片山豊の発言 (交通安全対策特別委員会)
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○片山参考人 ただいま御紹介いただきました片山でございます。
戦前戦後を通じまして、私は自動車に非常に興味を持っておりましたので、殊に自動車クラブというものをどうしたらいいかというようなことを考えておりました。戦後、進駐車将校によって一九五一年に組織された、スポーツ・カー・クラブ・オブ・ジャパン(SCCJ)を、我々日本人モータースポーツ愛好家が一九五五年に継承して日本スポーツカークラブ(SCCJ)と改め、私はその会長をやっておりましたが、一九六〇年に私は海外へ出なきゃなりませんので、一九六〇年から七七年までアメリカにおりまして日本の状態を眺めておったわけでございます。その間にJAFができまして、そのJAFの構成は、なかなか日本には自動車クラブというのはたくさんございませんので、いろいろ国際関係があるので、やはり国際的に立ち上がることのできる一つの団体ができなきゃいけないというようなことを常々考えておったわけですが、たまたま一九七〇年ごろに、浅原源七社長、日産自動車の会長をしておりましたけれども、そのときにまたJAFの会長をしておりまして、一度帰ってきてJAFをもっと公平と申しますか 一般のクラブのようにするためにおまえ帰ってこいというようなことがございましたけれども、私は仕事が忙しくて帰ってこられなかったわけです。
一九七八年に日本へ帰ってまいりまして眺めますと、そして私は日産から推薦を受けたわけではございませんで、スポーツカーを好んでいる連中から推薦を受けまして、JAFの理事に入りました。それで一番先に感じたことは、周りを見回すと、全部いわゆる自動車会社の重役があるいは社長か、そういった方々が顔を連ねておられるので、これは自動車クラブじゃない、もっと我々のような自動車を愛する者が中へ入ってきて、そしてこれをやらなきゃいけないということを考えて、たびたび理事会においては、早く民間に返してください、そしていわゆる利益を代表する方々には帰ってくださいというようなことを発言をしておりましたけれども、なかなかそれができませんで、そこへもってきて官庁の監督があって、いわゆる官庁から天下ってきた会長がずっとおられまして、我々としては何とも文句を言うことはできなかったわけです。
いつもそれに押しつぶされているような関係で、私は、殊にスポーツの委員長をしておりましたので、スポーツの方で逃げてというわけじゃありませんけれども、スポーツの方を何とか開拓しようというようなことでおりまして、今ここで顧問として内在的矛盾のことを申し上げるのは大変私心苦しいのですけれども、しかし何としても、自動車連盟というからには日本じゅうにあるモータースポーツクラブが連合してでき上がったものでなければならないのに、いわゆる草創のときにできた、いわゆるメーカーあるいは販売会社によってつくられたクラブがそのまま今日まで来ておる。
その中で、理事会に私はたびたび出て申し上げたのですけれども、基本問題調査会というのがありましたけれども、この基本問題調査会では一回もその問題については議論されたことはありません。私が提案してもそれは消されてしまうというような状況でありました。したがって、いろいろ文句を申すものですから、五年前ですか、四年前に私はいわゆる祭り上げられて顧問になったわけでございますけれども、顧問という仕事が何もありませんで、それきり一切何も関係がないわけでございます。
そんなことで、JAFはぜひとも、最近地方にたくさんクラブができておりますから、クラブの代表者を理事に送り出してJAFの仕事を運営してもらいたいと思います。