内橋克人の発言 (規制緩和に関する特別委員会)
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○内橋参考人 内橋でございます。
規制緩和に関しまして意見を求められてやってまいりましたが、最近の情勢を拝見いたしておりますと、政治のテーマ、国会ジャーナリズムのテーマというものが既に他の分野に及び始めているのかなと、出席者の方々の数などを拝見しながら思いました。
私がきょう申し上げることは、当委員会の主流となっておりますような考え方とはかなり質的に違ったものであろうと思います。私にとりたててこうした意見を述べよという御指示をいただくということは、しかし、そうした異論というものについて少し耳を傾けてみよう、こういうところから声が発せられたのではないだろうか、こういうふうに考えます。
きょうは、最初から大変僭越でございますけれども、個別の細やかな問題と申しますよりは、もっと本質的な、深く掘り下げた大きなテーマとしていろいろ御質問をいただくことが私の最大の希望でございます。
規制緩和に関しましては、多くの問題を積み残したまま、一種の陶酔現象と言ってよろしいと思いますけれども、規制緩和さえすれば失業問題は解決して、景気はよくなって、そして新しい産業が開けて、しかも日米経済摩擦は解決すると、今や万能の神になりかかっていると思います。その間にもさまざまな当事者の声というものがほとんど吸い上げられていないというのが私の実感でございます。皆さん方の選挙区にお戻りになりまして、どのような現象が既に、例えば駅前の非常に長い歴史を持った商店街で現在進んでいるのかということをごらんいただいただけでも、規制緩和という名において何が進んでいるかがおわかりになると思います。
私どもの世界では、通常、私は一九五七年から経済記者をやっておりまして、かれこれ三十九年になりますが、私どもがジャーナリストとしてスタートをいたしましたころには、格別叱責をされる記者というものがおりました。それは俗に成り注記者というものでございます。成り注というのは成り行きが注目される、一つの文章を書きました場合に、最後に「成り行きが注目される」と書けばそれでやすやすと記事が通ってしまうという、俗に成り注記者と言っておりました。こういう記事がデスクの手元に上がってまいりますと、デスクはその記者の頭をぽかりと殴りまして、そして、成り行きが注目されるとは一体何なんだ、一体だれがその成り行きを注目するのか、あるいは成り行きはだれがつくるのか、そう言って若い記者に対して忠告を与える、こういう習慣というものがございました。
成り注記者にかわって現在非常に流行しておりますのは、最後に「規制緩和が望まれる」と書けばそれでいっぱしの記事は書いた、いっぱしの記事として通用するという。コラムも、あるいは解説、傾向物も、最後に必ず「規制緩和が望まれる」、こう書いてあるわけですね。
最近ではいささか鎮静化してまいったと思います。一つは新聞再販の問題、それから純粋持ち株会社解禁の問題、こういうことが起こってまいりまして初めて、規制緩和は一体何を意味しているのか。経済界を中心として、あるいは行政も一体となって、マスコミがこれまでその全体を支えてきたような、いわばレッカー車で引っ張って走っていたようなものでありますけれども、それは一体現実に何を意味しているかということがようやくわかってきたのではないか、そういうふうに思います。
そういう中で、これまでの傾向をごらんいただくとよくわかりますように、例えば規制緩和に関する計画、五カ年計画、これは後に三年計画に縮小、前倒しをされましたけれども、こうした計画が発表されますと、やる気が見えない、これが見出してございましょうね。あるいは、内外の批判が高まる、そして、重要な項目はすべて先送りではないかという、そういう規制緩和のいわば推進のスピードというものが遅いという議論がマスコミの一般的な糾弾の声として浴びせられるわけでありますけれども、一体それは何を基準にしてやる気が見えないのか、何を基準にして重要項目が先送りされているのか。この先送りという言葉も私は大変問題だと思いますけれども、こうした状況。何を基準にしているかと申しますと、言うまでもなく、例の平岩委員会だと思います。
平岩委員会、手短に申しますと、これは例外なき規制緩和というものを原則として掲げたわけであります。つまり、一たんすべての規制を外せ、こういうことがこの趣旨であろうと思います。最も中心的な核心だと思います。こうしたことを、いわば当初は行政がそれに対して抵抗しているのかと考えておりましたけれども、実際には行政が先頭に立ちまして、官僚製規制緩和という、これは言葉の矛盾だと思いますけれども、同時に、行政、マスコミそして経済界、一体になって規制緩和を進めている状況、これが現実、現在の段階といいますか、ではないだろうかと思います。
一般の人々は、規制緩和という言葉によって、単にがんじがらめの規制を外して自由闊達に人々の行動というものを認める社会、つまり、開かれた社会になると。こういう解釈というものが社会一般に大変強いと思います。一言で申しますと、官から民へという流れでございますね。官僚さんがあるいは国家が掌握しておりました権限というものを民間に移譲していくのだ、こういう解釈が一般的であろうと思いますけれども、実際にはその中で何が進んでいくのかということについてそろそろ、私どもは当初から大変強烈なウオーニングを出してまいりましたけれども、国全体としても立ちどまって、もう一度議論を深めていくということがとても大事ではないだろうかと思います。
