを箱に詰めたような、もう大変な災害でございます。気の毒なことに、その上を早朝ジョギングをしていた人が四人、その瓦れきの下から出てこられた。
 この災害に関しての不幸というのは、世界じゅうに出回っておりますタイムという雑誌の表紙にも、お母さんが瓦れきの下になって、救い出しに行ったけれども火の手が迫ってきて、お父さんとその娘さんにお母さんが、「もういいから火が来たから行ってください。」そう言われてその場を立ち去った、我が家の焼け跡にうずくまって合掌する女性が載せられています。生きている母をそこに残して私は立ち去りましたと、そのタイムの表紙になった方がテレビに出られての生のお話を私は伺いまして、本当に大変なことだったなと思います。そんな話があと幾つも出てきました。新婚の御主人に、倒壊家屋の中から助け出そうとする結婚したばかりのお嫁さんが、「あなたもう行ってください、また次生まれてきたら結婚しましょう。」と言って目の前で火に包まれていった話なんというのは、本当に涙なくしては聞けない話でございます。
 戦争末期にも、私の記憶に残っております昭和二十年三月十四日の大空襲のときに、荷物と赤ん坊を抱えて出た、荷物は水につけておけばやがてとりにきたら大丈夫だろうというので、そのころはまだ井戸がたくさんありましたから、井戸に荷物を捨てた。さあ避難所へ行っておっぱいを飲まそうと思って、赤ん坊だと思ってあけてみたら荷物だった。どこへ捨てたかわからない。戦争の災害も悲劇をいっぱい生みました。
 この地震の災害も大変な悲劇を生んだのでございますが、それに防衛庁の皆さんが大変な努力をしてくださった。玉沢さんという我々が大変信頼をする防衛庁長官が今ちょうどいてくださいますし、自衛隊の現場の方々も大変御苦労していらっしゃいます。その自衛隊の災害救援に当たってくださった方々に、私は心からまず感謝を国民の一人として申し上げたいと思いますと同時に、ある意味で連立てよかったなと私は思っております。
 社会党の総理大臣をいただきましたから、村山さんの人柄で、自衛隊は結構でしょう、沖縄にいる米軍もこれはアジアの平和に対して非常に結構な存在です、日の丸も国歌も結構でしょう、そうおっしゃってくださって、社会党の中で話がついたのかどうかは別に知りませんが、それを堂々と言ってくださった方が今いらっしゃるからこそです。
 私は、これからの自衛隊の主な任務というのは、敵の侵略を未然に防ぐこと、それからその侵略に対応すること、そしてまた、災害の救援をすることですが、三つ目の任務は、久保次官ぐらいのときまではこれは裏芸でございましたが、これが表芸になってまいりました。特に自衛隊は、いざというときには命をささげていただくということでございますから、ふだんは余計なところへは出ていただかずに訓練を重ねていただくということでございますが、これを遊休労働力みたいに思う方々がふえてまいりましたから、災害救援に特別の働きをしていただくということは大変ありがたいことであるし、これが自衛隊の任務として国民の信頼感を得る上で重要な任務であることは当然だと思います。
 我々の子供のときには、演習があると家に兵隊さんが三人も四人も来て、私ども子供をひざの上に乗せてくれて、そしておもしろい話をたくさんしてくださったという思い出があります。そのときは、おじさんが徴兵制度で兵隊にとられている、お父さんが行っている、だから慰問袋を送ろう。あのころの、戦前の軍隊というのは、いわば家族が働いている場所であったわけでございますが、今はそうもまいりません。
 そんな中で、自衛隊に対する信頼度をいかに高めていくかということ、そしていかに対応していただくかということでございますが、社会党の総理大臣をいただいているから対処がおくれたと言う人がいます。自民党の総理大臣ならばもっと早く対処したんじゃないかというと、私はそんなことないと思います。これはだれの責任でもない、早期に知り得るような組織になっていなかった、そんなふうに思っております。
 まず防衛庁から、初動でどんな対応をされたのか。いろいろ出版物で、きょうで災害以来二十二日目になりますから、二十二日目のせいもあって、いろいろな官邸の内部の話が外へ出てきております。まず、その初期にどんな対応をされたのかというところからお伺いをいたしたいと思います。

発言情報

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発言者: 中山正暉

speaker_id: 32328

日付: 1995-02-07

院: 衆議院

会議名: 安全保障委員会