小野清子の発言 (文教委員会)
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○小野清子君 ありがとうございました。
とにかくこの件数を聞きますと、教育現場というものが、子供たちの夢を育てつつも、片や大変な状況であるということの認識も改めてさせられるわけでございます。
とにかく今回の事件を通して、いらいらするとか腹が立つ、むしゃくしゃする、それが何かしら受験戦争のあおりのような認識を子供たちが発言しておりますけれども、人はやはりいつの日かは、どこかで学び、苦しみ、そしてそれを乗り越えていくという時期が必要なわけですから、子供たちの言うことに私は一〇〇%同情するつもりはありません。やはりそこに対応しながら子供たちが伸びていくものだと思います。
それにしましても、親の子育てのあり方の過程というものが、従来のように複数の大勢の人間の中ではぐくまれていく時代と非常に1親といっても片親であったり、時には親が家の中にいないで自分一人孤立するような、家庭という言葉で言えないような状況で子供たちが育っているということも現実でありますし、あるいはまた学校の教師の指導のあり方にしましても、やはり従来のような何かゆとりがないような気はいたします、ゆとりある教育をたたえながら、訴えながら。それから社会環境としても、歯どめのない情報の洪水のような状況の中で子供たちがそれを取捨選択しながら安定した心境で青春時代を過ごしていくということは、ある意味では大変それこそ洪水の中でおぼれてしまう状況が出てきているのかもしれない。
そういうことを考えていきますと、大臣がおっしゃったように、心の問題ですとか人間性の問題ということの中に、道徳教育等々、日本古来の礼儀正しく、まじめで、正直で、勤勉でなどという言葉が今の子供たちには何かしら余り当てはまらないような気がするんですけれども、特に私は、このごろ起きますさまざまな事件の中で、ひきょうという言葉はこのごろ余り使われない言葉ですけれども、一人の人間を多数であやめてしまうとか、これは高齢者あるいは弱い者、あるいは大人であっても数人が、おやじ狩りなどという大変嫌な言葉がありますけれども、勇気がなく憶病であるがゆえに事を運ぶというふうな非常に卑劣な行動が私は何かしら目立つような気がするんです。
校内暴力が発生していくということも、ある意味ではそういうことのあらわれを学校で、まずいことですけれども表現しているのかなと、そんな気もしないでもないわけですけれども、人は人にもまれて人になるという言葉がございます。学校の中で心の問題を問うときに、紙の上で心づくりというのはできるのだろうかということを感じている一人でもございます。
そういった意味においては、他との違いを知り、自分を大切にしながら他も大切にし、協調、共同、協力精神の中でということは、社会というのはまさに自分一人では生きていけないわけですから、その社会の中に自分が立つ最初の教育の場が家庭ですけれども、家庭に教育の力がないとすれば、それを学校教育なり社会教育なりがどう補っていくかをしない限り人間教育というのはできていかないと思うんです。
私は、今回の問題を通して何かを変えていかなければ次の問題がまた出てくるのではないかという大変大きな危惧を抱くわけです。何を変えていったらいいんだろうかということを考えさせていただきますと、三同効果というのがあるんですね。同じところで同じものを食べ、同じ問題について語り合いながら三日暮らせば心が通じ合うよという三同効果という言葉があるんですけれども、それに似たようなものが修学旅行なのかなと、そんな気もしないわけではありません。
私は、学校教育というこの教育の場で、いわば人づくり、心づくりというものをこの機会を通して大きく取り上げて何かしらぶつけてみることが次への進歩につながっていくのではないかと思いますけれども、大臣、この辺の考え方はどうでしょうか。