そういうことで、十五分ということでございますから、最初に、要点を五点ばかり挙げておきたいと思います。
まず、今日日本で進められようとしております規制緩和ということについて、五つの特徴、特質というものを指摘できるのではないだろうかというふうに思います。
一つは、つまり、規制緩和というこの言葉、あるいは政策選択というものが、薬に例えてみますと、薬品の効果ですね、効能、薬効と言ってよろしいと思いますが、それが大変強く強調されている、先ほど申し上げましたけれども。他方、薬には必ず副作用があるわけでありまして、その副作用についての告知というものがほとんど行われていない。一方でこういうプラスがあるけれども、片方ではこれだけのマイナスがあるのだと。
例えば、アメリカにおける規制緩和に関しましては、御承知のとおり、三年間の議会での長い議論を経て、最後にカーターさんが法案にサインをした、こういうことでありますけれども、その過程を拝見いたしますと、ケネディ・レポートには、負の影響、マイナスの影響というものが明快に指摘をされております。例えば、規制緩和によって破壊的な価格競争というものが起こる危険、あるいは寡占化が進むのではないか、さらには公共性の撹乱ということですね、市場の自由な競争に任せた場合に一体公共はどうなるのか、そういうことについてそれぞれ予測、予想というものをきちんと示して、選択を求めているという点。日米においてこれだけ違うということがあります。
そのアメリカにおいてさえ、現在、規制緩和は失敗であったという側面が徐々に明らかになっておりますし、そうした論文、レポートが限りなく今持ち出されているというのが現状だと思います。日本におきまして、こういうことでやってまいりますと、大と小の間の公正な競争ではなくて、力の大小の競争というものになってまいりますでしょう。その兆しというものが既に私たちは観測することができるわけであります。
そういうふうに、規制緩和が何をもたらすのかという結果についての、つまり一種の予測でございますけれども、ほとんどエネルギーが注がれていないということについては、私は、むしろ驚くべきことではないか、そういうふうに思います。競争のゲート、仕切り、大と中、小を仕切っておりましたゲートが取り外された結果何が起こるのか、薬で申しますと副作用ですね、あるいはまた消費者にとっての問題、勤労者にとっての問題、さらに市民にとって一体何が問題か、こういう点について、やはりきちんとした正と負の両面からの結果についての予測、これを知らしむるというか、告知をする必要があるのではないか、これがまず第一点でございます。
それから、二番目でありますけれども、二番目は、すべて消費者利益という言葉に収れんさせて、一種の免罪符としているということであります。消費者利益とは一体何なのかということについて、中身が明確ではありませんし、明快にしようという努力もなされていないと思います。
私どもは、消費者一般は存在しないというふうに考えております。皆さん方の選挙区、地元の人々の一人一人のお顔を思い浮かべていただければよろしいと思いますが、例えば、過疎地の消費者もおれば大都市の消費者もいるわけであります。例えば、再販問題に関する、新聞再販、戸別配達ですね、これに関する検討小委員会の中間答申の中にございますけれども、例えば、同じ新聞の戸別配達を受けるのに、過疎地の料金とそれから大都会の便利な地域の消費者の戸別配達料金というものが同じであるのはおかしい、こういう項目が明示されております。ちゃんと盛り込まれております。つまり、非常に不便な地域の、過疎地の読者、ここに新聞を届けるために必要なコストをだれが負担しているかといえば、それは都市に居住している人々だ、こういう議論なのですね。消費者一般が存在しないという私の考えというのはおわかりいただけると思います。
消費者は、そのように過疎地の消費者と大都会に住む消費者と明らかに利害が違っているわけでありますけれども、それは料金は違うべきである、情報を実際に伝達するに当たって、料金が違うのが当たり前で、料金が同じなのはこれは規制緩和の趣旨に反する、こういう議論がなされておりますけれども、一体消費者とは何なのかということだと思います。
それから、価格に関してでありますけれども、もちろん物の値段が安ければいいということは当然でございますが、この間に利潤が介在いたしまして不当に高くなるということは避けなければなりません。
しかし、私たちが二十一世紀に向けて本当に社会で育てていかなければならない消費者とは何かといえば、単に安ければいいのではなくて、なぜ安いのかということを問う、そういう消費者だと思いますね。なぜ安ければいいのか、あるいはなぜ安いのか、こういうことを問う消費者だろうと思います。実際に、生産者の生産費あるいは生活費、また南の国との格差の問題、こういうことについてきちんとした認識を持って、いわば公正な取引ですね、フェアトレードですね、それを追求した上での安さ、値段の安さ、そうであるのかどうかを問う消費者、これが新しい消費者だと思います。言うまでもないと思いますが、安ければいいという議論は私どもはとらないところでございまして、事ほどさように、消費者についてのこの言葉の使い方、何かといえば消費者利益とおっしゃいますけれども、消費者は、消費者一般というものは存在しない、こういうことが二番目に申し上げたいことであります。
それから、三番目でありますけれども、少し急いでまいりますが、いわゆる社会が、あるいは都市がこれからどのような方向に進んでいくべきなのかということを考えました場合に、世界には新しい思想というものがどんどん生まれてきていると思います。その一つは、例のサステーナブルコミュニティー、持続可能な社会というものは一体何なのだ、こういう考え方に基づいた新しい都市の思想というものが生まれてきているわけであります。
そういう中で、これはアラン・ダーニングという、例の二十一世紀ウォッチ研究所の最新の書籍だと思いますが、「どれだけ消費すれば満足なのか」、こういう書物が近刊で出ております。この中にも、日本の大店舗法、大店法ですね、このもとで次第に姿を消していく小さな専門店、つまり小売でございますね、パパママストアという言葉も振り仮名でつけておりますけれども、そういう
商店の減少していくスピードが余りにも速いことを憂えているわけであります。こうした商店街の小規模な小売業が一体どのような役割を今日本で果たしているのか、果たしてきたのか。これについて、むしろ、アメリカ人でありますが、ワールドウォッチ研究所ですけれども、この著者の方が見事に正確な位置づけというものを、日本の小さな小売業、今衰退しつつある小売業ですね、そこへ大店法改廃という問題が起こっているわけでございますけれども、そういう役割を評価しておられます。
フランスにおいては、御承知のとおり、ロワイエ法という日本の大店法に匹敵する法律がございます。これは、小規模な小売店をいかに保護するか、これの運営というものを強化する。これまでは一千平米以上の大規模店の出店に対して政府の許可が必要であるという状況でございましたけれども、この規模を三百平米に引き下げました。実に、どういうのでしょうか、規模で申しますと三分の一以下に対象範囲を広げたということでございます。
これは一つの例にすぎません。いわば日本の規制緩和の流れとは逆に、ヨーロッパにおいて、こうした形で小売店、小さな店舗の果たしている役割をもっと正当に評価しよう、そのことによって、雇用であるとかあるいは高齢化していく社会に小売店がどのような役割を果たせるのか、それを真剣に考える時代に入っている、こういうことであります。生産性が低いから小さな店はつぶれて大きな店に集中すればいい、こういう考え方はとっていない、こういうことでございますね。
それから、四番目でありますが、規制緩和によってなぜ産業界の寡占化、独占化が進みやすいのかということについての認識がほとんど語られていないということです。
これについては、私どもの「規制緩和という悪夢」、この中に詳しく書いてございます。アメリカにおける航空産業あるいはトラック業界その他の状況について書いておりますが、要するに、消費者利益に最も適応できるようなそういうシステムとかあるいは制度というものをつくり得るのは最終的には大企業のみだということが証明されたということになると思います。こうした文脈の中で、例のコンテスタブル・マーケットの理論というものが破綻している、これもまた現実でございまして、間もなくこうした全体を総括するような議論が、アメリカにおいてはもう既に起こっているわけですが、日本にもこれから本格的に紹介されるようになるだろうと思います。六月にはその中の一つが翻訳、出版されるというふうに伺っております。
最後に、少しまとめて申し上げますと、経済政策の論議を超えてしまってイデオロギーになっている、やはりこういうことではないかと思います。現在の規制緩和に関する論議、その渦中で私どもが拝見しておりますと、これは経済政策としての論議をもう既に超えている。
どうもアメリカにおいてもそのような状況であったようでございまして、これは、デンバー大学のポール・スティーブン・デンプシーという人が「規制緩和の神話」という本を書いておりますが、その中で、プラグマチックな現実からというよりは、イデオロギー的な心酔から推進されたものであるということを明快に彼は述べているわけであります。
規制緩和に対して少しウオーニングを出せば既得権にしがみつくという突き放し方、あるいは守旧派というレッテル張り、それが我が国では平然と行われているわけでありますけれども、これを支持しておりますのは、要するに、これまでの官、官僚行政に対するいわば市民社会的な反発というものがとても大きいと思います。しかし、官から民へという場合のその民の中に、勤労者であったり市民であったり本当の意味での消費者が入っているのかということを私たちは一つ一つの実例で実際に検証して、現場で検証して、そして、こういう事実があるではありませんかということをこれまで示してきたわけでございます。
大変駆け足でございますが、私が申し上げたい五点はそういうことでありまして、もう少し踏みとどまって、しかもアメリカにおける壮大な実験の結末というものも含めた議論、踏みとどまった新たな議論がここで起こるということを御期待申し上げたい、こういうことでございます。とりわけ、公共性の撹乱という問題、それから階層分化、階層がさらに二極にいく、分化していく、中間階級の崩壊あるいは安全の問題その他について、また御質問にお答えしながら私の主張を補強させていただきたい、こういうふうに思います。
時間、ちょうどだと思いますが、少し長引きました。以上でございます。ありがとうございました。(拍手)